7 全部話した
頬に大きなガーゼがベッタリと張り付いている。
「どう考えても大げさだよな」
朝、洗面所の前で俺はうなった。
とはいえ、取ると生々しい打撲痕が露わになってしまう。
こんなときに、礼知さんからの呼び出しがあって、さすがの俺も迷った。
わざわざこんな顔で行くのもなって。
けど、俺は多分、このままクビになる。
そうなったらもう、礼知さんと関わることもなくなるだろう。
退職の挨拶くらい顔を見てしたい。なんて……欲が出た。
先輩たちも止めなかった。
礼知さんのオフィスに顔を出すと、社員さんたちが「きゃあ!」と悲鳴を上げた。
「彗君、その怪我どうしたの!」
あれ、俺、彗君なんて呼ばれてるんだ。
俺が場違いなことを考えるうちに、騒ぎはますます大きくなって、礼知さんまで慌てた様子で社長室から出てきた。
「彗?」
俺を見た礼知さんの顔が一瞬で険しくなる。
俺はとっさに顔を伏せた。
革靴の固い足音が、俺の前で止まる。
おそるおそる顔をあげると、礼知さんは探るような目で俺を見ていた。
「長袖だね」
「お、俺だって上着くらい着ますよ。年中半袖ではないです」
そこを突っ込まれるとは思ってなくて、思わず目をさまよわせてしまった。
「騒ぎがあったって聞いて、まさかと思ったんだけど」
礼知さんは冷ややかな目で俺を見下ろした。
知ってるんだ、礼知さん。
そう気づいたとき、さっと血の気がひいた。
俺、なんで……、礼知さんが無条件に俺の味方をしてくれるって思ったんだ?
ひょっとしたら――。
「ともかく、詳しい話を聞かせてもらう。おいで、彗」
背を向けた礼知さんを秘書さんが呼び止めた。
「社長、今日の予定ですが」
「全部キャンセルだ!」
礼知さんは社長室の奥へ向かった。
するとそこにはもう一つドアがあり、クローゼットルームになっていた。
「なぜこんなところに!?」
呟いたあとで気が付いた。狭い部屋の中、やたらと立派な換気システムがついている。
オメガにオメガルームがあるように、アルファにも避難場所があるのかもしれない。
中に入ると、彼はきっちりと扉を閉めた。
「脱いで」
「それはちょっと」
「この目で確認したい」
俺は作業着の襟元をぎゅっと掴んだ。
顔の怪我を隠すように腕を上げたのは失敗だった。袖口が少し下がって、紫に変色した手首を見られてしまった。
しかも、かなり、じっとりと。
「あ、礼知さん、落ち着いてください。これは違うんです!」
実のところ顔の傷はいちばん浅い。うっかり避けたとかではなく、たぶん人前だったから壺河様は加減したのだ。
パーティーは中止になり、便利屋だけが残された。
そのあとあったことを礼知さんに話すつもりはない。まして、傷跡を見せるなんて。
「自分で脱げないなら私が脱がそうか」
「誤解なんです! 出禁のはずのベータが着ぐるみダンスを披露した挙句、お嬢さんと駆け落ちするなんて騒ぎになったら――誰だって殴りたくもなるでしょう!」
礼知さんは口をぱかっと開けたまま黙り込んだ。
やがて遅れて、手で口元を隠す。
「……恋人?」
「いや、それも誤解というか、お嬢様に罠にかけられたというか……。いえ! 聞かなかったことにしてください、こんなのただの言い訳です」
礼知さんはため息をついた。
「わかった。話を聞く。けど――」
言いながら、彼は俺の作業着に手をかけ、金属製のボタンをぷつんと外した。
「それは状態を確認しない理由にはならない」
「いや、自分で脱ぎますから!」
言ってしまった手前、やっぱり脱ぎませんとも言えない。
俺はやけになって半裸をさらした。
彼は痛ましげに息を吞んだ後、後ろを向けという。
見せたくないな、こんなもの。俺はのろのろと彼に背を向けた。湿布を貼っても隠し切れない赤紫の痕を礼知さんはしばらくじっと見下ろしていた。
「病院には?」
「もちろん行きました。骨も折れてないし、こんなんすぐに治りますよ」
「下も脱いで」
「そこまでしなくても!? その、いちばんひどいのは腕から肩にかけてなんで。その……頭をかばったから」
とっさに噓をついてしまった。
頭をかばったのは本当だが、実のところ、あざが一番多いのは、おしりから太もものあたりだった。
下着まで脱げとか言われたら困る!
