2 下心はありません
高校まで俺が住んでた町よりも、この街はだいぶ暖かい。
日陰に少し雪や氷が残ってはいるが、あと数日もすれば夏靴に替えてもよさそうだ。
俺は、駅周辺のきらびやかなビル群を尻目に、会社へ急いでいた。
川を渡ったここら辺りは、昔ながらの街の面影を残しているそうで、中でもうちの会社は特にボロッちい。
錆の浮いた看板には『便利屋ベター』の文字が、風雨にさらされて、かろうじて読める程度に残っている。
「戻りました!」
倉庫兼車庫で、ワゴンに段ボールを運び入れている先輩に一声かけて、俺はジメッとしたコンクリートの階段を二階までダッシュで上った。
建付けの悪いガラス戸をちょっと持ち上げるようにして開ける。
事務所内ではチーフが電話中だった。
「支払い済ませてきました」
「おー、おかえり。悪いな」
教育係の井上先輩に一声かけると、気のいい笑顔で迎えてくれた。
それとは対照的に、もう一人の先輩は俺を見て嫌そうな顔をした。
俺がジャンパーと作業着の上着をいっぺんに脱いで半袖姿になったせいだろう。
寒々しいんだそうだ。
けど、外から帰ったばかりの体にストーブの熱気はキツイ。
ポロシャツのボタンを開けて胸元を仰いでいたら、チーフの口から急に俺の名が飛び出した。
「は? 榎並をご指名、ですか?」
声も、俺を見る顔つきも、『なんでこんな奴を?』と言いたげだった。
俺自身『なんで俺?』って思ったから首を傾げたのだが、チーフの顔がさらに険しくなった。もはやブルドッグだ。
スマホを置いて、彼は無言で手招く。
行きたくないが、仕方がない。
チーフは正面に立つと、見下ろすことになっちゃうんだよな。膝を落としたほうがいいかな。
「榎並、和倉様がお呼びだ。今すぐ行ってこい!」
俺はガラス張りの洗練されたビルを見上げ、ゴクンと喉を鳴らした。
だが戸惑っている時間はない。お待たせするなとチーフに厳命されている。
飲食店やブランドショップが並ぶ辺りを素通りして、俺はさっそくエレベーターに乗り込んだ。
にしても早いな、都会のエレベーター。
十五階まで数秒だ。心の準備ができてない。
受付で名乗ると、広々としたオフィスの最奥まで案内された。
社長室のドアを開けて俺は思わず挨拶より先に口走った。
「クラシカル!」
それに、どこからか青茶みたいな、清涼感のあるいい香りがする。
きょろきょろしていると、ふっと微かな笑い声が聞こえた。
重厚な木製のデスクから立ち上がって、ゆったりと俺を迎え入れてくれたのは、若い男性だった。
「どうも」
落ち着いた低い声でそう言われて俺は一瞬混乱した。
ひょっとして、第一声を誉め言葉だと受け取ってもらえた?
いつもなら、余計な軽口の一つも飛び出すところだが、なんだか声が出なかった。
コツ、コツと静かな足音を響かせ、彼がこちらへ歩いてくる。
窓から差し込む光が彼のブラウンの髪を柔らかく照らした。
アルファらしく背が高く、しっかりした体つきだが、薄く微笑んでいるせいか威圧感はない。
けれど眉毛を隠す重たそうな前髪が、その堂々としたたたずまいの中で少し奇妙に思えた。
怖いのに目が離せない。
「榎並君――名前は『すい』でいいのかな?」
俺はハッと居住まいをただした。魔法が溶けたように、今度はペラペラと舌が回りすぎた。
「けいと読みます。両親が心を書き忘れて、ほうき星になっちゃったけど読み方そのまま『けい』です!」
観察するような冷たいまなざしが、ふっと無防備な瞬きになった。
「ああ、本当は『慧』だったってことか。それ、鉄板? 下心を書き忘れたなんて出来すぎてる」
「いや、下心はありませんなんて、そんな恥ずかしい自己紹介じゃないです!」
「無自覚か。それなら却ってよかったんじゃない? 『慧』には悪知恵っていう意味もあるし」
うう、馬鹿正直みたいに思われてしまった。否定はあんまりできないけれど……。
「それにしても君、思ったよりも若いね。高校生じゃないよね」
「一応卒業してます。今年十九歳です」
向こうも俺に対して、同じようなことを思ったらしい。
いや、だいぶ違うか。
頼りないって思われたかも。
「ふうん、壺河さんも、大人げない……。うわさは聞いたよ。壺河さんの趣味に少しばかり手を加えたとか」
すごくマイルドな言い方だ。
上品な人は言葉の選び方まで違うらしい。
「はあ」
「君はアルファが怖くないのかな」
あれ、もしかして怒られる流れ?
