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遠くて青い  作者: 由佐
7/23

第7話 お見舞い

 クラスメイトの小林栄士(こばやしえいじ)が学校に来なくなった。

 入院、したそうである。

 小林くんの体が弱いことは、クラスみんなが知っていた。体育はほとんど見学だったし、病院に行くという理由で欠席も早退も多かった。給食のあと必ず薬を飲むことも、そのため彼の水筒に入っているのが麦茶じゃなく水だってことも、みんな知っている。

 細身で色白の彼は決して健康そうには見えなかったけど、それでも確かに同じ教室で一緒にいた。それが、ぱったりと学校に来なくなった。

「おれ今日、栄士のお見舞い行くんだけど、古田(ふるた)も来ねぇ?」

 そう言って古田を誘ったのは、クラスメイトであり古田と同じサッカー部員でもある、友だちの(あつし)だった。

 淳の発音した「えいじ」というのが、一瞬、だれを指すのかピンとこなかった。ただそれがとんでもなく失礼で気まずいことなんだという意識がぶわっと込み上げてきて、古田はそのことを隠すように、あわてて「ああ、行く」と快い返事をしてしまった。

 淳は小学校のころからクラブチームでサッカーをやっていて、部活でも古田の学年では一番うまい。経験があるのはもちろん、もともと運動神経もすごくいいんだと思う。運動会ではクラス対抗リレーにも部活動対抗リレーにも、両方アンカーで出るようなスポーツマンだ。当然、クラスでも人気者。先生たちの会議じゃなく、クラスの投票で学級委員に選ばれるタイプ。みんなが「あつし」と名前で呼ぶ。

 だけど、小林栄士はそうじゃない。みんなにとって小林栄士は、淳が呼んだみたいな「栄士」じゃなくて、「小林くん」だ。他の男子を遠慮なく呼び捨てにするような女子も、小林くんだけは頑なに「くん」付け。だから淳の呼び方に一瞬取り残された。後になって、そういえば淳は小林くんのことを日頃から「栄士」と呼んでいたのを思い出して、納得。

 みんなが「小林くん」、とちょっと他人行儀なのは、彼が病弱だから気をつかっているというだけでもなさそうだ。小林くんは落ち着きがあって、何よりとっても頭がいい。病弱なせいか大人びているせいかはわからないけど、小林くんは大声でふざけたりはしゃぎまわったりしないし、無口ってわけじゃないけどそのしゃべり方は優しくて静かだ。病弱な優等生にたいする気づかいと気おくれが、ごっちゃになっているんだと思う。みんな小林くんに一目置いているけど、そのかわり一歩引いてもいる。そんな感じ。

 例外は、古田に思いつくかぎりでは淳だけだ。なんかよく知らないけど、淳は小林くんと個人的に仲がいいらしい。

 淳と小林くん――正直、なんか合わない組み合わせだと思った。

 だって二人はタイプが全然ちがうから。

 今まで淳が小林くんにたいして遠慮がないのは、単に淳がだれにたいしても遠慮がないからなんだと漠然と考えていたけど、どうやらそうでもないらしい。部活が休みになるテスト期間、その初日の学校帰りにお見舞いに行こうというわけだし。

 二人は友だちだったんだなあ。十一月にもなってやっと実感する。ふだん淳は古田たちと一緒にいるから、あんまり考えたことなかったけど。

 ――で、淳はなんでおれを見舞いに誘ったんだ?



「よう、栄士」

 病室のドアを勢いよくスライドさせて、淳はずかずかと先に中へ入った。

 古田も続いて声をかけ中に入ったが、勢い余ったドアが大きな音を立てないかと思ってとっさに手を出した不自然な姿勢で、ドアが静かに閉まるのを確認してから、ぎこちなくベッドに歩み寄った。

「やあ、淳か。あ、古田くんじゃないか、いらっしゃい」

 小林くんは少し背を起こしたリクライニングベッドにもたれ、寝ていると言っていいのか座っていると言っていいのか、中途半端な体勢でいた。手元に広げていた本を閉じてこちらをふり向いた顔は、半分が西日で影になってよく見えない。

