第8話 ワタリ (後)
「佐渡遥海です。女の子みたいな名前ですけど、男です」
クラス替えを経て高校二年生になったときの最初の自己紹介で、あんたはそういう自己紹介をした。「はるみ」なんていう、女の子みたいな名前をネタにして。
あんた、小さい頃は自分の名前が本当に嫌いだったんじゃない? それに耐え、慣れてきた高校生の頃に、ネタにできるようになった。なんとなくだけど、あたしはそんな気がしていたの。
でもあたしはその名前、あんたによく似合ってると思った。線の細い、華奢で大人しい優等生のあんたにぴったり。女の子みたいな名前さえ似合ってしまうようなあんたのこと、あたしはとてもいいと思った。
だから、みんなはあんたのことを「ワタリ」というあだ名で呼んだけど、あたしはたまにふざけて「遥ちゃん」と呼んだ。いつも優しそうな顔をしているあんたが、ほんの一瞬だけ顔をしかめるのを見るのが好きだったから。あんたって、怖い顔すると二割増しで賢そうに見える。
付き合い始めてからはその呼び方が普通になったでしょ。あんたは文句を言わなかったし、あたしのこともいつの間にか「槙野」をやめて「芙由子」とか「芙由」とか呼ぶようになった。ふざけて「芙由子さん」なんて言ったりね。
あたしは、あんたのとぼけた戯言が大好きよ。あんたは告白だって「付き合ってくんない」だし、クラスの子に「付き合ってんでしょ?」と冷やかされても「まあそうだねえ」なんて言ってへらへらしてばかりだった。そうやって変に堂々としているのを見るたび、あんたのこと最高だと思ったわ。
高校の仲のよかった子たちは、あたしたちの付き合いを淡白すぎる、冷静すぎると言う。確かに、表面的にはね。あたしたち、とにかくおしゃべりだから。大学一年の五月、はじめてあんたの下宿に行ったときも、一晩中ずっとしゃべってたし。
しゃべり明かした朝早く、洗い物をしてから一緒にコンビニに行ったわね。
夜明け前の時間帯、外は真っ暗闇というわけではなくて、ほんの少し明るかった。あたりはとても静かで、くすんだ水色の街を二人で歩くのは不思議な心地がした。高校時代、夕暮れ時の国道を歩いたのとは、まったく違った。
コンビニからアパートまでの道のりで、薄闇を照らす明かりといえば古ぼけたオレンジ色の丸い街灯と、自動販売機の白色電灯くらい。そんな明かりでも、このときのあたしにとっては輝きだった。
あたしたちはいつものようにくだらない話をしていた。そのときあんたは別に何かおもしろいことを言ったわけじゃなかったけど、あたしはなぜだか唐突に、あんたのこと最高だって思った。強いてなぜと聞かれたとしても、暁の闇を照らす電光が美しかったからとしか答えようがないわ。
何かが、あたしの背中を押し出したのよ。くだらない話の隙間、ぽっかりあいた小さな空白に。
「好きよ」
脈絡もなくぽろっと出たあたしの言葉に、あんたは目を丸くしていた。すごく驚いたんでしょうね。まるでクラスメイトに突然告白されたみたいな顔して、「な、急にどうした」とのけぞった。
あんたが驚くのも、わかるわ。あたしたちはずっと、「好き」なんていう直接的な愛情表現を互いに求めてはこなかったもの。あたしたちには、もっとたくさんの言葉があったから。数々の話題をあたしたちは語り合い、そのなかで頷き合い、互いを説得し合った。自分と相手を表現する言葉を、無数に交わしていた。その膨大な言葉を前に、「好き」なんて言葉はあまりにも単純で、空虚で、味気ないものとさえ思っていた。あたしたちは他にもっとたくさん、「あんたが好きよ」「あんたのことわかってる」と伝える、あたしたちだけの言葉を持っていたから。
「べつに、なんとなく? ああ、今あたし、遥ちゃんのこと好きだなあって」
「何それ、変なやつ。今まで好きじゃなかったんかい」
「いや好きだったよ。好きだと思ってなかっただけでね」
素直な本心だったのだけど、我ながら、いざ口に出してみるとちょっと意味不明かもと思った。
でもあんたは、その意味を訊かなかった。何言ってんの、とも言わなかった。
「はじめ女友達だと思ってたでしょ、俺のこと」
通じるんだ、あんた。そう思った。あたしの拙い言葉を、誤解なく理解できるんだ。
あたしは「そうだねえ、ソウルメイトだと思ってた」とおどけた。そしたらあんたは「ふん」と鼻で笑った、それはもう偉そうに、生意気に。
