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1.3逃亡

 医務室を通って城の裏口に出ると、激しい雨がユアの身体を打ち付けた。マントは雨を吸って、一層暗闇に溶けた色になった。ユアは城の裏口から裏門に続く道を走り始めた。


 走り始めてしばらくすると、雨に濡れた土の匂いに混ざって、微かな甘い香りがユアの鼻をくすぐり始めた。気が付けば、裏門へ続く道と植物園に続く道の別れ道に差し掛かろうとしていた。植物園へと向かう道の先には、大きな月蝶樹が雨に濡れて輝いていた。


 艶やかな美しい樹皮に青々とした葉、月光のような輝きを放つ大きな蕾。その樹を囲うようにして掘られた大きな池には、少しずつ雨水が溜まりつつあった。


 この池に十分な水が溜まる頃、この樹に宿った蕾はエテルだけが扱うことのできる魔法によって、花を開く。開いた花の中からは、花と同じ金色の輝きを放つ蝶が生まれる。この蝶が南に輝くつばめ座に向かって飛び立つ姿が、アスタリアに梅雨の終わりを告げる合図になっていたが、もう二年ほど前から月蝶樹が飛び立つ姿を見ていなかった。今にも花開きそうな蕾を遠目で見ながら、ユアは初めてその花から蝶が飛び立った姿を思い出した。


 当時十歳のユアを乗せた船、はてみ号は、陸から吹く風に逆らうようにしながらアスタリアの港へ辿り着いた。船が港へ到着したとき、アスタリアの街からはとっくに家々の灯りは消えて、みんなが眠りに就いているような時刻だった。ユアは馴れない船旅で重くなった身体を無理やり動かしながら船を出ると、港で王の帰りを待っていた兵士たちが馬を用意しているところだった。


 ユアはその中で最も小柄な馬に乗ると、馬は城に向かってゆっくりと歩きだした。道の先には、父の大きな背中と、母の背中がそれぞれ馬に揺られていた。いつもの帰り道と違うのは、父の操る馬に、この旅で出会った年の近い少年がいることだった。それがエテルだった。


 馬の心地のよい揺れと足音に身を預けていると、城の門はもうすぐそこまで近づいていた。少し先を行く父の馬が城の門を通った時、エテルは弱々しい声で呟いた。

「花の甘い香りがする。」


その呟きに母が答えた。


「よく気が付いたわね。毎年この時期に月蝶樹の蕾から甘い香りがするの。」


「見に行きたい。」


エテルは言った。


「残念だけれど、見に行っても花は咲いていないの。あの樹、蕾はなっても、花にならないの…。」


「いい。」


母の言葉に食いつくようにして答えたエテルの力強い返事に何かを感じ取った父は言った。


「みんな、先に城へ戻って休んでくれ。俺とオリビアは、エテルを植物園に連れていく。ユア、お前もみんなと一緒に先に城に戻るか。」


自分だけ置き去りにしないで欲しいと思ったユアは、父の問いかけに対して大きく首を振った。


 そして、四人は植物園へと続く道を進んでいった。母に連れられて先を歩いているエテルの顔はずっと下を向いていた。ユアはそれを見て、夜空を見上げながら歩くことを決めた。雲一つない南の夜空には、つばめ座の星が輝いていた。もうすぐアスタリアに夏がやってくるとユアは思った。


 月蝶樹の蕾の香りが一層強く鼻に通り抜けたのに気付いて、ユアは上に向けていた目線を戻した。ちょうどその時、エテルは月蝶樹に向かって全力で走り出した。


「急に走り出してどうしたの。」


母はそう叫んでエテルを追いかけ始めた。その様子に驚いた父はユアの身体を抱きかかえると急いで二人の後を追っていった。


 ユアを抱える父が二人に追いついたとき、エテルは月蝶樹を囲む池に飛び込もうとしていたところだった。ちょうど梅雨の終わり頃、冬から春にかけて空っぽだった池は、澄んだ雨水でいっぱいになっていた。


「エテル、何をしようとしているんだ。」


そう叫ぶ父の声にエテルは気付く様子もなく、そのまま池を泳いで、月蝶樹が根を張る小さな浮島へ辿り着いた。月蝶樹には、毎年花を咲かすことなく枯れていく金色の蕾がたくさんなっていた。水をたくさん吸い込んだエテルの服はとても重そうに見えたが、そんな素振りもなく、エテルはゆっくり月蝶樹に近づくと、その樹に触れた。


 しばらくすると、エテルの手と月蝶樹が重なるところから、光が溢れ始めた。溢れた光は樹の幹から枝へ伝って、蕾に届いた。光を受け取った蕾は、固く閉ざしていた花びらをゆっくり広げていった。


