愛する姉に無礼な婚約者を成敗します!
「ジュリア、俺の恋人にならないか?」
「は?」
自宅の廊下で私にそんな声をかけてきたのは、オリバー・ローウェル伯爵令息だった。気障な仕草で髪をかき上げながら、私の身体に舐めるような視線を這わせる。
「恋人って……オリバー様はシェーラお姉様の婚約者ではありませんか」
「シェーラは勝手に親が決めた婚約者だ。あんな地味令嬢より、ジュリアみたいな華やかな女性が好みなんだよ」
フォーサイス侯爵家の長女である姉のシェーラは、長いブラウンの髪が特徴的な穏やかな女性だ。しかしオリバーは、そんな姉が気に入らないらしい。
「お姉様が、地味令嬢?」
「だってそうだろ? 地味な容姿で勉強しか取り柄がないなんてな。つまらない女だぜ」
「まあ、なんてことをおっしゃるのです」
控えめにオリバーを止めたつもりだったが、彼はひたすら姉を貶し続けた。婚約者にもかかわらず姉との約束を反故にしたり、友人に姉の悪口を言っているという話を聞かされる。
私は改めてオリバーを見つめる。アッシュグレーの髪の毛は透明感があって、その髪こそが彼の自慢なのだろう。もしかしたら髪にこだわりがある人なのかもしれない。
「オリバー様は、私の髪が好ましいと思われるのですか?」
「そうだな、ジュリアのローズピンクの髪は珍しいし。あー、婚約者の変更って無理かなあ」
婚約者の変更という言葉に私は束の間考え、そしてオリバーに笑いかけた。
「わかりました。それではお父様に私からお伝えしましょう」
「え、いいのか?」
「よろしいですよ。オリバー様はお姉様に不満があるようですし」
オリバーはぱぁっと表情を輝かせた。どうやら心底、姉と婚約していることが嫌だったようだ。
「そうか! じゃあジュリア、侯爵様に伝えてくれ。俺も父親に了承を得るからよろしくな!」
踵を返して意気揚々と立ち去る後ろ姿に、私はこれからのことを想像して口の端を上げた。
◇ ◇ ◇
「シェーラ。お前との婚約を破棄して、俺はジュリアと婚約することにした」
ローウェル伯爵家の東屋。それぞれの父親から許可を取って、オリバーは得意満面に姉に告げた。姉は深緑の瞳を瞬かせながら小首を傾げる。
「お前みたいな地味な女と婚約していたなんて、俺の黒歴史だぜ。これからは華やかなジュリアと婚約するから」
「……オリバー様、それは本気でおっしゃっているの?」
「当たり前だろ? 俺は本気だ」
姉はオリバーに肩を抱かれた私をじっと眺める。やがて小さく息をついた。
「父とジュリアがそれでよいのならば、わたくしは構わないのです。オリバー様、ジュリアを幸せにしてくださいね」
あっさりと婚約の変更を受け容れる姉に、オリバーは拍子抜けしたようだった。もしかしたら姉に縋りつかれると思っていたのかもしれない。
「い、言われなくてもジュリアと幸せになるさ」
「承知しました。それではわたくしは失礼いたします」
優雅に一礼して、姉は東屋を出て行った。その後ろ姿を見送ったオリバーは、横で一緒に立っている私に話しかける。
「これでよかったのか? ジュリア」
「ええ、オリバー様。私はあなた様の婚約者になれて幸せです」
にっこりと満面の笑みを浮かべた私を、オリバーも満足げに見つめるのだった。
◇ ◇ ◇
オリバーの婚約者になった私は、あちこち連れ回されて、まるで彼の新しいアクセサリーのように友人たちに紹介された。
「へえ、新しい婚約者か。可愛い令嬢じゃないか」
「シェーラ嬢の妹さんだって? 瞳の色は同じなんだね」
「ジュリアと申します。これからどうぞよろしくお願いいたします」
にこにこと愛嬌を振りまきながら挨拶をする。そんな私を見たオリバーの友人たちは、少々顔を赤らめてぎこちなく笑った。
「雰囲気はシェーラ嬢とあんまり似ていないんだな」
「色気があるっていうか……いや、失礼。魅力的な女性で驚いたよ」
