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遠くて青い  作者: 由佐
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第2話 なすとトマト

 これ、みっちゃんちに持ってって。

 母親にそう頼まれ、文佳(ふみか)はなすとトマトをごろごろ入れたスーパーの袋を提げて、家を出た。

 この野菜は、今朝、母親がうちの畑から獲ったものだ。形や大きさは少々不ぞろいだけど、鮮やかな色をしている。

 ご近所へのおすそわけは、よくあることだ。お隣の斉藤さんや、畑を挟んだ先の小田さん、家から一番近いスーパーで顔を合わせるような、文佳の友達のお母さんたちとも、おすそわけのやりとりはよくある。今、文佳の家の冷蔵庫には、野村さんからもらった大量の桃が入っていて、開けるとさわやかな甘い香りがする。

 それで今日のおすそわけは、みっちゃん――榎本瑞貴(えのもとみずき)の家に。

 榎本瑞貴は、中学まで文佳と同じ学校に通っていた、同い年のご近所さんだが、それだけだ。お互いに別々の高校に通う今では、もう会うことも話すこともほとんどない。

 今日みたいに何度かおすそわけを持って瑞貴の家に行ったこともあるが、瑞貴が家にいたことは一度もなかった。渡すのはいつも、おばさんかおばあちゃんかに対してだった。

 先週の長雨が去ってから、急に陽ざしがきつくなった。文佳の自宅から榎本家までは歩いてものの五分かそこらだが、それでも家を出た瞬間の熱気に多少、気が萎える。夕飯の支度をするような時間帯よりも前に持って行ってあげたいと思ったのは文佳自身だが、太陽が南の空に高く照るこの時間は、さすがに暑い。田んぼに囲まれた細道には日陰もなく、少し歩いているだけで額や首元に汗がにじんだ。

 文佳の行く道の両脇の田に並ぶ稲はまだ青々としていて、穂をつけるのはもう少し先だ。夏の終わりから秋にかけて稲穂が膨らんでいくにつれ、稲はくすんだ黄色味を帯び、太陽の光で時折金色に輝くのだ。その頃になれば、稲全体が上のほうに生まれた重みで少しうつむきかげんになる。それが風に揺れたときのリズムだけでも、文佳には稲の成長が見て取れるだろう。文佳は生まれてからずっとこの町で育ったのだから。

 そこらじゅう、水を引き入れた田んぼの、草と土の青臭いにおいがする。梅雨が明けてどれだけからりと晴れようが、稲を収穫するまでは、このあたりには常に湿度の高い空気が充満している。だだっ広いこの空間が何か見えない覆いで守られているんじゃないかと思うくらい。

 榎本家にも、田んぼと畑がある。普段からこまめに世話をしているのは、瑞貴のおばあちゃんだ。大きな麦わら帽子をかぶったおばあちゃんが、畑の、小道からは遠いほうの隅でしゃがみこんでいる。草でも抜いているんだろう。

