第1話 あかつきの顔
五月。ゴールデンウイークを一週間すぎてもまだ、言葉を交わしたことのないクラスメイトが何人かいる。
田端さとるは、その一人。わたしと同じ、体育祭実行委員、なんだけど。
体育祭当日、実行委員の朝は早い。
他の生徒たちよりも一時間早く競技場に入って、準備と打ち合わせをするのだ。いつもならまだ家で朝ごはんを食べているような時間に、高校に一度集合してから、みんなでバスに乗り込み競技場に向かうことになっている。
この学校に一年と少し通っているが、こんなに早い時間に校門をくぐるのははじめてだ。まだ六時台なのに、すでに実行委員や先生たちのざわめきがして、校舎のまわりには慌ただしい空気がただよっている。
わたしは、クラスの備品をバスに積み込むため、実行委員が集合する前に一度教室に向かう。この備品の運びだしは、クラスに六人いる実行委員のうち、わたしと田端が受け持つことになっているのだ。
しかし田端のほうは、きっとまだ来ていないだろう。わたしは漠然とした予感を抱いて、人気のない階段を淡々とのぼる。
今年になって同じクラスになった田端さとるは、こういう進学校でもクラスに何人かは必ずいる、声の大きい人。もちろん声量の問題ではない。クラスの中で比較的派手で、社交的なタイプだっていう意味。普段からなんとなく自信ありげな態度で、誰に声をかけるにも遠慮がなくて、自分の髪の毛を気にしているような仕草が似合う男子。
体育祭のことで実行委員がクラス内で決めなければならないことも、田端がやればすぐに決まってしまう。百メートル走やリレーの選手も、騎馬戦のチーム分けも。
そんな田端と、わたしはまだ個人的に話をしたことがない。
もしかしたら、今日も田端とは話をしないまま、終わるかも。そしてそのまま体育祭が終わって実行委員が解散したら、話す機会はほぼなくなるのではないか。
それでもいいなあ、と、不謹慎だけどそう思う。
クラスみんなと関わらなければやっていけないってわけじゃない。話をする男子は、クラスに何人かいればそれでいい。席が近い子や、同じ掃除場所の子と話ができれば、それで。田端みたいなうるさい人たちとは、なるだけ穏便にいきたいところだ。用があるときにつつがなく話すことができたらそれでいい。無理に仲よくならなくていいし、その程度だったら、わけもなく田端みたいな男子を怖がったり嫌がったりする必要もないのだ。
わたしが、ろくに知りもしない田端のことをあまりよく思っていないのは、単に田端が派手そうだからではなくて、田端の顔がいつもなんだか軽薄そうににやついて見えるから。
田端は、毎朝、遅刻寸前に教室に入ってくる。始業の直前に先生が教室前方のドアから入ってくるのと同時、教室がざわめくのにまぎれて、後方のドアからそろりと入ってくるのだ。そのやり方で、田端は今まで一度も、遅刻とされたことがない。
この頃は、体育祭が近いということで、リレーの選手の子たちが朝練をしに早く学校に来ていた。そのとき、バトンやスターターといった備品は実行委員の誰かが書類を書いて体育科から借りて、また返しに行くことになっているのだけど、田端はいつも朝練の終わる間際、返しに行く時間帯になってやってくる。一応返却には行くけど、朝練の前に来て借りに行ったためしはない。
だから今日も、田端は集合時間のぎりぎりにやってきて、点呼の時間には涼しい顔して実行委員の列の中にまぎれていそう。
わたしが気に入らないのは、田端のその、涼しそうな顔なのだ。
べつに田端は迷惑をかけるというほどでもないし、時間にルーズな人はいるものだとわかっている。だからわたしは田端を正したいわけじゃない。田端は悪いわけじゃない。だけど、田端の態度がわたしの神経を逆なでする。
あたかも、「五分も十分も前から俺はここにいて雑談してました」とでもいうような、悪びれたところのないあの態度。時間ぎりぎりにやってきて平然としている田端は「ぎりぎりセーフ」と考えているのだろうけど、わたしにとっては「アウト」だ。それを、あの隙のない笑みで即座にまわりに溶け込み、全部うやむやにしてしまう。どうして朝練の終わりごろに来た田端が、朝一番に来て練習していた子たちとあたりまえのように一緒に片づけだけできるのか。そんな人懐っこさは田端の長所とも思うが、わたしは田端のそういうところが一番苦手。
何度か踊り場で向きをかえながら階段をのぼり、ようやく四階のフロアが見えてくる。のぼりきったところからのびる廊下を少し進んだ左手が、二年四組、わたしのホームルーム教室だ。
廊下には、東側に面した大きな窓がある。まだ昇ってから何時間も経たない白い太陽に照らされて、廊下はとても明るい。
白い廊下に、のっそりと細長いものが立っているのに気がついた。誰もいないと思っていた廊下に、人がいた。
それも、いないだろうって考えていた、その人――田端。
二年四組の教室の前にいるのが、他の人であるはずがないのだ。今この時間、この教室に用事があるのは、荷物をバスまで運ぶ、わたしと田端だけ。
まだ、予定の時間より、十分以上も早いはず。わたしは時間に余裕をもってここに来たのだから。