「花が開いていく…。」


 母が小さく呟いたのと同時に、一番初めに光を受け取った蕾が、その花を完全に咲かそうとしていた。

花の中心を囲う最後の花びらが開いたかと思ったその時、中から金色に輝く羽根を持つ蝶がゆっくり羽を広げて宙に飛び立った。その蝶が飛び立つのに合わせて、光を受け取った花から次々に蝶が生まれて空に舞い上がっていった。夜も更けているというのに、あたりは、美しく柔らかな金色の光に包まれた。


 初めて見る月蝶樹の本当の姿に父も母も言葉を失うほど、心を奪われていた。ユアも、美しく輝く蝶の姿を懸命に目で追っていると、一匹の蝶がユアの胸元に飛んできて、羽を休めた。その蝶はしばらくユアの胸元にとまって羽をパタパタと動かすと、やがて飛び立っていった。その蝶が飛び立った先を目で追えば、こちらを見つめるエテルの琥珀色の瞳がユアの目に移り込んだ。


(この蝶と同じ色をしている…。)


ユアは彼の美しい瞳から目を逸らすことが出来ず、しばらく二人は見つめ合っていた。


「エテル、これは君の魔法なのか。」


父の問いかけが沈黙を破った。エテルは首を縦に振って言った。


「俺をあなたたちの兵士にしてください。必ず強くなります。だから、この花の側にいさせてください。」


エテルの力強い瞳が父を見つめていた。それから数年後、彼は王の騎士団の一員となって、史上最年少で王の騎士団の隊長クラスに昇りつめていった。


 裏門へ続く道の先に、揺らめいている一つの灯りがユアを思い出から現実に引き戻した。灯りの近くに人影らしいものは一つ。もしかしたら、近くにもう一人くらいは見張りの兵士がいるかもしれないと思った。ユアは紺色のマントについているフードを深くかぶった。エテルから受け取った小瓶をポケットから取り出して、握り絞めると、明かりの近くにいる兵士に向かって、さらに足を速めた。相手の姿がはっきりと目に捕らえられるほど、近づいた時、兵士はやっと何者かが自分たちに近づいてくるのに気付いた。


「何者だ。そこで止まれ。」


一人の兵士がユアに向かって叫びながら剣を構えた。その声に反応するようにして、明かりからわずかに離れたところで、別の兵士も剣を構える音が聞こえた。

ユアは腰に差した剣を抜きながら、一人の兵士に近づくと、相手の剣を簡単に躱して、相手の顔にめがけて眠り薬を撒いた。その薬を吸った兵士は、大きな音を立てながらあっという間に地面に倒れこんだ。


 その様子を見ていたもう一人の兵士が、ユアに向かって突進してきた。ユアも剣を構えて相手に向かって走り出し、相手の刃に自分の刃をぶつけた。二つの刃から甲高い音が鳴り響いて、辺りに響いた。相手はユアよりも体格の良い大きな男だったが、この押し合いはユアのほうが優勢のようだった。兵士は一度身を引くと、もう一度剣を振り上げながらユアに切りかかろうとした。


 ユアももう一度相手に向かって走り出そうとした時、強い風が吹いて、ユアのフードが脱げた。その瞬間、兵士の瞳にユアの顔がはっきりと映った。兵士は今自分が誰と戦おうとしているのかを理解し、わずかに剣を振り下ろすのを躊躇った。相手のわずかな隙を利用してユアは相手に思いっきり眠り薬を浴びせた。相手の大きな体と剣が地面に落ちる音がしたその時だった。


「何かあったのか。」


声のするほうを振り向けば、一人の兵士が灯りを持ちながら、こちらへ向かってくるのが見えた。


(交代の時間だ。)


ユアは心の中で自分の運の悪さを恨んだ。ここで時間を使うわけにはいかないと考えたユアはこちらに向かってくる兵士を無視して、裏門を通り抜けた。北門へ続く大通りに進めば、一人の旅人らしき人物が馬を引きながら宿に向かおうとしている姿が目に入った。ユアは急いでその旅人に近づくと、旅人が握っていた手綱を奪い取り、馬に乗せられていた大きな荷物を地面に落としていった。


「何をする。」


あまりにも突然の出来事に驚いた旅人は、声を荒げた。


「すまない。」


ユアはたった一言、旅人に呟いて、馬に乗ると、懐から金を取り出して相手に投げつけた。


「俺の馬を返せ。」


そう言って、旅人は馬に乗ったユアを引きずり落そうとしたが、ユアはその旅人を容赦なく突き放すと、馬を走らせた。


「そこで止まれ。」


先ほどの旅人とは別の声が通りに響いた。馬を走らせながら後ろを振り向くと、兵士が裏門を出てユアを追いかけてきていた。しかし、兵士はユアが馬に乗って逃げる姿を見ると、追いかけるのをやめて、弓を構え始めた。