彼らの視線がオリバーと同じように私の身体のラインを辿る。私の大きめの胸は他の男性たちも気になるようで、どこでもよく視線を感じるから慣れっこだ。
紹介してもらった貴族令息たちの名前はしっかり覚える。あとで個別に接触を図る予定である。
「おい、ジュリア。何をしている?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
私はオリバーに呼ばれて笑顔で傍に戻った。
オリバーの友人たちはそんな様子を横目で見つつ、彼に聞こえないように小さな声で会話を交わしていた。
「……あの令嬢が妹って本当なのか?」
「シェーラ嬢とは違って随分セクシーな女性なんだな」
姉は模範的な淑女という風情なので、趣の異なる私の姿が意外なのだろう。やや幼い顔に不似合いな女性的なカーブを描く身体つきと、ふわふわのローズピンクの髪が男性の情欲を刺激することを私は知っている。
「でもシェーラ嬢から乗り換えるなんてオリバーも大胆だな」
「婚約者の妹を奪うなんて、罪な男だよ」
友人たちが同情するようにそう言ったのが聞こえた。私は心の中で笑う。
私がオリバーを選んだわけではないのに。勝手な想像をする彼らの姿が面白くて滑稽で、私に充足感を与えたのだった。
私はオリバーの友人たちから、よく声をかけられたり、夜会に誘われるようになった。
オリバーのいないところで、彼らに話を聞いて回る。
「まあ、オリバー様がお姉様との約束を反故にしていたということは本当だったのですか」
「あまり大きな声では言えないけどな。きっとシェーラ嬢が自分より聡明なのが気に食わなかったんだろう」
「地味令嬢って散々悪し様に罵っていたよな。自分より高位の令嬢というのがわかっているのかなと不思議だったよ」
以前、オリバーが話していたことが真実なのかそれとなく聞き出す。貴族令息たちの答えによると、オリバーが語っていたよりも姉はひどい扱いをされていたようだった。
──確かに伯爵令息が侯爵令嬢を蔑ろにするなんて、この貴族社会ではあり得ないことね。
ふんわり微笑みながら、私は考えを巡らせる。今まではオリバーに悟られないように行動していたが、もう隠す必要はなさそうだ。
「私、皆様との会話が楽しいです。よろしければまたお呼びくださいませね」
上目遣いに誘いの言葉を投げかけると、令息たちは一様に頬を染めてこくこくと頷いた。
◇ ◇ ◇
「ジュリア! 今日はこれから俺と街に行く約束をしていただろう!」
オリバーの苛立たしげな大声に私は振り返る。もう顔見知りの貴族令息の馬車に乗り込むところだった。
「申し訳ございません、オリバー様。珍しい絵画が披露される美術館に誘われまして」
「ふざけるな! お前は俺の婚約者だろう!?」
「あら? オリバー様は婚約者だったお姉様との約束をたびたび反故にしていたと伺いましたが。私が同じことをしてもよろしいでしょう?」
絶句したオリバーをその場に残し、私は今度こそ馬車に乗り込んで美術館へ出発する。同行する令息が気遣わしげな視線を寄越したが、私は意に介する様子を見せなかった。
「気になさらないでくださいね。私が絵画を見たかっただけですので」
「そ、そうか。それならいいが……」
その日は楽しく美術館で絵画を堪能する。翌日は朝からオリバーが侯爵家に乗り込んできた。
メイドからオリバーの来訪を告げられると、私は客間へ案内するよう指示する。
「まあ、こんな朝早くから。支度をするのでお待ちくださいと伝えてね」
ゆっくり時間をかけて着替えて、メイドに化粧を施してもらう。綺麗に着飾って最後に薔薇のブレスレットをつける頃には、すでにお昼の時刻に近づいていた。
慌てることなく客間へ向かう。メイドが扉を開けると、苛々した怒声が飛んできた。
「一体どれだけ待たせたと思っているんだ! 婚約者に対して無礼だと思わないのか!?」
「お約束がなかったものですから、支度に時間がかかってしまい申し訳ございません」