信じられなかった。けれども、わたしの心は静かだった。ジャージ姿の田端に驚きが吸い込まれていくように、音が消えた。廊下を行く足音も、呼吸の音さえも。
ただ、田端が見える。
猫背になって教室の前のロッカーに寄りかかった田端の動きは、緩慢だった。眠たそうな横顔が、あくびをかみ殺した。東向きの大きな窓のほうをぼんやりと見つめている。容赦なく射しこむ朝の光がまぶしかったのだろう、目を細め、それから軽くうつむいた。
しかしそのすぐ後に、田端は顔をあげた。まぶしいはずなのに、また窓のほうを見たのだ。それもさっきより、窓の高いところを見上げるようにして。外の建物の隙間から漏れ出た強烈な光を直接見ようとするみたいに、田端は自ら顔をあげた。
まぶしさをこらえる顔は、笑っているみたいに見える。不思議な笑顔。いつものと、全然ちがう。眠そうで、馬鹿そうで、溶けだしそうに無防備で、とても――いい顔だった。
思わず見つめてしまう、時が止まるかと思うほど穏やかなその笑みに、ふと、田端の名前を思った。
まぶしいものを見る、あの幸福そうな顔が、よく似合う。田端の名前は、暁。暁って書いて、さとると読む。
まっすぐにまぶしいものを見る田端の、きれいな横顔。まぶしすぎるほどの光を見ようとする人間は、あんないい顔をするのか。
「――田端、くん」
わたしの中にある田端の像が、あふれて、流れ出た。
他の人も交えて話すのでなく、田端だけに向けて言葉を発するのは、これがはじめてだった。
田端がわたしに気づいて振り向いた。
「あ。おはよう、篠川さん」
「おはよう」
田端の頭が、左半分だけ日にあたって金色に縁どられている。ゆるく癖のついた髪の毛は、ほとんど茶色に見えた。
「ああ、よかった。間違ってないな」
田端が突然ひとり言のようにそう言ったので、わたしは「え?」と聞き返す。
「朝早かったからコンタクト入れる時間なくてさ。いま裸眼なの」
田端はまたあくびをひとつ漏らして、「いやあ、声聞いて篠川さんだろうなとは思ったんだけど、実はちょっと自信なかった」と打ち明ける。冗談めかしているけど、正直に言っているのがわかった。
そのことを、わたしはなぜだか無性にうれしく思っている。篠川さん、とはじめて面と向かって呼ばれた。想像していたよりずっとやわらかく、誠実みのある声色だった。わたしのことをきちんと認識し、わたしと話をしようという構えがあった。田端の中のわたしが映りこんだ、澄んだ水のように気持ちのいい呼び声だと思った。
「田端くん、目、悪いんだね。知らなかった」
「悪いよ、俺、ド近眼だから」
「危ないじゃん。眼鏡かけないの」
「いや、あるんだけどレンズめっちゃ分厚くてさ、学校じゃかけたくないんだ」
「そうなの、オシャレ眼鏡とか似合いそうなのに」
「はあ、オシャレ眼鏡とか俺にとってはかなわぬ夢だからね」
おおげさな、何それ。
わたしが笑っているのを遮るでもない絶妙な間合いで、田端はわたしが来る前にすでにまとめてあった荷物をかかえ、廊下を歩き出す。
荷物は段ボールひとつにまとめてあって、わたしには持つものがなかった。少し申し訳ない気持ちで隣に並び、階段をおりていく。
「どうよ、今日は来るの早かったでしょ、俺」
「そりゃあ、コンタクト入れるひまも惜しんだくらいだもんね」
「そうそう」
田端は、今日はじめて話すのが嘘みたいに、自然におどけて話をする。つられてわたしも、するすると返事が出てくる。
田端と話せてよかった、話したい、と思った。
「がんばったんだって、備品書類のクラス責任者欄に俺の名前を書くためにね」
「何それ」
「朝練のときの、備品貸出あるでしょ。実行委員の誰かが、借りるときの書類の責任者欄に名前書く。俺が朝練の後バトン返しに行ったら、その欄にはいつも篠川さんの名前が書いてあった。だから今日は、篠川さんより先に来ようって思って、がんばった」
田端に対する冷え冷えとした壁が、白い朝日の中に溶けていく。わたしは、とてもくだらない偏見でもって、田端を見ていたのかもしれない。話したこともない人のことをすっかり見抜いたような気になって、軽蔑していた。
校舎の一階で荷物を備品係に預けるとき、バスに積み込む荷物の書類は、田端が受け取った。田端が子どもみたいに得意げな顔をするから、わたしは笑ってしまった。
ところが、もらった紙のクラス責任者の欄に、どうしたことか田端は大きな字で『篠川希世』と、わたしの名前を書いた。まるで、はじめからそう書こうと決めていたみたいに、田端の手先には迷いがなかった。
どうしたの、自分の名前書くんじゃなかったの、とわたしはもちろん聞いた。
田端は目元をくしゃりと崩していい顔で笑うと、飄々とうそぶいた。
「この名前じゃないと備品係が見慣れないかと思って」
馬鹿、クラス番号書いてるんだから、そんな心配いらないでしょう。
さっき廊下で見たのはこの顔だ、と思ったら、わたしは田端のことがまぶしくてしかたなかった。こらえられない、笑みのかたち。
田端が朝日を見るような目で、わたしは田端を見ている。