歪んだ現実を直視し
更に数日が経過した。
次第にクラスに溶け込んでいった僕と姉さんは、今日、この日の放課後――。
――ついに『歪んだ現実』に直面してしまったのだ。
「……でね? ここの公式を使うと解が出るから……」
廊下を歩きながら姉さんが今日の数学の問題を解説してくれる。
「駄目だ、姉さん。さーっぱり、分からない」
「こら、そうやってすぐに諦めないの。ここさえ理解できればあとは簡単なんだから」
ポコッと頭を叩かれ痛がるフリをする僕。
そして誰もいないはずの放課後の教室の扉に手を伸ばす。
「……あれ? まだ誰か残ってる……」
教室の中に人がいる気配がして、一瞬だが扉を開けようかどうか躊躇してしまった。
何故だか分からないけど、嫌な予感がする――。
「どうしたのよ、焔くん。早く教室に入って帰る支度をしましょうよ」
「あ……うん」
姉さんに促され、意を決して扉を開ける。
教室にいたのは一人の女性生徒――井上絵里だった。
彼女は自分の机を雑巾のようなもので丹念に拭いていた。
しかし、明らかに様子がおかしい。
目には涙を浮かべ、一心不乱に机を拭いていた。
「どうしたの井上さん……? ……!」
姉さんがいち早く気づき、井上の傍に駆け寄った。
何が何だか分からなかった僕も、慌てて姉さんの後を追う。
「うぅ……。ううぅ……」
「井上さん! ……ひどい……何よ、これ……」
井上の机を見た姉さんはその場で立ち尽くしてしまった。
姉さんに追いついた僕は、彼女の脇から井上を机を覗き、同じように唖然としてしまう。
彼女の机には油性マジックのようなもので落書きが書かれていた。
『クソ』『淫乱女』『さっさと死ね』『もう学校にくんな』『自殺しろ』『首吊れ』――。
机いっぱいに書かれた罵詈雑言の数々。
……いや、これはそんな生易しいものではない。
一体誰がこんなことを……?
「……どうせ……私なんか……死ねば良いんだ……」
「何を言うのよ、井上さん……!」
井上の腕を掴み、彼女を引き寄せた姉さん。
しかし井上の目は涙を浮かべたまま虚ろで、姉さんに手を取られていてもなおブツブツと念仏でも唱えるかのように独り言を呟いている。
「もう死んでやる……お望みどおり死んでやる……私が死んだって誰も悲しまないもの。これからもずっと、私はいじめられる……。もう、耐えられない……耐えられないの……」
「……いじめ……」
僕はいつの間にか、そう口にしていた。
これは、誰かの『いじめ』……?
うちのクラスの井上は、いじめに遭っている……?
「落ち着いて、井上さん。誰がやったの? 誰が井上さんをいじめているの?」
虚ろなままの井上に根気よく声をかけ続ける姉さん。
しばらくすると、井上の視線が姉さんの視線と交わった。
「…………助けてくれるの?」
ようやく返答らしい返答をした井上。
でも、僕はこのときの井上の顔を見てぎょっとした。
――彼女は卑屈な表情で笑っていたからだ。
「うん、助けるわ。だから教えて。誰がこれをやったのかを」
姉さんははっきりとした口調でそう答えた。
姉さんは、断言してしまったのだ。
井上を『助ける』と――。
卑屈な表情で笑っていた井上が、次第に表情を変化させていく。
そして数秒の沈黙の後、彼女はこう答えた。
「……みんな……」
「え?」
井上の言葉に疑問符を投げかけた姉さん。
僕にも井上が何を言っているのか理解ができなかった。
「……クラスメイト全員……。石原先生も知っている……。2年になってから半年間、ずっと……」
「そんな……」
――井上の告白。
彼女は2年に進級したその瞬間から、2年C組のクラスメイト全員のいじめの対象となったのだ。
いじめが始まった当初は担任の石原先生や校長先生、理事長などにも相談したらしい。
しかし、誰も助けてくれなかった。
子供同士のいたずらに大人が介入するものではない、と笑って流されるだけの日々――。
「……もう、いいの。もう、私は死ぬんだから。誰も、私を助けられない。いじめは、絶対に無くならない……」
あらかた話せて気が楽になったのか。
井上はまた普段の無表情に戻り、帰り支度を始めた。
机のことはいいのかと問いかけたが、「明日の朝に石原先生が新しい机に取り換えるでしょうから」とあっけなく返答された。
もう、何もかもが煩わしいのかもしれない。
このままでは、きっと彼女は――。
「待って、井上さん」
僕たちを置いて帰ろうとする井上に声を掛ける姉さん。
……駄目だ、姉さん。
これは僕たち2人ではどうしようもない、大きな問題だ。
助けるどころか、今度は僕たちが標的にされかねない。
井上を助けてあげたい気持ちは当然僕にだってある。
でも、新参者の僕たちが安易に介入したら、それこそ取り返しのつかないことに――。
「……何よ、まだ何か言いたいことでもあるの?」
面倒臭そうに返答する井上。
そんな井上の態度などお構いなしに、姉さんは満面の笑みでこう答えた。
「ええ、あるわ。井上さん、私と友達になりましょう」
「……」
姉さんの言葉に眉を顰めるだけの井上。
そして姉さんの後ろに立つ僕に視線だけを向けた。
『こいつは一体なにを言っているの?』とでも言いたげな表情で。
「友達よ、友達。お昼ご飯を一緒に食べたり、一緒に登下校したり。勉強を教え合ったり、お買い物に行ったり。恋の相談をしたり、将来の夢を語ったりする『友達』」
「……」
姉さんの言葉。
小さい頃から、曲がったことが嫌いな姉さんの、真っ直ぐな言葉。
僕をずっと、勇気づけてくれた言葉。
僕の大好きな姉さんの、大好きな言葉――。
「僕も友達になるよ。男の友達なんて嫌かもしれないけれど、いじめなんて許せないし」
勇気を出して、井上に手を差し伸べた姉さんに感化されたのか。
それとも僕にも姉さんの10分の1でも正義感が宿っていたのか。
これから先、どういう未来が待ち構えているか予想できなかったわけじゃないのに。
それでも僕は姉さんと共に、井上に優しく手を差し伸べた。
控えめに、それでもしっかりと顔を上げ、井上は僕らの手を握った。
――これが、僕らと井上が『友達』になった瞬間だった。