「なんだ、元気そうじゃねぇかよ」

 淳は笑って、「すっかり寝たきりかと思ってたぜ」と余計なところまで同じ調子で続ける。

 おいおい、それは病人をけなしているのか、それとも心配しているのか。

 ふだんならでかい声でツッコミを入れるところだが、古田は遠慮した。ここ病院だし、小林くんの前だし、なんか言いづらかった。

 というか、この三人で話すのははじめてだし、一体どういう調子で小林くんに接していいのやら。予想はしていたけれど、気まずい。

 ベッドのすぐそばに、淳と並んで立つ。

 近くで小林くんをまともに見て、古田はどきりとした。

 西日でできた影のとれたその顔が、古田の印象にあるよりも青白く、やせていたからだ。

 驚きをまぎらわすように視線を落とすと、今度は体につながれた点滴のチューブが目に入った。

 ああ、そうだ――。

 わかりきっていたことを、ここまで近くに寄ってはじめて、実感する。

 小林くんは入院しているんだということ。つまりは入院するほどの病気で、だから学校にも来ないでずっとこのベッドにいるんだということ。

 淳のいつもと変わらない陽気さのせいで忘れていた。

 この部屋に充満する、病院独特の薬品臭さが、今ごろになって古田の鼻を刺激する。清潔すぎる匂い。これは、病気の匂いだ。古田の浅い経験の中から、インフルエンザで点滴を打たれたときの記憶が掘り起こされる。古田が最後に病院にきたのは、去年の冬だった。病院とは、古田にとってはほとんど丸一年、縁のなかった場所なのだ。

 でも小林くんは今、ここを離れられない。点滴のチューブや病院のスリッパが、小林くんをここに縛りつけているみたいに。

「いや、実際ほとんど寝たきりみたいなもんだよ。淳がもってきた漫画、全部読み終わったから次よろしく」

 小林くんの声音に、はっと我に返った。

 同時に、今度はいい意味で、ちょっとびっくりした。

 こんな感じなのか、小林くんというやつは。

 勝ち誇ったような笑みを浮かべ、棚に積んである大量の漫画本をあごで指す。これ全部読んだぜ、どうだ、という顔。

「はあ? おまえ、もう全部読んだの? 早すぎ。持ってきたの一昨日だぞ」

 淳が目を丸くしたり眉を寄せたり、何種類もの顔で驚く。淳は人にちょっかいかけるのが好きなやつだけど、一番からかい甲斐のあるリアクションをするのは淳本人だ。

「うん、おもしろかったから。これ、古田くんも読んでる?」

「あ、うん。読んでる。単行本も集めてる」

 小林くんが一冊とって見せてくれたのは、古田も持っている、今はやりの漫画。最新刊は来月発売だけど、古田たちは部活で雑誌を回し読みしているから、最新のところまで知っている。

「……なんか、意外」

「そう?」

「小林くんは難しい本読んだり勉強したりしてると思ってたから。さっきもふつうの本、読んでたし」

 古田たちが病室に入ったとき小林くんが広げていたのは、文庫本だった。古田はほとんど手に取ったこともない。小林くんはそういう、「読書をしろ」と言われたときに読むところの本しか読まないような気がしていた。漫画とかゲームとか、想像できなかった。

「ふっ」

 古田の言葉に小林くんが小さく吹き出したのと同時、淳が盛大に笑った。

「あっははは! 古田、それはないぞ」

「どういうこと?」

「だってこいつの親が置いてった本、見てみな」

 見てみなと言いながら、淳は棚に並んだ文庫を自ら手に取ってぱらぱらめくる。しおりをはさんだところでページが止まる。本の、はじめの方で。それを古田に見せつけ、次々に本を取ってはしおりの位置を確かめて見せた。

「ほら、十四ページで挫折。それでこっちは……お、二十ページに到達。でも見てろ……ほら、これなんかプロローグ終わってない。七ページだ。これはひどい。いったい何冊読みかけなんだ? つうか、読む気ないだろ」

「あはは、わかりますか」

 小林くんは、淳の勢いを受け流し、平然とすっとぼけた。

「わかる、わかるよこのしおり見たら。そもそも、あんだけハイペースで漫画読んでたら本読めるわけねぇだろ。どんだけ暇人?」

「淳ぐらいかな?」

「おれは暇人じゃねぇよ」

 ばしっと淳がはたいたのは、小林くんの体にかかった毛布――の端のほう。毛布の下に小林くんの体はなく、シーツがあるだけの空っぽの部分。

 ここまで一連のやりとりの間に、淳は本を出しては広げ、小林くんは閉じてはしまって、と不毛な流れ作業が同時進行。坦々としたくだらなさに脱力する。古田は笑ってしまった。遠慮や気まずさが吹っ飛んだ。

