【エピローグ】十九路の向こうに
北京、国家囲碁センター。
静かな資料室の一角で、林玥はひとり、タブレット端末に映し出された棋譜を見つめていた。
──光志 vs 加藤大河。
中央突破からの逆転劇。
最終譜の一手を見届けると、彼女は小さく息を吐いた。
「……やっぱり、あの人らしい」
その横で、白湯の入ったマグカップが湯気を立てている。
スマートフォンには、小さなパンダのキーホルダー。
ふと、彼女の視線がそのキーホルダーに落ちる。
──あの日、あの部室で、互いのキーホルダーを見比べて交換したこと。
光志の縮んだ緑のパンダと、自分の限定版のパンダ。
「どっちが本物か、一目瞭然だな」なんて、少しむくれたふりをしたあの日の自分。
今思えば、あれは照れ隠しだったのかもしれない。
「また、無茶してたな。あれ」
声がして、振り向くと魯凰が立っていた。
彼女も同じく中国代表として登録されていたが、今日は練習を早々に切り上げてきたようだった。
「……どこが無茶なのよ。ちゃんと読み切ってる」
「読み切ってるように見せてるだけさ。君なら、あの打ち方は選ばない」
「そうかも。でも、私は今、それが少し羨ましいと思ってる」
魯凰は珍しく言葉に詰まり、眉をひそめた。
「……まぁ、認めたわけじゃないけどな。気になる手筋だったのは確かだ」
「……ちょっとだけ、楽しそうでしょ」
「お前がそう思うなら……まあ、否定はしない」
ユエは、そっと棋譜を閉じた。
「次は公式戦で当たるかもね」
「……そのときは、手加減するなよ」
「あら、こっちのセリフ」
言葉には刺があっても、その目は穏やかだった。
そのとき、ユエのスマホが小さく振動した。
画面には、定期送信されてくる幻影ちゃんのメッセージ。
《光志くん、本日の成長ログ更新完了です。ところで最近、落語に興味がありまして。。。“照れ隠しのツケ三々”、案外、勝負手かもしれませんね。ちなみに、「へそ曲げた茶碗と、真っ直ぐな箸でも、ちゃんとご飯は食えるんです」──というのも、落語の粋な知恵だそうです》
「……落語?」
ユエが眉をひそめると、横から魯凰が覗き込んだ。
「落語ってなんだ?……AIの進化って、よくわからないな」
「まったく……意味不明すぎる」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
そして、そっとスマホにぶら下がるパンダのキーホルダーを指先で弾きながら、彼女は思う。
──いつか、十九路の先でまた。
碁盤の向こうに、互いの全てをぶつけ合える、その日まで。
終局 ──




