停滞温床:I
あれから一週間……いやまだ6日目かもしれないしもう8日目かもしれない。
何はともあれ、私はまだ生きている。
何でかというと、やっぱり奇跡が起こったからだ、としか言いようがない。
あの時……上下に腕をかざしたら、迫りくるものたちが何かにぶつかったかのようにその身を仰け反らせた。その後は何か……そう、まるで見えない壁に阻まれるかのようにガリガリと虚空を引っ搔いていた。
私はその様を呆然と眺めていたが、直ぐに我に返り逃げ出した。上でも下でもなく、横に。山道の柵を乗り越え、整備されていない草ぼうぼうの地面へと降り立ち、道などない坂を無我夢中で駆ける。途中、何度も躓きそうになりながらも、転げ落ちそうになりながらも、とにかく走る。途中、私に向かってくる何かに対しては、手をかざすと先程と同じような事が起こった。どうして急にこんな事ができるようになったのか全く分からないけれど、とにかくそれらから離れる事だけを考えて動き続けた。
命からがら逃げだし、漸く一息付けたのは農道だった。辺り一面田畑が広がっていて、その先に民家などの建物が見えた。農道には誰もいなかったが、360度視界の遮るものの無い中で不安と途方に暮れた。ここにいても仕方が無いのでとぼとぼと道を歩くと、その先に小さな小屋がぽつりと建っているのが見えた。
私はそこにも例のやつらがいるのではと警戒したが、直ぐに思い直した。建物は光も無くしんと静まり返っていた。どうやら農作業小屋のようだが長年使われていないのか、中は荒れ放題だ。私はその小屋で一晩を過ごした。眠れないのではとも思ったが、案外眠れた。我ながら図太い神経をしているなと、目を覚ましてから笑ってしまった。
既に日は登り、朝というよりは昼とも言える時間。私はまず時刻を確認しようとして携帯が無い事に気が付く。展望台に向かう時には持っていたから、逃げる時に何処かに落としてしまったのだろう。
携帯を探しに一度旅館の方へ戻ってみようとして、直ぐに諦めた。街中には例のやつらが沢山うろついていた。そいつらはそこで何をするでもうろうろと歩き回っていた。時折奇妙なうめき声を上げているそれらは、きっと私を見つけたら襲ってくるだろう。もしかしたら襲ってこないかも知れないが、試してみる気は起きなかった。
結局小屋に戻り、これからどうしようかと悩み続けた結果、私は今まだ尚生きている。
ここの小屋の周りは田畑だけで、例のやつら、私はそれらをゾンビと呼ぶ事にした。安直だとは思うが他に良い呼び名が見つからなかった。まぁ兎に角この小屋にゾンビたちはやって来ない。時折田畑の中でゾンビがうろついているのが見えるが、こちらまで近寄ってくる事は無い。とりあえず安全地帯は確保できている。と、ぐぅと私のお腹が鳴った。どんな時でもお腹は空く。私は水と食料を求めて行動を開始する。向かう先は歩いて15分くらいの所にあるコンビニだ。
農道から大通りに出る。相変わらず車は走っていない。あるのはわき道にそれて停車している車や横転している車だけだ。それらは初めてここに来た時と同じようにあり、ここに人通りが全く無い事を意味していた。
それらを横目に大通りを歩く。途中、住宅やお店などの建物に面しているところは警戒をしながら進み、無事コンビニへと辿り着く。そこは校外のコンビニらしく駐車場が広い。大型車両が止められるスペースもあり、きっとこんな事になる前はトラックとかバスとかが休憩のためにここで買い物をしていたんだろうな、なんて思う。