(この距離で私を射抜くには、相当な手練れの弓使いでないと出来ない。ただの見張り番の兵士にそんな技術はない。)


 相手の構える弓を気にせず走り続けよう決めたその時だった。自分の背後から恐ろしく強い殺気を纏った何かが迫ってくるのを感じた。慌てて後ろを振り向けば、先ほどの兵士が放ったであろう矢が、黒い光を帯びながらユアに向かってきていた。ユアは、馬の走るスピードを上げて一番近くの角を曲がらせた。


(あんな風に矢を射る兵士を今まで見たことはない…。)


角を曲がって少しの安心感に浸ったその時、鋭い痛みがユアの左肩を走った。痛みのする方へ目を向ければ先ほどの黒い矢が、ユアの肩を貫いていた。わずかな混乱がユアの頭の中を駆け巡った。


(彼は風を操ったのか。)


ユアは刺さった矢を無理やり引き抜くと、肩から血が溢れてマントを赤黒く染まっていった。矢を握る掌からは、わずかな痺れを感じる。


(魔法だ…。偶然、あいつがあの魔法を使えるだけなのか…。それとも…。)


馬を走らせながら、ユアは考えを巡らせた。ユアが向かう北門には、その門を挟むようにして2つの見張り塔があった。その見張り塔には弓使いの兵士が一人ずつ、門の大扉の前には剣使いの兵士が二人、常駐しているはずだった。


(いずれにせよ、あの矢に追われてしまったら私は逃げ切ることはできない。)


再び大通りに出る角が見え始めた時、ユアは馬をそっと撫でた。


「弓使いの兵士は私が何とかする。あなたは暴れながら門まで走ってきて。」


そう言ってユアは馬を飛び降り、家の脇に積まれた木箱を踏み台にしながら屋根に飛び乗った。家の屋根を三軒分ほど走り抜ければ、見張りの塔だった。ユアは激しい雨に打たれながら、屋根の上を駆け抜けていった。


「おい、大通りから何かがやってくるぞ。」


見張りの兵士が門から叫ぶ声が聞こえた。


「暴れ馬だ。人が乗っていない。」


「門を開けて馬を逃がそう。大扉の修理なんてごめんだからな。」


「おい。門の扉を開けてくれ。」


下にいる兵が見張り塔にいる兵士に向かって叫んだ。見張り塔の兵士がそれに応えたのか、門の扉がゆっくり開き始めた。あと一軒分の屋根を駆け抜ければ、見張り塔の距離だった。


ユアは軋みながら開いていく門の扉を見下ろしながら、スピード上げて駆け抜けると、屋根から思いっきり飛び跳ねて、見張り台へ移った。


その着地音に驚いた兵士が慌てて弓を構えながら振り向くと、驚いた顔で言った。


「なぜあなたがここにいるのですか。」


ユアは焦っている兵士の腕に、先ほどまで自身に刺さっていた矢を思いっきり投げつけた。兵士がうめき声を上げながら、手にしていた弓を放した隙に、彼に迫ると眠り薬を浴びせた。兵士は大きな音を立てながら倒れていった。気づけば、もう小瓶の中身は空になっていた。


「何かが倒れる音がしたぞ。大丈夫か。」


 こちらの騒がしい音に気付いたのか、向かいの見張りの塔にいる兵士が声を上げた。ユアは兵士の側に散らかっていた弓と矢を拾い上げると、そっと向かいの塔を覗いた。


 こちらの様子を伺う兵士は特にこちらを警戒しておらず、弓を構えている様子もなかったが、あの魔法のことを考えれば、ここで相手を止めるしかなかった。ユアは相手の右腕に狙いを定めて弓を構えると、矢を放った。矢は雨と風に晒されながらもまっすぐ相手の右腕を貫いて、男の叫び声が辺りに響いた。


「おい、上の様子がおかしいぞ。」


下にいる兵士も、見張り塔の兵士の異変に気付き始めたようだったが、馬はもうすぐにそこに迫っていた。


「上の様子を構っている場合じゃない。暴れ馬がこっちへ走ってきているんだぞ。」


一人の兵士がそう叫ぶと、上の様子に気を引かれた兵士と共に門から離れていった。

馬はその様子を理解したのかさらにスピードを上げながら門を抜けていった。ユアは魔法でわずかに体を軽くすると、見張り台から飛び降りて、そのまま馬の背に乗り移った。

 後ろを振り向けば、ゆっくりと門が閉まり始めている。ユアは再び前を向くと、森の中へ走っていった。


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