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遊行厳戒:IV

 その日の夜。食事を終えた私たちは交代交代で湯あみをする。と言ってもお湯に浸かる事は出来ない。洗面器にお湯を入れてタオルを浸す。それを絞って体の汚れを落とす程度だ。それでも温かいタオルはとても気持ちがいい。心も体もリフレッシュできる。

 先に私がいただき、今は七奈がテントの中で湯あみをしている。私は一応見張りをしながらテント内から聞こえてくる鼻歌に耳を傾ける。高等学校のグラウンドは広く見晴らしが良い。学校という事もあって、夜にゾンビがいることも無い。それでも寝泊まりする場所は毎回変えている。同じ場所で寝泊まりする危うさはもう知っているから。

「ふんふんふ~歯磨き粉味のチョコミント味~♪」

 しかし、何というか……酷い歌詞である。明らかに昼間の件を引き摺っている事が伺い知れる。いや、或いは特に何も考えずに今日あった出来事を歌っているだけかもしれない。心地よい生地に滅茶苦茶なトッピングを施されたそれは、それでも私の心を和ませる。

「ふーきれいさっぱりおめめぱっちり」

 やがてよく分からない事を言いながら七奈がテントから出てくる。Tシャツにキュロット姿の彼女が大きく伸びをする。すらりと伸びた両腕両脚が闇夜に光る。

「おめめパッチリって、目が覚めちゃったの?」

 これからする事といえばもう寝るだけ。目が冴えていては眠りに支障が出てしまいそうだ。

「んー、いや眠いかな。流石に?」

「流石にか」

 七奈が「えへへへー」と照れ笑いをしながら私の横に腰掛ける。可愛い。そのまま空を見上げる彼女の視線を追う。そこには奇麗な星空が広がっている。

 思えば、こんな風に空を眺める事なんて今までなかった。夜空に瞬く無数の光たち。彼らから見える私はどう映っているのだろうか。闇に閉ざされたキャンバスに灯る儚い光は、隣にある温もりだけを頼りに仄かにその存在を保っている。彼らは何も答えてくれない。唯々静かに瞬くのみ。ふと、頬を伝う一筋の熱。それはあっという間に流れ落ちる。

「ら、楽來!?」

「え?」

 七奈の驚いた声の方を向く。彼女は私を見て驚いているように見える。

「な、なななな、何で泣いてる!?」

「え、あー」

 まさか見られていたなんて。けど別に意味は無い。星空を見ていたら自然と流れていた。ただそれだけだ。

「ううん、何でもないよ」

「何でもないのに泣いたりしない!?」

「そうかな」

「そうだよ!」

 心配かけまいと何でもないと伝えたかったがどうにも伝わらなかった。七奈はその場で頭を抱え、うーと目を瞑りながら左右に揺れている。

「本当、何でもないのにな」

「そうなの~?」

「そうなの」

「ほんとに~?」

「本当に」

 揺れる七奈。頭を抱く腕の隙間からちらちらとこちらを伺う瞳。心配してくれている事が嬉しくて、でも安心してほしくて微笑みで返す。

「んん~」

 やがて揺れ幅がゆっくりと小さくなっていき、もう止まるかなと思った時に、

「よし、決めた!」

 と高らかに宣言して勢いよく立ち上がる七奈。決めたって何を?私がそう疑問に思う前に、

「寝よう!」

「え?」

「今日はもう寝よう!」

 七奈はそう言うと一目散にテントの中に入っていく。あっという間に彼女の姿が見えなくなり、私はグラウンドに一人残され、呆気に取られる。と、彼女がテントから手だけを出して手招きしてくる。その妙な仕草に苦笑しながらも立ち上がりテント内へと向かう。

 テントに入ると既に寝袋が敷かれていて、七奈は既にその中に入り込んでいた。目を固く瞑っていて、そんなんでは眠れないのでは、と思う。まぁ突っ立っていても仕方が無いので、私も寝袋に入る。時折彼女の体が怯えたようにびくつく。本当に何なのだろう。七奈はさっきからどうにも挙動不審で、見ているこっちも落ち着かない。落ち着かないけど……

 横になった途端、唐突に睡魔に襲われる。ここ数日はいつもこうだ。随分と眠りへの導入がスムーズで、直ぐに寝入ってしまう。まぁ日中あれだけ歩いているのだから当然と言えば当然なんだけど。