必死に抵抗したら、細く息を吐き出す音が聞こえてきた。
あきらめてくれたのかな。
そろりと目を開けた俺の目に映ったのは、礼知さんの冷ややかな瞳だ。俺を見ているようで見ていない。
「じゃあ、教えてくれる? どうしてこんな事態になったのか」
社長室のソファーに移動して、俺は洗いざらい話した。
礼知さんも知っていることだけど、壺河様との因縁の始まりから、着ぐるみダンスで二度も欺こうとしたことまで。
二度目の件だって、お嬢様に脅されたというのは大げさだ。俺は本気で断ろうとしなかった。前科もあるし、今回もなんとかなるんじゃないかと軽率に考えた。
「俺、ここんとこ調子に乗ってたみたいです。それで、今日は挨拶に来たんですよ」
「挨拶?」
「チーフが手を尽くしてくれてるみたいなんですけど、さすがにもう今回ばかりはクビかなって。だから、どうしても礼知さんに礼が言いたくて」
俺は礼知さんの前に進み出て頭を下げた。
そうしながら、頭の片隅で考えた。
また、やり直しか――。
「俺に仕事を任せてくれたこと、本当に嬉しかったです。ありがとうございました! もし、まだ当社を使っていただけるなら、引継ぎは――」
「必要ない」
礼知さんはきっぱりと言い放った。そっか、そうだよな。
……納得しそうになるけど、それじゃ困るんだ。
壺河さんは、いろいろ面倒な人ではあったけど、会社にとっては大事な客だった。その上礼知さんからの仕事を失えば、うちの会社潰れかねないんじゃないか。
「責任はぜんぶ俺にあります。ですから、俺のことはともかくうちの会社のことは――」
「彗」
途中で遮られ、俺はぐっと唇を噛んだ。
どうすればいい?
あと、俺にできること。
「壺河さんを欺いたということなら、私も共犯なんじゃないかな」
さっと脳裏に浮かんだのは、礼知さんがむしり取られそうになった着ぐるみの頭部を押し戻してくれたこと。
「あれは! 俺のせいであって礼知さんには責任なんて一個も」
慌てて頭をあげてしまった俺の唇に、礼知さんの指が押し立てられた。
何を言いかけたのか一瞬で吹っ飛んでしまった。
「彗は、今の仕事を辞めたいわけじゃないんだよね?」
そっと離された指先を茫然と見つめたあと、俺は急いで首を振る。
「辞めたくないです! みんなにはいっぱい迷惑かけて、まだ恩のひとつも返せていないのに。それに――」
それに俺には、他に行くところなんてない。
住む場所と仕事を失うのは、正直すごく不安だった。お金だって全然ない。
「だったら、いま君にできることはひとつだよ」
礼知さんはいまだにニコリともしない。それなのに、言葉ばかりが優しい。
「しっかり休んでまずは怪我を治すんだ。そんな状態じゃ仕事を頼めないよ」
「礼知さん?」
「君の行動に問題がなかったとも言えないけれど、かといって制裁ならもう充分だろう。大丈夫、なにも心配いらないよ。とにかく彗は休まなきゃ。そんな怪我で出歩いちゃいけないよ。あとは私がなんとかする」
「礼知さんが頭を下げるんですか!? そんなのダメです、俺、そんなつもりで来たんじゃないんです!」
「彗は、あの人が騒ぎ立てるほど不真面目じゃない。生意気なのは裏を返せば自分の意見をハッキリ持っているということだ。――それに、自分で考えて仕事ができるというのは、優秀さの証だと思うよ」
ほ、褒められてる?
こんな時だというのに、俺は浮かれそうになった。
「使い勝手のいい人材を勝手に辞めさせられては困るな」
「だけど、礼知さんにまでご迷惑をかけるわけには」
「迷惑? 違うな。どちらかというと、私情かな」
「え?」
どういう意味か問いかける前に礼知さんは扉に向かった。話は終わりだと言うように押し開く。
ようやく彼が浮かべた笑みに有無を言わさぬものを感じて、俺は部屋を出た。
それでもやっぱり黙ってるわけにはいかない。
社長室から一歩外へ踏み出したところで、我慢できずに振り返る。
「礼知さん、やっぱり俺」
「心配しないで。話をするだけだよ。なにも殴り込みに行こうっていうんじゃない」
笑顔。だけど、どこか冷ややかで俺はますます不安になる。
口を開きかけた俺の頬に、礼知さんは慎重な手つきで指を伸ばす。傷を避けた結果だと思うけど、産毛をなでられて妙にドキドキする。
「夜には電話するから」
耳元で囁かれ、俺は思わず頷いてしまった。
そして約束の夜。
礼知さんはやけにさっぱりした声だった。
「壺河さんとは話を付けたから。もちろん、お嬢さんのほうもね。彗はこれまで通り安心して働いて」
「いいんでしょうか」
「もちろん。ああ、でも怪我が治るまで出てきちゃダメだよ。そうだな、一か月くらいは安静に」
「一か月!? ただの打ち身ですから! 明日からでも働けます!」
ギョッとして、思わず反論してしまった。
すると礼知さんの声が低くなる。
「安静の意味わかってる? いい機会だ。ゆっくり休むように」
「せ、せめて一週間に……」
すると彼は、スマホの向こうでため息をついた。
「二週間経ったら、傷を見せにおいで」
どうやらそこがギリギリの譲歩らしい。
二週間の謹慎は痛い。だけど……、だけど!
スマホを切ったあと、じわじわと喜びがこみ上げた。
「そっか、俺、まだここにいていいんだ」
ベッドにどさりと寝転がり、俺は自分の顔を覆った。




