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遠くて青い  作者: 由佐
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第4話 待たせた朝


 信号が赤に変わる。すぐに大量の車が流れ出したこの大通り、勢いまかせに一歩行者が信号無視をすると瞬く間に事故に直結するのは目に見えている。高藤(たかとう)はいらだちとともに足を止め、学生服の襟元をゆるめておとなしく呼吸を整えることにした。

 今月に入ってからは気温も下がり、今朝は涼しい風も吹いているとはいえ、朝っぱらからこんな全力疾走をしては、そのありがたみを感じる謙虚さも削がれてしまうというものだ。こめかみを伝う汗の感触に不快さが増し、急いでいるのになかなか変わらない信号へのいらだちも、いっそう募る。

 高藤の家から中学校までの道のりのほとんど真ん中に位置する小さな交差点、老舗(しにせ)の和菓子屋のある角が、友人である瀬田(せた)との待ち合わせ場所だ。ここからその交差点までまだ距離があるが、腕時計はすでに待ち合わせ時間である七時四十五分を指している。八時からは生徒指導の遅刻チェックに引っかかってしまうため、それを余裕で避けられるこの時間に待ち合わせをしているのだが、高藤はたった今その待ち合わせに遅刻した。

 ごめん、瀬田。

 心の中で謝りながら、信号が変わったのを見て横断歩道を走り出す。

 こんな待ち合わせは、ただの習慣だ。待ち合わせに片方が姿を現さなければ、もう片方は先に行けばいいのだ。遅刻した方を待つ必要はない。だから、ここからは無理に走らなくてもいいんじゃないかと高藤は思う。もうここから、こんな全力疾走しなくても、少し走る程度で学校には遅刻しないで着けるだろう。どうせ教室で一言謝れば済むのだ。そんなことは目に見えている。

 長い直線の道の先、和菓子屋の古めかしく立派な看板が、小さくそのシルエットを見せる。遅刻はそろそろ五分を超えようとしている。学生にとって朝の五分は大きい。瀬田はまだいるのか、いないのか。自分なら待たない、と思う。

 しかし高藤は、相手が瀬田だから、速度をゆるめることができない。駆ける足を止めずに走る。

 この違和感も、視力が追いつく距離にまで待ち合わせ場所が近づいたとき、いったん置き去られた。

 和菓子屋の看板の横、高藤と同じ黒い詰襟を着た背の高い人影は、間違いなく瀬田だった。一瞬、時間がいつもどおりで、今こそ本当の七時四十五分なのではないかと思われた。高藤は思わず腕時計を確認したが、当たり前のように七時五十二分を指している。――わかってたけどな、と自分に毒づく。

 瀬田はあくまでも普段どおりで、高藤に声の届く距離になっても急かして呼んだりしない。高藤は瀬田のところまで来て、ようやく足を止める。

「ごめん、瀬田! まだ、待ってたのか……っ」

「うん。そんなに息切らして、珍しいじゃんか」

 瀬田はのんびりと、かすかに笑いもしながら、膝に手をついて肩で息をする高藤を見下ろしている。待たされたことを理解していないのではないかと思えるほど、間が抜けた態度だ。

 高藤は荒い呼吸と高い心拍数が落ち着くことも待たず歩きだし、率直かつ簡潔に事態を説明する。

「悪い、お前に借りてたノート忘れそうになって、途中で取りに帰って、遅れた」

「べつに今日なくても困らないし。それに、そんな全力で走らなくても、俺あと五分ぐらいなら気楽に待ってたよ」

 なんだ、こいつ。

 陽気にさらりと受け流された高藤は、すぐに返事が浮かばず、ただ黙って息を整えた。呼吸がとりあえずは落ち着いてから、高藤はもう一度「ごめん」と謝ってから言った。

「遅れたときは待ってなくていいよ、おまえの調子じゃ遅刻しそう」

「遅刻しそうだったら一緒に走ればいいだろ」

 陸上部のお前とは一緒に走りたくないよ、という冗談を、高藤はこらえた。

 高藤があの大通りの交差点から走るのをやめて普通に歩いてきたら、それでも瀬田はここで待っていたに違いない。

 なんというか、こいつは本当に、お人よしの天然だな。

 走っていたときのめちゃくちゃだった頭の中の違和感が、すっと消えていく。自分はどうして走っていたのか。気づいたというよりは、納得したという感覚に近かった。自分はわかっていたのかもしれないと高藤は思う。

 あの交差点で歩いても、自分は遅刻をしないぎりぎりの時間に学校に着けた。だけどそこを無理に走ったのは、瀬田のお人よしを知っていたからだ。

 待たせて悪いと申し訳なく思いながら、どうせあいつは待ってるんだろうな、と遅刻した身には不相応な苦笑いがでる。

 あいつお人よしだから、という好感と呆れ。それを、この奥ゆかしい友人は「気楽に待ってた」なんて言って、裏切るどころかあっさり超えてくる。まったく申し訳なくてありがたい。だけどおまえ本当に、人がよすぎる。

「高藤は優等生だなあ」

 瀬田は、まだ息の大きい高藤を見て笑いながら言った。

「何が?」

「律儀で、かつ頭がいい」

「……意味がわからないよ、このお人よしが」

 謝罪なのか礼なのか皮肉なのか、高藤は詰襟の第一ボタンとホックを留めながらつぶやいた。

 十月の朝のさわやかな乾いた風に、首元の汗がひんやりとして、気持ちがよかった。


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