 畑を通りすぎたところに、榎本家の母屋がある。門や塀がなく、玄関の前までだれでも入れる。小道を行く人が庭を見渡せてしまうほど、開放的な住まい。

 榎本家は、そもそも敷地自体がとても広い。いまどき少なくなってきた一階建ての大きな平屋には、庭に面した縁側がある。

 玄関でインターホンを押してみたが、だれも出てこなかった。おばさん、いないんだろうか。文佳は庭のほうにまわってみることにする。

「ごめんくださあい」

 声をあげて庭にまわりこむと、ちりんと風鈴の音がした。その音がしたところに、思いがけない人がいた。

 雨戸を全開にした縁側に、だらりと横たわる長い体。その上の高いところで、風鈴が揺れている。

 ――みっちゃん。

 あんまり久しぶりで、珍しかったから、声が出なかった。思うだけで、そうは呼べなかった。

 仰向けになった瑞貴は眠っているのかもしれなかった。彼に野菜を預けていいのかどうか、文佳は少し迷った。

 そして、なんと声をかけていいか。

 そこにいる「みっちゃん」が、なんだかとても縁遠い、知らない人のようにしか見えなかったからだ。

 やっぱり野菜は畑にいたおばあちゃんに言って冷蔵庫に入れてもらおうか。そう思って文佳がきびすを返したとき、乾いた低い声が後ろ髪を引いた。

「おい。あんた、どうしたん。何か用?」

 上半身を起こした彼が、こちらを見ていた。なんか鼻声だなあと思ったら、彼の額には冷却シートが貼ってあった。

「あの、これ、おすそわけに。うちの畑の野菜なんやけど」

「ああそう」

 縁側に歩み寄り、袋の口を広げて見せてやったが、瑞貴は興味なさそうな顔だ。手を伸ばして受け取ろうともしない。

「冷蔵庫入れといてや」

 文佳は、自分が言おうとした台詞を、そのまま言われた。

 彼は縁側の隅にずるずると体をずらして、ここからあがって台所に行けと言わんばかりだ。

 この家に入るのは相当久しぶりのことだったけれど、気軽に家に入る習慣はすぐによみがえる。このあたりの人たちにとって、庭まで近所の人が入ってくることはあたりまえだし、人を家にあげることにも抵抗がない。

「……はいはい」

 文佳はおとなしくつっかけを脱いで、榎本家の台所へと廊下を進んだ。

 冷蔵庫の野菜室になすとトマトを入れて戻ってくると、彼は雨戸にもたれて、片足を縁側の外に投げ出すようにして横向きに座り込んでいた。

「この(うち)、まだあの冷蔵庫使ってるんやねえ」

 ふと、距離を測りかねた心から、言葉が口をついて出た。

 瑞貴は、片眉をあげて聞き返す。

「あ?」

「ほらあの、両開きの黒い冷蔵庫。小学校んときに買いかえたやつ」

「ああ。……そんなん、ようおぼえとるな」

「おぼえとるよ、うちのは古くさい白い冷蔵庫やったから、はじめてあの冷蔵庫見たときびっくりしたもんね。あんな黒い冷蔵庫あるんやあって思って、うらやましかった」

 座ってつっかけに足を入れながら、自分は一体なんの話をしているんだろうと、文佳は頬が熱くなった。

「あんた、学校は?」

 さっさと帰ろうと文佳が立ちあがりかけたとき、瑞貴がそう尋ねた。

「うちの高校、今テスト期間やから、はよう終わるんよ」

 今は昼を少しすぎた、本来なら学校で午後最初の授業を受けているような時間だった。

 瑞貴の高校もテストはあるはずだろうにと思ったが、瑞貴の薄い無精ひげと、首が隠れるほど伸びた茶髪を見て、やめた。言わないほうがいいような気がしたのだ。

 文佳に対する相槌のかわりに、瑞貴は鼻をすすった。彼は半開きの口で息をしていて、顔色も悪かった。

「……風邪なん?」

 額の冷却シートを見てもそれは明らかだったけれど、文佳は気まずさをごまかすために言った。

「まあな」

「それやったら、ちゃんと布団で寝たら」

「暑いやん」

「クーラーつけないん?」

「おれ、クーラーあたると気分悪くて寝られんから」

 そうだ、この家では、クーラーをほとんどつけない。文佳は思い出した。

 おばあちゃんの体を気遣ってというのもあるだろうけど、彼もまたクーラーにあたるのは苦手だった。

 それにこの家は、窓がたくさんあって風通しがとてもいい。田んぼの稲をかすめた風が、遮られることなくここまで届く。

「涼しいもんねえ、この縁側」

「ああ。ここぐらいがちょうどいい。日陰やし」

 直接に日のあたらない、ひんやりした木の床が心地よかった。つるつるして硬く、よく磨かれているのがわかる。きっとおばあちゃんだ、と文佳は思った。

 瑞貴の家のおばあちゃんは、元気な働き者。田んぼや畑の世話を、毎日やる。

 この庭先で、秋の晴れた日、おばあちゃんが(もみ)を干していたのを思い出した。ブルーシートの上に平たく広げた籾をたまに(くわ)で混ぜるのだが、その手伝いと称し、文佳はよく瑞貴と二人、裸足になって籾の絨毯をかき混ぜた。もう、十年も前になる。

 田んぼをもつ家の人には、毎年くり返される決まった作業がある。春に(しろ)かきと田植えをし、夏の間は毎日水門を動かして用水路から水を引き入れる。緑から麦色になった稲穂を、秋の連休に刈る。晴れた日ごとにまめに干し、籾摺(もみす)りをして、やっと玄米になる。こういうサイクルを、文佳は榎本家をはじめ、同じように田んぼを持つ近所の家々に教わった。