まぁ、何はともあれ駐車場が広いのは助かる。私はそこからコンビニの店内を覗く。既に電機は止まっているのだろう、薄暗いコンビニ内に……ゾンビの姿が見えた。そいつは一見すると生きている人間のようにも見える。人間と同じように服を着ているし、人間と同じように立って歩いているから、私も最初は生きている人間だと思って近づいていって何度か襲われかけた。けど、次第に見分けられるようになっていった。それは私が見分けられるようになったわけではなく、ゾンビたちの見た目が変わっていったからだ。衣服は相変わらず来ているが、肌色はだんだんと生気の無い土気色に変色していった。顔や四肢は痩せ細り、髪は乱れ放題で、搔きむしったかのように頭髪の一部が抜け落ちているゾンビも見かけるようになった。今、コンビニ内にいる者も、その特徴に当てはまっている。
そいつはコンビニ内を何をするでもなくうろうろとしている。このパターンのゾンビはあまり長居しない。私は大通りを挟んで向かい側にある電柱の陰に身を潜めながらコンビニ内を観察する。
ゾンビたちの動きにはパターンがある。さしずめ、このコンビニに来るゾンビたちは2パターン。売場をうろついて直ぐに出てくるタイプと、カウンター内まで入り込み長時間居座るタイプ。私は前者を買い物客タイプ、後者を店員タイプと呼んでいる。
そう、ゾンビたちはまるで生前に行っていた事をなぞるかのような動きがみられる。旅館などがある市街地に数が多いのも、田畑の中で時折見かける者達も、そしてここ、コンビニでも。それらは生前と同じ行動を繰り返しているのだろう。本当の所は違うのかもしれないけど、今のところ私はそう思っている。
やがてコンビニからゾンビが一体、手ぶらで出てくる。それは一旦辺りを見渡して、恐らく乗ってきた車を探しているのだろう、ある方向へとのろのろと歩いていく。
私はそれが十分離れた後にコンビニへと近付く。あのゾンビが出て行くまで見ていたが、他に動く者は見られなかった。つまり、今あのコンビニ内に他のゾンビはいない。私は入り口に立ち、店内に動く者が無い事、そして今一度後ろを向いてゾンビがいない事を確認してから中に入る。
まずは水を求めて店内の奥にある飲み物コーナーから水の入った大きめのペットボトルを一本手に取る。それから食べ物、と言っても弁当やパンなどは既に賞味期限が切れている。私はパックご飯とおかず代わりのレトルト食品、小腹が空いた時用の栄養バーをいくつか拝借する。それから衣類を一通り買い物かごに入れる。これが今日一日分生きるためのものだ。本当は一度にもっとたくさん持っていけば毎日危険を冒してまでここに来る必要は無い。けど、もしかしたら他に生き延びた人がここに来るかもしれない。その人たちのためにも持ち出すのは必要最小限にすべきだろう。尤も、そんな人は未だに見かけたことないけど。
「はぁ……」
本当にもうこの辺りに生きている人はいないのだろうか。クラスメイトや先生たちも、そして私に告白してくれた男子もゾンビになってしまったのだろうか。折角の楽しい修学旅行だったのに……そう考えると気が落ち込む。
「っといけないいけない」
ついつい考え込んでしまったが、ここはコンビニで何時ゾンビたちが入ってくるかもしれない危険地帯だ。私はかごを持ち上げ出入り口へと向かう途中、
「えっ?」
出入り口近くのカウンター内にゾンビが一体いる。何をするでもなくレジの前に立ちうめき声を上げている。そいつが土気色した顔を私に向けた。途端、叫び声を上げながらカウンター越しに私に手を伸ばしてくる。
「いやぁっ!」
私は咄嗟にかごを持っていない方の手をゾンビに向かってかざす。その瞬間、ゾンビが大きく仰け反り、後ろの棚に叩きつけられる。棚に入っていた煙草の箱と共にそいつもずるずると落ちていく。
私はそれが床に落ちきる前にコンビニを出る。駐車場を一気に走り抜けながら、他にゾンビがいないか辺りを見渡す。幸いゾンビの姿はない。私は大通りを渡り、農道へと足を踏み入れる。そのまま小屋まで走り切って、ようやく一息を着く。
「はぁ、はぁ……ふぅ」
危なかった。あのゾンビ、私の後から入ってきたわけでは無さそうだった。つまり店内にいたのだ。となると店員タイプだったのだろう。恐らくカウンター奥にあるバックルームに身を潜めていたのだ。いや違う、多分あのゾンビは……