「いやいや、淳は暇人なんだろ」

「おい古田、おまえは俺と同類のはずだ」

 淳ってほんと、小林くん相手でも変わらないんだな。

 古田相手でも小林くん相手でも、同じように半目で睨みつけ、からかわれたら唾を飛ばして反撃する。荒っぽくて無遠慮で騒々しい。たいてい、いつでもどこでも、だれに対しても。

「ああもう、淳が来るとうるっさいなぁ。ここ病院、そしておれは病人」

 小林くんの声は、ちっとも責める調子じゃない。淳をからかっていて、楽しんでいる。古田と同じだ。クラスの他の男子どもや、部活の仲間と、なんにも変わらない。バカな話で盛り上がり、くだらないことに笑う、ただの十三歳。

 大人びた優等生、病弱なクラスメイト――小林栄士は、きっと、それだけで言い尽くせない。

 このひととき、古田はここが病院だってことを忘れていた。ベッドの上の小林くんと、目線の高さが同じになった気がした。本当は、ベッドの前に立った古田と高さが合うはずないのだけど。



「栄士とは幼稚園から一緒なんだよ」

 病院からの帰り道、淳は小林くんとの関わりについて少しだけ話してくれた。

 二人が仲いいのが意外だった、と古田が感じていたことをそのまま淳に打ち明けたからだった。

 二人はタイプがちがうじゃないかと指摘したら、淳はそりゃそうだと笑った。

「おれ、頭よくないしなー」

 淳が、もっとも「ちがう」と考えているところはそこなのか。古田にはそれこそ意外だった。淳は学力や成績のことなんか気にしていないと思っていたから。

 ちょっと間があってから、淳は「ま、おれのテストは栄士と団体戦だからな。あいつに一から説明させて、あいつの授業を受ける。あいつ、勉強のことはおしゃべりだよ」と早口に付け足した。

「そうなんだ。まあ、今日の感じ見てたらわかる気がするけど」

 思えば、古田は淳と勉強の話なんかほとんどしたことがない。

 古田は、特別できるってわけじゃないけど、どちらかと言えばできる、ってくらいの中途半端な成績だ。淳よりはいいけど、クラスで一番や二番にはとても及ばない。淳より点数がいいからじゃれあうには難しく、だからといって淳を冷やかせるほどたいしたものじゃない。勉強を教えるなんて、もってのほかだ。

 中学に入学してすぐに淳と仲よくなったのは、部活によるところが大きかった。淳が小林くんに勉強を教わるように、古田は淳にサッカーを教わった。ともに走り、蹴ることで、そのあとの会話や遊びが生まれた。こうして、日の落ちたあとの歩道を並んで歩く時間が生まれた。淳の親友の、本当の姿を知る機会までもが生まれたのだ。

「……おれさ、小林くんが入院するほど体が悪いなんて、知らなかった」

「知りたくなかったか?」

 淳に訊かれ、即座に首を横に振った。

「いや。そうじゃない」

 今日まで、体育を見学したり給食のあと薬を飲んだりする小林くんを見て、病院の匂いや点滴の(くだ)をリアルに連想したことは、一度もなかった。病弱な優等生――「病弱」の意味なんて、考えもせずに使ってた。他のクラスメイトと同じだ。おれだって、自分が小林くんのことをよく知らないのを、小林くんの病気や賢さのせいにして、敬遠することでごまかしてきたんだ。

 ――「知らなかった」じゃたりない。甘すぎる。本当は、「知ろうとしなかった」。そう、自分できつく認めなければ。でなきゃおれは、またごまかすだろう。

「今まで、小林くんと話したことなかったから。今日話せて楽しかった。ついてきてよかったと思ってる」

 淳は口の片端をくいと上げて、小さく頷いた。適切な言葉が出てこないけどとにかく漠然と肯定したかったというような反応に見えた。

 それから淳は歩幅を急に大きくして、古田の半歩ほど前を歩きだした。

「あいつな、今回の入院で手術するんだって」

 あまり、大きな声ではなかった。淳の声にはちがいないが、いつもとはまったくちがって聞こえた。

 少しうつむいた淳の顔は見えなかった。古田は何も言わず、ただ淳の耳の後ろのくぼみのあたりを見ていた。

「失敗して死ぬような手術じゃないけど。でも、うまくいくかどうかで、これからの治療が楽になるか大変になるかが変わってくる。うまくいけば、たまに通院するくらいですむようになるかもしれないし、運動も少しずつできるようになるかもしれない。うまくいかなかったら、病気がひどくなって今よりも入院が増えるかもしれない。ま、ちゃんとしたことは、おれもよくわからないけどな」

