【第1局】旅立ちの春
春の空気には、少しだけ塩っぽい匂いが混じっていた。
卒業式を終えたばかりの高校の裏庭で、光志は制服の第2ボタンを指でつまみながら空を見上げていた。
「……終わったな」
別れの言葉が行き交う校門の前には、笑顔と涙が交錯している。
だが、光志はその輪の中に入らず、囲碁部の古い部室に向かっていた。
「ユエも、あの時……」
ポケットの中のキーホルダーをそっと握る。
あの駅のベンチで、無言で差し出したキーホルダー。そして、交換……
言葉少なだった別れの日。でも、その手のひらから伝わってきた想いは、今も消えていない。
──あいつは、もう前に進んでる。
自国で、ナショナルチームの一員として結果を求められながら、きっと悩んで、もがいて、それでも打ち続けている。
ならば、自分も。いや、自分こそ──。
プロ入りを目指す──そう決めたのは、全国大会の翌日だった。
大学推薦も、就職試験も、まったく眼中になかった。
ただ、「囲碁で生きていく」と決めた。それだけ。
担任には止められ、両親にも頭を下げた。
理解はされなかったが、止められることもなかった。
「面倒見きれん、ってさ」
笑いながら、幻影ちゃんに言うと、
《自立の証ですね。おめでとうございます》
と、やけにポジティブな返答が返ってきた。
囲碁部は、その年で正式に廃部となった。
光志が最後の部員で、最後の卒業生だった。
部室に残された囲碁盤や雑誌、そしてAI端末──幻影ちゃんの引き取り先についても話し合われた。
結局、顧問の長嶺先生が「思い入れがあるから」と言って、自宅へ持ち帰ることになった。
「AIにも、第二の進路ってやつがあるのかもな」
光志が冗談まじりにそう言うと、幻影ちゃんは、あっさりと応じた。
《新天地での再教育ですね。向上心、ありますから》
「名実ともに“部員ゼロの囲碁部”だったな」
《でも、その孤独は礎になったはずです。データ的にも》
「お前、そういうとこブレねぇな」
少しだけ目を細めた。
その日の夜、部室で一人黙々と打ち続けた。
相手は幻影ちゃん。
勝敗はつかない。けれど、何かを確かめるような一局だった。
碁盤の上で、進む道を、もう一度問い直していた。




