表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
百合想話  作者: 初代
1/1

ある雨の日

 今日こそは、一緒に帰ろうと言わなければならない。

十五時二十分。

ホームルームが終わり教室の空気は、張り詰めていた糸が切れるように、音を立ててほどけていく。

椅子が床を擦る不快な音。無遠慮な笑い声。鞄のファスナーが噛み合う金属音。

それぞれが、それぞれの居場所へと帰還していくためのノイズが充満する。

私は、動かない。

私の今日は、ここから始まるからだ。

意識の端っこで隣の席を伺う。

今日加藤聖は、生徒会室には行かない。

たったそれだけの理由で、私にとって水曜日は特別な日になる。

胸の奥が、ひどく騒がしい。

一日中、最低限の返事以外に声を出していない私の喉は、正しい呼吸の仕方を忘れてしまったようだ。

言葉を紡ぐ前から、私は自分自身の熱に浮かされて疲弊していた。

隣から、紙が擦れる音がした。

プリントを揃え、荷物をまとめている。

目を見なくても、それが聖の立てる音だと分かる。

私は、帰り支度をすべて済ませていた。

今の私には、なすべき作業が何もない。

手持ち無沙汰を誤魔化すために、スマホを手に取る。

画面は無機質な光を放っているだけで、通知の類は何一つない。

一息ついて決心を決めた。

声を掛けようとした、その瞬間。

聖が、弾かれたように先に立ち上がった。

「じゃあ、佐藤さん。さようなら」

私の席の横を通り過ぎる、いつもの鈴のような声。

いつもの、踏み込まれることのない距離感。

それだけ。

「……さようなら」

絞り出した声は、ひどく掠れていて、自分のものとは思えなかった。

届いたかどうかも怪しいほど微かな響き。

聖は振り返らない。

彼女はそのまま、教室の扉の向こうへと消えていった。

その瞬間、私の体から急速に力が抜けた。

操り人形の糸が切れたように。

さっきまで私を突き動かしていた緊張の塊が、重力に従って床へと崩れ落ちていく。

私は深呼吸を一つつき、少し遅れて席を立った。

足が妙に軽い。

地面を踏み締めている感覚が希薄で、まるで水の中を浮遊しているような錯覚に陥る。

昇降口に着くと、聖がちょうど靴を履き替えたところだった。

偶然だ。

私はすぐにローファーを履き替え、彼女の背中を追うように外へ出た。

制服が濡れた。

聖は、淡い水色の傘をさしていた。

誰の視界も邪魔しないような、けれど決して紛れることのない、清潔な青。

私も今朝用意してきたピンク色の傘を取り出し、開く。

距離は、十メートル。

他人が見れば、ただ同じ方向に歩いているだけに見える、安全で残酷な距離。

でもその距離は私たちだけのもの。

自転車通学の聖とは、いつもなら駐輪場で別れるはずだった。

でも雨の降っている今日、彼女は駐輪場を素通りした。

深草駅まで、徒歩。

不思議だった。

何度も通った通学路。見慣れた建物や街路樹。

昨日までと同じ景色のはずなのに、視界の中に彼女の背中があるだけで、そこは全く別の異世界に見えた。

彼女の傘の色は、目立たないのに、私の網膜に焼き付いて離れない。

歩幅が合わない。

雨の音に合わせて歩く。

アスファルトが濡れる音。傘から弾け飛ぶ水の音。

その規則正しいリズムの隙間に、自分の荒い呼吸を紛れ込ませる。

少し遅れれば、背中が遠のき、胸が締め付けられる。

少し早めれば、近づきすぎて、私の存在がバレてしまう。

この絶妙な距離を維持するために、私は全身の神経を研ぎ澄ませた。

気がついたときには、駅の改札を抜けていた。

深草駅までの七分間。

いつもと同じはずの時間は、永遠のように長く、瞬きのように短かった。

雨で詰めたいはずの身体がとても温かい。

聖と同じホームに立つ。

聖は、イヤホンを耳に差し、スマホを眺めていた。

彼女の視線の先にある画面の中には、私の存在しない世界が広がっている。

私が本来乗るべき反対ホームの電車が、発進していった。

五分後。

聖が乗り込んだ車両の隣に私はいた。

この電車がどこへ行くのかも、今の私には重要ではなかった。

ただ聖と同じ場所へ行ける事実が私の足を動かしていた。

聖は、三つ先の藤森駅で降りた。

続けて私もホームへ降りた。

降りてしまった。

見知らぬ駅。

冷たい空気。

聖は迷いのない足取りで改札へ向かう。