 今日もその流れに身を任せて微睡みかけて……

「じー」

 奇妙な視線を感じる。

「じー」

 これはきっと七奈が私の事を見ているのだろう。

「じー」

 何か意図があるのか。それともただ見ているだけなのか。

「じー」

 というか……

「じー」

「ってこらこら」

 思わず突っ込みを入れて目を開く。横を向くとジト目でこちらを睨む七奈の顔が映る。ジト目の七奈はレアだ。可愛い。

「じゃなくて、何なの?」

「えーだって私がこんなに見てるのに気が付かないんだもん」

「だからって、じーって口に出すのはどうかと思うよ」

「でもそうでもしないと、楽來気が付いてくれないんだもん」

「いや、じーっと見られたら気が付くって」

「えー、でも昨日も一昨日も気が付かなかったじゃん」

「えっ、そうだったの?」

「そうだよー」

 そう言って七奈が不満全開の顔でブーイングをする。子豚みたいで可愛いと思うのは流石に失礼か。

「それはごめん」

 とりあえず謝っておく。でもこの街に来てからはずっと歩き詰めだったわけで、直ぐに寝てしまうのは仕方が無いとも思う。てっきり七奈も直ぐに寝てしまっていたとも思っていたし。

「でも何か話したい事があるなら言ってくれればいいのに」

 そう言ってからそれがそう簡単では無い事に気付く。現に私も七奈に聞きたい事があるのに言えていない。いっそ聞いてしまえば、胸に刺さった小さな棘もどうにかできそうなのに。

「んー?いや別に何か話したいとかじゃないんだけど~?」

「え、あ、そうなの?」

 けど、七奈からの返答は意外なもので肩透かしを食らってしまう。

「でもそれじゃあ何のために?」

 じーっと見ていたのだろう。てっきり何か話があるのかと思っていたんだけど。

「え、あーんーとそれはー」

 急に歯切れの悪くなる七奈。何だかもにょもにょ言っている唇は艶があり思わず目が引かれてしまう。でもそのまま見ているのは何だかまずい気がして目を逸らすと、薄紅に色付いた頬に気が付く。そういえば、七奈は時折私を見て頬を染めていたような。そういう時は決まって挙動不審で……そう、正に今みたいな感じになっていた。これは一体何なのだろう。私は視線を、顔を上げると、七奈の瞳に行きつく。

「んにゃっ!?」

 私と目が合った瞬間、七奈が奇妙な鳴き声を上げる。大きく見開かれたそれに映る私がこちらを伺うように見つめてくる。何だか吸い込まれそうで怖くて、でも目を離せずにいると急にその幕が降ろされる。

「も、もう限界だよ~」

 七奈がそう言ってごろんと体を反転させる。シュシュで軽く纏められた髪がふわりと舞い、甘い香りが鼻孔をくすぐる。

「げ、限界って……一体何なのよ、もう」

 七奈の瞳をもっと見ていたかった私は、彼女の背中につい抗議の声をぶつけてしまう。

「う~だってぇ~」

 七奈がちらりとこちらを伺ってくる。いつもと違って歯切れの悪い様子は私を不安にさせる。それをぐっと飲み込み、待つ。やがて、

「わ、笑ったりしない?」

 七奈が体を仰向けに戻しながらおずおずと聞いてくる。

「うん、しない」

 私が優しくそう答えると安心したのか、七奈がゆっくりと話し出す。

「え、えっとね。何だか最近ね。えっと、その、変な意味じゃないんだよ?」

「うん」

「その、えっと……ら、楽來を見てるとね、何だか妙に照れくさくなっちゃって……前みたいに手を繋ぎたいのにそれも上手くできなくて……」

「……そうだったんだ」

 ここ最近の七奈の余所余所しさは。けど、どうして急に?そう考えて思いつく事と言えば。

「だから……ごめんね。別に楽來のこと嫌いになったわけじゃないから」

「ううん、私の方こそごめんなさい。多分、七奈が私に対して照れくさくなっちゃったのって、この街に来た最初の夜の出来事が原因なんじゃない?」

 そう、あの夜……不安げに揺れる七奈の瞳を見て、私の体は自然と動いてしまった。思えば、七奈が手を繋がなくなったのはあの夜の後だ。もしそれが原因なら責任の一端は私にもある。

「う~そうなのかな~?」

 なんてむず痒そうに唸る七奈がちらちらとこちらを見てくる。それはまるで何かを催促しているようで、でもそれが何なのか分からない。

「七奈」

 だから私は彼女の名を呼びながらそっと手に触れる。触れた瞬間びくっと細長い指が跳ねる。けど逃げない。逃げないのならと、指を絡ませる。

「ら、楽來……」

 彼女の声から、指から、緊張が感じられる。瞳は固く閉じられていて、代わりに口元が軽く空いている。そこから聞こえる彼女の不規則な息遣いを聞いていると、自然と瞼が落ちてくる。

 このまま眠ってしまってもいいような……気がしていて……

「楽來?」

 こちらを伺うかのような声、が聞こえる。

「ごめん、もう眠いかも……」

 薄れる意識の中、何とか答える。

「う、うん。もう寝る?」

 ふと、指先に絡まった蔦がするりと抜け落ちそうな気がして……

「うん。だからずっと傍にいて……私を離さないで……」

 朧げな意識で何かを訴えかける。それはこんな状況になってしまった世界で、私が唯一求めたものだった。

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