「休憩中だった……のかな?」
まさかそういうパターンで来られるとは。これからコンビニに入る際は、カウンター奥も注意しないといけない。
「それにしても……」
私は自分の左手を見る。ゾンビが現れた夜、急に使えるようになった力。私が手をかざすと見えない壁のようなものが現れる。ゾンビに襲われてもこの力さえあれば逃げる事ができる。いや、逃げやすくなるだけだ。さっきのようにゾンビが一体、カウンターの中にいるだけなら問題はない。けど、例えば出入り口にいた場合、動きを止めても出入り口ごと塞ぐ事になる。そうなったら襲われないけど逃げられない。もしくは複数で襲われり、周りを囲まれたりしたら、幾らこの力があっても逃げられないだろう。
とはいえ、この力のお陰で生き延びられたのも確かだ。まだまだ不明な点も多いが、分かっている事もある。まず、見えない壁といったが、実際はかなり弾力があるらしい。ゾンビたちがぶつかった時に押し戻されるようになるのはその為だろう。あと、大体一分程度で消えてしまう。他に分かっている事といえば、力を使った代償のようなもの、例えば酷く疲れるとかお腹が急に減るとかなど、は今のところ見られない。けど、あくまで今のところは、だ。実は寿命を削っていましたとか、若さと引き換えにしていましたとか、後出しで分かる事だとお手上げだ。とはいえ、使わないと死んでいたのだから仕方が無い。折角生き延びたのだから、そう簡単に死んでなんかやるもんか、と決意を新たにする。
けど、生きているという事はお腹も空くし、何より……
「汗臭い……」
汗もかくし、衣服も汚れていく。これも割と切実な問題だ。
私は小屋の中に入り、入り口に目隠し用のバスタオルを一枚かける。完全には防がない。少しだけ外が見渡せる程度にしておく。小屋の中はある程度は片付けて眠れるだけのスペースは確保している。そこに洗面器を置き、ペットボトルから水を少しだけ注ぐ。そこにタオルを浸し、ゆるく絞る。それから、なるべく外から見えない位置で衣服を脱いでいく。下着まで外したら、タオルで全身を拭いていく。
「はぁ、お風呂入りたい、シャワー浴びたい」
なんてぼやきながら。何度かタオルに含んでいる水分を交換しながら髪もそうやって洗っていく。髪の長さは肩にかからない程度で揃えている。決して長くはないとは思うが、こういう時不便だと感じる。いっそ短くしてしまおうかとも考えたが、実行までには至らずにいる。
とかいろいろと考えている内に全身拭き終わり、別の乾いたタオルで水気を取ると、先程コンビニから持ってきた新しい衣服を着る。
さっぱりしたとは言えないが、さっきよりかは心も体も幾分かましになる。入り口に掛けたバスタオルを取り、外の様子を確認する。近くに動く者が無い事を確認してから小屋に戻り食事を摂る。パックご飯にレトルト食品をかける。どちらも温める事ができないので常温だ。けど、何も食べられないよりはましだし、レトルトもカレーは勿論、ハヤシライスにシチュー、牛丼や親子丼、中華丼などの丼物もある。これだけレパートリーがあれば、食に飽きることも無いだろう。
食事も摂り終わると、いよいよする事が無くなってしまう。これからどうしたらいいのだろう。旅館のある所や民家のある所にはゾンビたちが徘徊している。この不思議な力があったとしても、中に入るのは危険だ。かといってずっとここにいる訳にもいかない。コンビニにある物資には限りがあり、それらが補充されることも無い。明日明後日で尽きる事は無いが、何れその日は来る。そうなった時には流石に腹をくくって行動しなくてはいけないわけだが……
「せめて、他に誰か生きている人がいればなぁ」
なんて無茶なことだと分かりつつも、ついぼやいてしまう。
明日はまだ見えない。