外に出ると、雨はさらに勢いを増していた。

雨粒に混じって、聖の匂いがしたような気がした。

横断歩道を渡る聖の背中を、街灯がぼんやりと照らす。

胸が苦しくて、吐き気がするほどの高揚感が私を支配する。

もし、今、彼女が振り向いたら。

「どうしてここにいるの?」

「佐藤さんの家、こっちだっけ?」

そう問われたら、私は何と答えればいいのだろう。

「偶然だよ」と笑えるだろうか。

それとも、この異様な執着を見透かされて、軽蔑されるのだろうか。

気持ち悪いと思われるに違いない。

分かっている。分かっているけれど。

振り向いてほしい。

私を、見つけてほしい。

そんな歪んだ欲望が、指先まで痺れさせる。

曲がり角の先で、ついにその背中を見失った。

整然と並ぶ一軒家。

私は一軒ずつ、門柱に掲げられた表札を確認していく。

……三つ目。

『加藤』。

見上げた先、二階の窓にパッと灯りがついた。

あそこが、彼女の城なのだ。

窓を開けて、私を見下ろしてほしかった。

でも、無慈悲な雨が窓を閉ざさせ、私の願いは冷たい雫となって地面に吸い込まれていった。

私は震える手で、スマホを取り出す。

SNSのメッセージ画面を開く。

「今、何してた?」

……打っては消し、打っては消す。

そんなの、送れるはずがない。

もう一度、震える指で打ち直す。

今度は、当たり障りのない連絡事項を装って。

送信ボタンを押す。

すぐに既読がついた。

心臓が跳ね上がる。

「ちょうど今帰ってきたところだよ!どうしたの?」

続いて、可愛らしいクマの「ただいま」スタンプ。

私は画面を見つめたまま、立ち尽くした。

「知ってるよ」

その四文字を入力して、すぐに消した。

呼吸が荒い。

肺の奥がひゅうひゅうと鳴り、酸素がうまく取り込めない。

私は「お帰り」のスタンプだけを返し、スマホをポケットにねじ込んだ。

それで、十分だった。

今日の私は、彼女の人生の一部に、これ以上ないほど深く関わる事ができたのだから。

翌朝。

目が覚めると、昨夜の狂おしいほどの情動は嘘のように消え去り、胸の奥は妙に静まり返っていた。

藤森駅のホームも、雨の匂いも、佐藤という表札も。

すべてが悪い夢だったのではないかと思えるほどに。

制服に袖を通し、鏡を見る。

映っているのは、いつも通りの、無機質で凡庸な私。

学校へ向かう道も、登校する時間も、昨日と何ら変わりはない。

水曜日の次の、木曜日。

一週間の折り返し。

教室に入ると、すでに数人のクラスメイトが騒がしく談笑していた。

私は自分の席に座り、ただ前を見る。

隣の席は、まだ冷たく空いている。

チャイムが鳴る直前、聖が教室に入ってきた。

今日は少し肌寒いのか、淡いベージュのカーディガンを羽織っている。

髪は毛先まで完璧に整えられ、昨夜の雨の痕跡など微塵も感じさせない。

「おはよう、加藤さん」

いつも通りの、明るく、けれど一線を超えさせない声。

「……おはよう」

私の声は、思いのほか滑らかに出た。

それだけで、胸が落ち着く。

聖は何も言わない。

藤森駅のことも、同じ電車に乗っていたことも、私が彼女の家の前まで行ったことも。

彼女は当たり前のように鞄を置き、一限目の教科書を取り出す。

……あ、そういえば。

ふと思い出したように、聖がこちらを向いた。

「昨日はどうしたの?」

一瞬、視界がぐにゃりと歪んだ。

血の気が引き、心臓が凍りつく。

どこで? なぜ?

全部、気づかれていたのか。

電車を降りた瞬間から? それとも、家の前から?

脳内がパニックを起こし、言い訳の言葉を探そうとするが、喉が癒着したように動かない。

「ライン、してくれたでしょ。何かあったのかなって」

……あ。

そっち、か。

私は、肺に溜まっていた熱い空気を、ゆっくりと吐き出した。

「ごめん、なんでもないの。もう解決したから」

「そうなんだー。急に連絡きたから、ちょっとびっくりしたよ」

聖は屈託のない笑みを浮かべ、再び机に向かった。

彼女にとっては、ただのクラスメイトからの、少し珍しいタイミングの連絡。

私は視線を外して、自分の手元にあるスマホに目を落とした。

なんだか、とても幸せな気持ちだった。

今日は朝から、彼女とこんなにも楽しく会話ができてしまったのだから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