 地面に落ちた枯れ葉を踏む音がする。足元から錆びていきそうな、いやな音だ。足音で話を邪魔しないように、淳のあとをついて歩く。

「手術がうまくいくかどうかには、あいつの体力とか気持ちとか、そういうのが大事なんだって。体力は今さらすぐにどうこうできないだろ。今から鍛えるのは無理。そのかわり、ほっといてもすぐに衰えるってこともない。でも、気力はすぐ変わる。もういいやってなると、体が手術をがんばれなくなるかもしれない」

「うん」

「手術がうまくいって学校に戻りたいって、どれだけそう思えるかだと、おれは思う」

「それが気力になる?」

「そうだ。元気になったらいやでも学校に戻るんだから、あいつにとって、学校は最高の場所じゃなきゃいけない。あいつが楽しくやれるような、戻りたいって思えるような。おれだって知ってる、あいつはクラスのみんなにとって『すごいやつ』だけど、『かわいそうなやつ』でもあるってことぐらい。そういう意味で浮くのはしかたないし、もちろんみんなも悪気はない。むしろ、みんなはあいつを心配したり(いた)わったりすることで、あいつを支えてる。すごいって思われてるから、悪意を向けられることもない。浮いてはいるけど、あいつはちゃんとクラスになじんでると思う。うまくいってる。でも――」

 クラスの中心いる淳が、思ったよりずっと、クラスの空気のようなものを敏感に感じとっていることに驚く。クラスの空気そのものにすら思える淳が、こんなふうに一歩引いた目線を持っているなんて。

「――でも、病弱じゃなくなったら? 万が一、勉強で一番じゃなくなったらどうなる? ただ浮いたクラスメイトになっちまう」

 みんなが知ってる小林栄士の“看板”が、消えてしまったら。

 淳が心配しているのはそのことだった。みんな、小林くんの表立った特徴しか見てない。今までの古田のように、『病弱な優等生』という看板しか見ていないのだ。小林くんは頭がいいからとか、小林くんは体が弱いからとか、クラスメイトの小林くんに対する接し方にはいつもその前提がある。その前提でもって、小林くんはクラスの一員になっている。淳はそのことに気づいていて、心配しているのだ。いじめられないってことと、仲がいいってことは別だ。本当の小林くんの笑った顔やおしゃべりを、みんな知らない。

 そんな場所に、小林くんはすすんで戻りたいと思うだろうか。手術を乗りきるモチベーションを、感じることができるだろうか。

「病気や成績なんか関係なく、認められたらいいと思う。テストの順位の発表がなくて、あいつが毎日学校に来て、行事にも参加できたら、絶対わかる。あいつは面倒見もいいし話もできる。笑ったりふざけたりできる。ほんのちょっと頭がよくて、学校にいられる時間が短いだけだ。学力がちがっても一緒に勉強はできるし、走り回れなくったって一緒に遊んで楽しいやつなんだ。それがわかる、あいつと仲のいいやつがクラスに増えたら、あいつにとって学校に戻る価値は上がるはずだ。だから今日、古田をつれてこようと思った」

 手術が終わって帰ってきたときの、居場所をつくりたかった。手術がうまくいった方がいいんだって思わせる材料を集めたかった――それが、淳の意図。

 なぜ淳が自分を誘ったのか不思議に思っていた。その理由が、やっとわかった。

 古田は、淳と普段から一緒にいることの多い、部活仲間でありクラスメイトであり、友だちだ。淳の、自分にとって仲のいい者どうしをまずつなぎあわせようという発想は、単純でわかりやすい。

 クラスに、友だちを増やすこと。クラスメイトに、本当の小林栄士を押しだすこと。こうすることによって、居場所をつくる。学校の教室を、戻りたいと思える場所にさせる。

 手術がうまくいけって、小林くん自身に強く思わせることが大事なのだ。淳や古田やクラスのみんながいくら、手術がうまくいくようにと祈っても、きっと直接的に働きかける力はほとんどないだろう。でも小林くん本人がそれを強く祈ることは、小林くん自身の力になるのだ。淳はそれに気づいて、古田を病室につれて行った。

 古田には、言葉もなかった。

 なんてやつだ、なんてやつだったんだ、こいつは。そう思った。淳らしくて、そのくせびっくりするほど意外で、でもやっぱりもともと自分が知っていた淳なんだと納得もするような、不思議な気持ちだった。

