【第2局】十九路の門出
春が過ぎ、夏の匂いが街に忍び寄る頃。
光志は、地方都市で行われる日本棋院のプロ入段試験を受けるため、小さなキャリーバッグを引いて駅に立っていた。
ホームに立つその姿は、どこか背中が軽くもあり、重くもあった。
「……さて。いっちょ、やるか」
手にしているのは、囲碁の棋譜ノートと、あのキーホルダー。
改札を抜けるとき、スマホが振動した。
長嶺先生からのメッセージだった。
『幻影ちゃん、こっちでも元気にしてるぞ。こないだ、なぜか落語の音声解析始めてたがな。』
思わず笑いがこぼれる。
「変な進化してんな……」
プロ入りの試験は、想像以上に過酷だった。
同世代のライバルたちは、研修会や囲碁道場で鍛え上げられた猛者ばかり。
地方から一人で出てきた光志には、その雰囲気すら異世界のように思えた。
だが、一局目が始まった瞬間、肩の力が抜けた。
碁盤と石がそこにある限り、やるべきことは変わらない。
「ただ、打てばいい」
光志は、全国大会でユエとともに築いた一手一手を思い出しながら、着実に勝ち進んでいった。
しかし、最終局直前で敗北。
順位次第では不合格──そんな空気が流れる。
待機室での沈黙。
そのとき、スマホが震えた。
《落ち着いてください。光志くんなら、まだ間に合います》
幻影ちゃんからの通知だった。
なぜかタイミングが完璧すぎて、光志は笑いながらつぶやいた。
「お前、ほんとに見てんじゃないか……」
最終局。相手は前年もプロ試験に挑戦していた大学生。
紙一重の勝負。
そして、光志は勝った。
結果発表の直前、審査員室では静かな議論が交わされていた。
「うーん……悪くはない。勝率もギリギリ基準を超えている」
「しかし、この終盤の打ち回し。稚拙だ。寄せが甘すぎる」
「この手……なんだ? 地の感覚はあるが、形を崩してるだけにも見える」
光志の棋譜を前に、試験官たちは慎重に合否を論じていた。
そのとき、静かに審査室の扉が開いた。
重厚な声。年季の入った一人の老棋士が現れた。
「おお、先生……ご視察を?」
「視察だなんて堅苦しいな。たまたま近くに来たからだ。……で、これは誰の棋譜だ?」
「ああ、ええと。地方から一人で来た、古賀光志という子のです。強いというより、癖があるタイプですね」
老棋士は黙って数手を指でなぞり、ふっと目を細めた。
「──面白い。型にはまってない。だが、野暮ではない。感覚で打ってるようで、ちゃんと局面に耳を澄ませている」
「先生、合格と見ますか?」
「合否で言えば、ギリギリだろう。だがな……こいつのような“予測不能な打ち手”が、いまの日本囲碁には必要かもしれん」
沈黙の後、試験官たちは頷いた。
「……わかりました。古賀光志、合格としましょう」
結果発表の場で、自分の名前が呼ばれた瞬間、光志の目に、涙が浮かんだ。
「やったぞ、ユエ……」
そう呟いて、ポケットの中のキーホルダーを、ぎゅっと握りしめた。