「俺は親友にも男にもなれるのだよ、恐れ入ったか?」
恐れ入りましたとも。
アパートに戻って、あんたは教えてくれた。高校のときの「付き合ってくんない」は、あんなの照れ隠しだよと。
「知ってるだろ、俺は限りなく普通の小心者なの」
「照れ隠しだよっていうそのカミングアウトは恥ずかしくないわけ?」
あたしの鋭い指摘にも、あんたは「それはほら、アナタ」とふざけて肩をすくめた。
「それはほら、アナタさっき俺に好きって言ったでしょ」
「それが?」
「ああゆうので気が大きくなるの。俺も馬鹿な男ですから」
暗に「嬉しかった」って言ってるんだってわかったわ。あたしは頬が緩むのを抑えられなかった。たまらず顔をそむけると、あんたは「何笑ってんだ、馬鹿にしてんの?」と悪絡みしてきた、もとい、じゃれついてきた。
何よ、あんたって照れ隠しが上手なだけなんじゃないの。高校のときから、そうだったんだわ。
遥ちゃん、やっぱり、あんたは最高。
そしてそれ以上に、とても愛しいと思った。他の誰でもない、佐渡遥海という、おしゃべりで照れ屋の、ただただ平凡な一人の男の子のことが。
――ねえ、あんたは誰なの。
「井戸を掘るボランティアでさ」
何をしてたの、というあたしの問いに、あんたは真剣に答えた。不器用に言葉を選びながら、ゆっくりと、誠実に。
「何かしたかったし、遠くへ行きたかった。俺、今まで何にも知らなかったし、何にもやってこなかったから。ただ、大学の授業受けて適当にだらだらしてるのが、なんか、馬鹿らしくなって。それが普通なんだろうけど、俺は普通にやると、普通以上にダメになる気がして……」
もう、何を聞いても何を見ても、あんたは佐渡遥海ではなかった。違う、全然違う。あんたなんか、嘘よ。
遥ちゃんは、そんな朴訥なしゃべり方しない。もっとすらすら、楽しそうにしゃべるのよ。あんたの話は、やたら思いつめていて、自分のことばっかりで、何にもおもしろくない。遥ちゃんは、そんなふうに、自分のやり方に自信をなくして、理想に走ったりしない。そんな不器用な悩み方しない。自分のやり方で効率よくすべきことをこなす。そうしながら、自分で肩の力を抜いて自分を保つわ。大学のことやバイトのことをきちんと楽しめる人よ、取り憑かれたみたいにあちこち飛び回らなくてもね。
奇抜な、変わったことだってしないわ。変な髪型もしないし、派手なものも身につけない。だって似合わないもの。オシャレ男子でもないし、変人でもないから。そんな、汚れたジーパンとよれよれのシャツで電車に乗ったりしないわ。無造作に束ねた、だらしのない長さの髪だって、おかしい。遥ちゃんはさっぱりとした無難な髪型の、地味だけど小ぎれいな男の子よ。
遥ちゃんは器用で手抜きが上手だから、学校をちょっとサボるとか、単位を落としてしまうくらいなら、ありうる。要領のいい人でも、失敗することはあっていい。最後には帳尻を合わせるんだから。それなのに、端からそれを放り出して、休学届まで出すなんて。受験勉強して合格した大学の、何がそんなに気に入らないの? 浪人して入る人だっているような学校でしょうが。たくさんの人が憧れて、羨ましがるような大学なのよ。そこに入るために勉強していた遥ちゃんが、自分が恵まれてるってことに気づかないわけがないわ。遥ちゃんは、普通の生活に誠実で、ちょっとしたことにも楽しさを見つけ出せる人よ。大学の授業のどれもがつまらないなんて、そんなはずない。知的好奇心は旺盛な人だもの。勤勉じゃないけど、学ぶことは好きだったはずだもの。あたしと、勉強の話もたくさんしたんだから。
もしも仮に、自分のやり方に嫌悪して、人の役に立たなくちゃとか思ったとしても、遥ちゃんはいきなり海外に行ってしまうような、そんな行動的な人じゃなかった。テストで無難な成績をとればもらえる単位を、あっさり捨てるような大胆な人じゃなかった。海外に行くことがあっても、ちゃんと計画を立てて、学校の試験が終わってから休暇中に行く。あたしの知ってる遥ちゃんなら、それぐらいの両立は涼しい顔して器用にやってのけるわ。だって、大学に通うのが普通だもの。遥ちゃんは、普通のことを普通にきちんとやる人だったもの。高校の頃は、家族にも先生にも、心配なんかかけなかったじゃない。どんなにふざけていても、どんなに生意気な口を利いても、遥ちゃんは当たり前の気遣いが当たり前にできた。人を待たせたりしないし、人を怒らせるようなこともしない。佳弥ちゃんから電話がかかってきたとき、あたしがどれだけ心配したか、腹を立てたか。あんたにわかる? わからないんでしょう。あの人たちの心配が、どうしてわからないのよ。