とは思いつつ、俺は結局素直に答えた。
「わかりません。俺の住んでた田舎には、ベータしかいなかったので」
「ふうん? 会ったことがないだけじゃなく?」
「まあそうかも。ただ、小さいうちにアルファかオメガの判定が出たら、たいていは引っ越しちゃうって聞いてます。この街って、オメガでも住みやすいんですよね」
「そうであったら嬉しいね」
まるで街づくりに深くかかわっているみたいな口ぶりだ。
いや、実際そうなのかも。
彼自身が――じゃなくても、一族が、とか。
すごいな。王子様じゃないか。
「じゃあアルファを恐れない君に、一つ質問だ。――この部屋どう思う?」
それにはすぐ答えられる。
こっくりした色合いの腰壁に、淡い色の壁紙。壁面書棚。重量感のある執務机に対し、居心地良さそうな応接セット。どれも年月を感じさせる味わいのある逸品だ。
だけど、全体の調和がとれているかと言われれば、ぽっかり空いた一か所がなんとなく落ち着かないんだよな。
「あのあたり、絵でも置いたらバランスがいいのになって思います」
「なるほどね」
彼はわずかに首を捻ると、立ち上がってドアへ向かった。
「じゃあ、本題に入ろうか。ついてきて」
なんだったんだ、今の質問。何かのテストか。……俺は合格?
「階段は平気?」
「はい」
彼は普段からエレベーターを使わないのか、リズミカルに非常階段を降りて行く。
「オメガルームのことは知ってる?」
「はい、オメガの緊急避難用の部屋なんですよね」
急な発情期に備えてとか。
あまり詳しくはないが、一応俺も知識としては知っている。ヒートのときのオメガのフェロモンは周囲を否応なく誘ってしまうのだとか。
教室内でも、数年に一度は話題になった。『オメガを抱いてみたい』なんて。
アイドルに対するのと同じで、叶わないから無邪気に話す感覚だった。
でもこの街では本当にオメガを見かけたりするから、あんな話題に加わったことが、なんだか後ろめたい。
「今は抑制剤もあるから、めったに事故は起こらないけどね」
和倉様の横顔にほんの一瞬不快が滲んだ。
めったにないはずの事件が、彼のもとでは結構起きてそうだ。
「大変そうっすね」
「ベータだからと言って、君も他人事ではいられないよ」
そう言われても、全然ピンとこなくて、俺は首を傾げた。
和倉様は踊り場で立ち止まり、まだ階段の中ほどにいる俺をじっと俺を見上げた。
「普段は薬で抑制できても、感情が揺らげばコントロールを失い、フェロモンが漏れ出すことだってある」
薄暗い非常階段の中で、彼は薄く微笑みながら俺に言った。
「急に君のことを威圧するかもよ」
「今のところ大丈夫ですよ。そこまで俺に興味ないでしょう」
ついうっかり、思ったまま口にしてしまった。
すると彼は一瞬黙り込んだ。
彼の口元から笑みが消え、少し低めの声が出る。
「今、ちょっと興味を覚えたよ」
「すんません……、怒りました?」
「いや?」
分厚い前髪に眉毛が隠されて、表情は読めない。
俺は内心「ひえー」と悲鳴を上げながら、こぶしを握ったり開いたりした。
そんな仕草まで、じっと観察されている気がした。