 瑞貴はずっと、こういう家で育ってきたのだ。こんな不良みたいな強面(こわもて)が、農家でおばあちゃんと一緒に暮らしている。クーラーよりも、縁側と親しい。そう思うと、今さらだけど、なぜか可笑(おか)しい。瑞貴の家のことなんか、あたりまえに知っているはずなのに、本当かなって笑ってしまう。自分が昔、この縁側にこうして座っていたことがあるなんてことも、今の瑞貴を見ていたら疑わしくってしょうがない。

 文佳がこの家に遊びに来なくなったのはいつからだろう。少なくとも小学校の高学年のころにはもうすでに、瑞貴は遠かった。文佳には文佳の、瑞貴には瑞貴の友達がいて、ふたりのタイプは全然ちがった。いっそ、ふたりが男子どうしだろうが女子どうしだろうが関係なく、結局は今と同じような隔たりが生まれていたのではないか。中学の間も瑞貴とはほとんど接点がなくて、ふたりが近所の幼なじみだってことをまわりの子たちは全然知らなかった。瑞貴は学年があがるごとになんだか不良みたくなっていって、今じゃこんな、肩に届きそうな茶色い髪をしている。文佳が学校で話をするような男の子たちとも全然ちがう、この榎本瑞貴のことを、文佳はもはや何も知らないのだった。

 今の瑞貴は、文佳にとって、通学に一時間かかる市街地の高校で会う子たちよりも、はるかに遠いのだ。今の瑞貴の居場所を、文佳は知らない。文佳の居場所を瑞貴が知らないのと同様に。そしてそのことを気に留めることもなく、日々は過ぎる。瑞貴が変わってしまっても関係ない、瑞貴に会いたいなんて考える隙間もなく、文佳の毎日は平然と鮮やかに満たされているのだ。こういう心が、ふたりの距離の遠さを何よりよく映している。

 だから、迷ったのだ。彼のことを、「みっちゃん」と呼んでいいのかどうか。

 でも、文佳はこの(うち)に入った。

 台所に野菜を持って行ったとき、あの黒い冷蔵庫から、ひんやりした風と一緒にいろんなものがあふれてきた。「みっちゃんち」。それが何って思うけど、そこには文佳にとっていろんな意味があって、そのどれもがきっとまともには伝わらない。実際、冷蔵庫のことを口にしたら、瑞貴には変な顔をされてしまった。

 例えばこの縁側とか、水を張った田んぼとか、畑でとれた不格好な野菜とか。文佳にとって、瑞貴の(うち)はそういうものとかたくつながっている。ここは文佳にとって、文佳が育ったこの地域の雰囲気を、ぎゅっと濃くした核みたいな場所なのだ。

 年を取るごとに、生まれた場所が関係なくなっていくような気がする。文佳も瑞貴も、別々だけどお互いここから遠い市街地の学校に進学した。もうふたりとも、普段はここじゃないどこかにいる。田んぼや野菜のにおいの薄い、覆いのない、どこかもっと広い場所に。

 でも、それでいいのだ、とも思う。

「あいかわらずガリ勉なん、あんた」

 と、瑞貴が遠慮のない口調で言う。文佳は「まあ、あんたに言わしたらそうやろうなあ」と、てきとうな返事をする。

 ――なんだ、思ったよりまともに話せたやないの、うちら。

 ねえ、みっちゃん、と心の中で、こっそり呼ぶ。

「じゃあ、うち、昼寝の邪魔せんように帰るわ」

「そ。俺も勉強の邪魔せんように、もう寝よ」

「おなかすいたらトマト食べなよ。冷蔵庫で冷やしてるから」

「おう」

 文佳が立ちあがると、瑞貴はまた縁側に横になり、「野菜、どうもな」とぼそりと付け足した。

「いーえ。おばさんたちによろしくね。お大事に」

 肩の高さで小さく手を振ると、寝そべった瑞貴は肘から先をふらりと持ちあげてこたえてくれた。

 太陽と稲の小道を行く。瑞貴の家が遠ざかる。文佳は振り向きもしないで、もう明日の試験科目のことなんかを思っている。


次話「トマトとかぼちゃ」にて、瑞貴側の物語を書いています。

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