「なんで、電話したの」
どうして、あたしなの。それも飛行機を降りた慌ただしい中。
あんたは、顔を赤くして照れながら「芙由子が好きだからだよ」とくそ真面目に言った。痛々しくて、しょうがなかった。ふざけたり、とぼけたりされる方が、ずっとマシだと思った。
「芙由子がいるから、俺は出ていけるし、帰ってこられるんだよ。どこにいても、芙由子がいるって思ったら平気。安心する。空港まで帰ってくると、真っ先に会いたくなる」
こんな甘い言葉だって、嬉しくもなんともなかった。
あたしの知ってる佐渡遥海の「好きだ」は「付き合ってくんない」だったし、「かわいい」は「あんまり美人にならんでいい」だった。「会いたい」なんて言わずにあたしを誘い出した。強がって、「恐れ入ったか?」とあたしをからかった。
そのあんたが、「芙由子がいるっていうそれだけでいいんだよ、俺は」なんて言ったから、あたしはどんな顔をしたらいいのかもわからなかった。
あんた一体どうしちゃったのよ?
今のあんたは、ただ、自分を待っててくれる子がほしいだけの、自分勝手で雑な男にしか見えない。予測不能なことをして周囲を振り回してばかり、生活のバランスもめちゃくちゃで、遠くばかり見てる。まるで一カ所で落ち着いて暮らすことができないみたいに、ふらふらしてる。勉強もしなければ、好きだったはずの漫画や文学も読まない。部屋に汚く積んであるだけ。不器用なしゃべり方も真摯な言葉も、あたしにはかえって浮ついて聞こえるわ。
もう、違う。何もかも違う、あんたは違う!
ようやくやりたいことを見つけたんだとあんたは言った。アフリカに井戸を掘りに行くことがどれほど自分にとって意義あることで、大切な経験になったかということを語った。休学届を、どれほど真剣な気持ちで決意して出したかということも。
日焼けし、かさぶたのある顔は、年を取ったように疲れて見えた。そして、男くさく見えた。手と一緒ね。そんなに白くもなくて、すべすべもしてなくて、ああ外で身体使ってるんだなあという人のもの。本の似合う美しい手は、重たいシャベルやバケツを持つ武骨な手に変わってしまっていたし、へらへらと気楽そうだった表情はその顔のどこにもなく、遠くの何か大きなことを考えているかのような、深遠で生真面目な色を帯びている。
遥ちゃん、あんたはこれまで、何か一つのことに打ち込むような人ではなかった。そのかわり、何かを切り捨ててしまうようなこともなかった。いろんなことをバランスよく大事にした。無難にこなす程度の努力をしていた。
でも、今のあんたには、何か明確な道筋があるみたい。あんたの周りものに、優先順位がついたみたい。他のものには脇目もふらず、そこに向かっているみたい。あんたは自分のやりたいことのために容赦をしなくなった。あたしは、これまでのあんたが形だけであろうが一応は大事にし、人並みにやってきたことを、どうでもいいことみたいにあっさり放り出してしまっていることが怖いの。迷いや執着が失せてしまったようで。以前のあんたを、否定しようとしているみたいで。
だからあたしは信じられないの。人って、こんなにも変わるものかしら。あたしは疑っているわ。あんたは、まるで根本的な考え方が変わってしまったみたいに見える。信条や生き方が違って見える。これっておかしくない、ここまで変わるなんて? あんたという人格の本当に奥深く、核心的な部分が変わらなければ、こんなにまでなってしまうことはないんじゃないの? やりたいことが見つかったからって、根本的な習慣や人格までも、変わってしまうものかしら。本性まで変わるものかしら。ほんの一、二年の間に。今のあんたの生き方は、あたしの知ってる佐渡遥海にできるものとはどうしても思えないのよ。
そうしてあたしは気づいたの。――あたしが思っていた佐渡遥海は、本当の佐渡遥海ではなかったのだということに。
ねえ、あんたは嘘をついていたんじゃない? あたしや、周囲のみんなに、本性を隠していたんじゃない?