 気分が高揚しているのか消沈しているのか、それすらもわからないほど、頭の中には言葉になる前の感情が浮かんで渦巻き、あふれては消えていった。

 今聞いた淳の言葉が頭に響いていて、さっき病室で会った小林くんの顔も浮かんだ。点滴のチューブ、水を入れた水筒、教室で騒ぐ淳、枯れ葉を踏む足音、小林くんに声をかけるクラスメイト――ばらばらの記憶がごちゃ混ぜになって、いっせいに迫ってくるような感覚。頭の中におさまっているはずの記憶は、逆に古田を飲み込んでしまいそうなほど膨大に思えた。この中には、古田がこれまで気にもとめなかった事柄がたくさん含まれている。つかみきれないほどの物や、言葉や、動き。さらにそれらに隠れた、感情や、意識や、考え。これらの事実すべてが、古田を圧倒した。

 ああ、おれは何も知らなかったんだ。

 古田は思い知った。今日、何度それを痛感したか。

 自分は、毎日会う相手のことさえ、よく見えていなかった。学校の教室やグラウンドばかりの、限られたせまい世界。そこにしっかりと根を張って、全力を傾けて生きているつもりだった。まわりを見、友だちを思いやり、いろんなことに気を配って、十三歳なりの世界は密にできていると思っていた。

 しかし、自分のせまい世界は、深くもなかった。すべてを知るには世界はあまりに広くて複雑だと漠然とわかっていたが、それは一部には、単に自分の目や手の届く範囲がせまいせいだったのだ。今、世界の広さじゃなく、自分の小ささを感じている。

 それに引きかえ、淳は。

 淳は、荒っぽくて無遠慮で騒がしい、クラスでも部活でも人の輪の中心にいる人気者。こいつが人気なのは、ただサッカーがうまくて派手好きだからじゃない。努力家で、友だち思いで、気配り上手。この優しい乱暴者を、みんなが認める。サッカーがうまいのは、小学校のころからずっと練習を続けているからだし、みんなに好かれるのは淳がみんなを好きだから。無遠慮に見えるのは、みんなの本当の気持ちや性格を知って、屈託なく直接に関わるから。それを、古田は知っていた。好ましく思っていた。改めて思い知らされて、驚き、納得し、尊敬した。淳はすごいやつだ。

 でも、すごいと言ってる場合じゃない。小林くんを本気で心配する、淳の姿を目の前にしては。

 友だちの居場所をつくりたいという、切実で、余裕のない、心からの祈り。淳は自分の力の及ばないのをもどかしく感じている。淳ひとりでは、小林くんが教室に戻る理由にはたりないと考えている。そんなことはないと思うけど、古田がそうなぐさめたって、淳の気持ちも小林くんの手術も、なにも変わらないだろう。

 なにか、ないのだろうか。自分たちにできる、淳の意図を手伝う方法は。

 淳は友だちだ。

 だから、淳がやろうとしていることは、惜しまずにやりたい。一緒に。

「鶴を折ろう」

 帰り道が別れる曲がり角で、淳に言った。古田の平凡な頭で思いつける、精一杯のこたえだった。

 淳は急な提案に戸惑って、「え?」と足を止めた。

「鶴だよ、千羽鶴。小林くんの手術がうまくいくように」

「いや、そういう願かけはべつに」

「ちがうよ、願かけじゃなくてさ。クラスみんなで折ったのを渡すんだ、小林くんに。帰ってきてって意味で渡すんだよ。みんなが小林くんと話したがってる、小林くんを待ってるって、そういう意味の鶴。小林くんのために、みんなが時間を割く。鶴を折るあいだ、みんなが小林くんのことを考える。真剣に。そういう時間をつくるために折るんだ。鶴を渡して、小林くんに、みんなを待たせてるってことをわからせる。戻らなきゃって思わせる」

「おまえ……」

「どうだよ」

 小林くんが戻りたいと望む、その理由をつくりたいと思う。そして、小林くんをもっとよく知りたいと思う。友だちに、なりたいと思う。

「やろうよ、淳」

 家に帰る道を変更して、二人で文房具店に寄った。なるだけたくさん紙の入った折り紙を、お互い一セットずつ買った。

 明日学校に持っていき、先生やクラスのみんなに相談しよう。そう打ち合わせて淳と別れた。

 古田は寒さに肩を震わせながらもゆっくりと夜道を歩いた。(うち)の夕飯の時間はとっくに過ぎていた。テスト勉強もしてないし、帰ったらたぶん怒られる。

 だけどそんなことは気にするものか。今はもっと大事なことで、頭がいっぱいなのだから。



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