あたしの好きだった人は、奇抜でもなければ、ものすごく優秀なわけでもなかった。並外れた秀才でもないし、ぱっと目立つような二枚目でもない。変わった経歴もないし、すごい才能があるわけでもないし、努力家とも言えない。女の子みたいに言葉遣いの優しい話好きで、へらへらとふざけてばかり。人畜無害であたりさわりのない、良識ある気配り屋。周囲を基準にして無難なラインをきわどく守っていく、器用な小心者。真面目にしているのは最低限のことだけ。熱意も大志もない怠け者だから。まともすぎるほどまともで、平凡ないい人。きっと、無難すぎてつまらないくらいの。
それが、あんたの本性だと思ってた。でも、そうじゃなかったのね。だとしたらもう、あたし、あんたのことがわからないわ。あんたとあたしに、共通点なんかない。
遥ちゃん。あんたのこと、誰かがつまらないと言ったって、あたしは構わなかったのよ。そういうあんたのことをあたしは好きだったんだもの。適当に真面目な、小心者の遥ちゃんがいい。他人に認められるような才能や努力なんか、いらない。そんなものなくったって、あたしがあんたを認めてあげるから。一番に愛してあげるから。遥ちゃんは、つまらない人でなくちゃダメなの。
――だって、あたしがそうなんだもの。
あたしには、特別に大事なことなんかない。信念も、目標もないわ。ただ、やらなくてはならないことを、無難にこなすだけ。高校生の頃と、何も変わらない。熱心じゃないから、広く浅くいろんな場所になじむことができる。人並み以上のことは何もしない。目立たないように、何事も無難なレベルに達する努力をし、それを越えないように手を抜く。器用だの真面目だの、聞こえのいい言葉で、無気力な自分をごまかして笑ってる。
あたしは大学でも平凡な成績を取り、バイトもサークルも適当に両立している。どれも、必死にならなくてもやっていけるものばかり。あんたから連絡があれば休むのもわけないくらい、薄っぺらいものばかり。なんであたしが、あんたの帰国に合わせた勝手な日程に付き合えたと思ってるのよ? どれも休もうと思えば簡単に休めるからに決まってるでしょう。
高校生の頃、あんたは一緒に笑ってくれた。あたしと、楽しそうに話をしてくれた。小さな手抜きを楽しむ真面目な小心者であることを恥じなかったわ。平凡でつまらない人間でいることを許して、あたしを甘やかしてくれた。あたしをあんたにつなぎとめていたのは、あんたの無難さや地味さ、個性のなさ。あたしはあんたを通じて、自分のことを愛していただけなのよ。インドやアフリカに嫉妬してるなんて、全然違う。あたしは、そんなかわいい女の子じゃない。あんたに構ってほしいわけじゃない、自分と同じつまらない人間に安心させてほしいだけ。ただの、ずるくて無精な小心者なの。だから、あたしと同じじゃないあんたは、見たくない。
今のあんたは、生き生きしてる。休学届を出すほど夢中になれることがあるんだもの。室内にこもって勉強するよりはるかに価値のあるものを、あんたは知ったんでしょう。本当は、あの田舎の窮屈で素朴な生活なんかじゃ物足りない、小さな手抜き程度の楽しみなんかじゃ満足できない。自分で見つけた大事な何かのために大胆になれる人だったのよ、あんたは。一人でどこへだって行くことができる人。やせっぽちだったあんたが汗を流して掘った井戸のおかげで暮らしている人がこの世界のどこかにいる。日に焼けたくましくなったあんたをこそ、傷だらけのかたい手をこそ、本当は愛しいと思うべきなのよね。無気力や怠惰から抜け出し、向上心に従う自由で個性的なあんたを、愛するべきなのよね。
わかってるわよ、それくらい。だけど、あたしにはできないの。
信じたくないのよ、向上心にあふれた、本当に真面目になってしまったあんたのことなんて。あんたの口から、不器用で誠実な、本気の言葉なんて聞きたくない。正しかろうが本音だろうが、響かないのよ、そんな言葉。
あたしたち、通じ合う言葉はもうないわ。
だからわからない、あんたはどこへ行くのかしら。
知らない場所へとひとり渡りゆくあんたのことを、あたしはもう待たない。