「俺を馬鹿にしているのか? シェーラは俺を待たせたことなんてなかったぞ!」
怒鳴り散らすオリバーの姿に、思わず私は笑みを零す。そんな私の態度が気に入らないのか、オリバーは更に声を荒らげた。
「何が可笑しい! 約束は破る、馬鹿にしたように笑う、とんでもない婚約者だな!」
「その台詞、そっくりそのままオリバー様にお返ししますわ」
笑顔を引っ込めた私は、冷たくきっぱりとオリバーに告げた。私の豹変ぶりに驚いたのか、オリバーが口を閉ざす。
「今まで婚約者だったお姉様との約束を反故にしてばかりだったのはオリバー様でしょう? お姉様を馬鹿にして悪口を言い回っていたのはオリバー様のほうではなかったのですか?」
「いや、それは」
「違うのでしょうか?」
「違わない、けれども……」
歯切れが悪くなったオリバーに私は畳みかける。
「ご自身はよいのに、婚約者に同じことをされたら怒るのですね」
「そ、それは! 男と女は違うだろう!?」
開き直ったような、反論とも呼べない言い訳に私は軽く笑う。
「男性は女性を蔑ろにしてもよくて、その逆は駄目だとオリバー様はおっしゃるのですね。道理に合いませんわ」
「ど、道理に合わないだと!?」
「オリバー様の今までの行いと理屈ですと、伯爵家の令息が格上の侯爵家令嬢を軽視してもよいということではありませんの?」
もちろん同格や格下の相手を「女性だから」と侮ることも許されませんが、と付け加える。この国では男女の権利は平等だと法に定められたばかりだ。
「お姉様は優しい方ですから、今までオリバー様の言動を大目に見ていたのでしょう。私が婚約者となったからには、しっかり認識を改めていただきますからね」
──まずはお姉様に謝っていただきましょうか。私は薔薇のブレスレットを見つめながら嫣然と微笑んだ。
◇ ◇ ◇
平民の母親が亡くなって、子どもだった私は父親の大きな屋敷に引き取られた。父親が貴族だなんて私は知らなくて、自分が「妾の娘」だということも初めて知った。「本妻さん」を気遣ってか周囲は腫れ物に触るような扱いをする。
母親に会いたくて、自分の家に帰りたくて屋敷の隅でこっそり泣いていたら、ふわりと背後から若い女性に抱きしめられた。
「初めまして、こんにちは。新しい妹が来たと聞いて探していたのよ。……泣いているの?」
抱きしめてくれた身体は温かくて、思わず私はしがみついて更に泣いてしまう。それでも彼女は黙って私を撫でてくれて、新しい家族の一員として迎え入れてくれた。
出自に関係なく優しく接してくれる姉のシェーラを好きにならずにはいられなかった。わかりやすく貴族の作法や勉強を教えてくれる姉に相応しくなれるように必死に覚えた。
姉の誕生日。私は宝物である母親の形見の薔薇飾りを恐る恐る差し出す。貴族らしくないかな、気に入ってくれるかなとドキドキしていたら、姉は飛びきりの笑顔を向けてくれた。
「こんなに素敵なもの、もらっていいのかしら。ありがとう、ジュリア。ずっと大切にするわね」
薔薇の飾りを受け取ってくれて、お揃いで身につけてくれる姉のことが私は世界で一番大好きだ。
◇ ◇ ◇
「本当に申し訳なかった! 許してくれ、シェーラ!」
悲鳴のような声で元婚約者のオリバーに謝られたわたくしは、内心「またですか」と思いながら淑女の笑みを浮かべる。
「まあまあオリバー様。今回はどの件の謝罪ですの?」
「建国祭に行く約束を破った件だ!」
「ああ、八回目に約束を反故にされた件ですわね」
背後でぴくりと眉を上げた妹のジュリアが、地を這うような低い声音で、それでも楽しげにオリバーに問いかける。
「あら、八回目ですって? お姉様との約束を七回目に反故にした件を聞いておりませんわ」
「ひぃっ! な、七回目は……」
オリバーを脅すように笑うジュリアは生き生きとしていて、彼も怯えながら今までの行いを心から反省しているようだった。
「と、図書館で勉強する約束……だったかな。悪かった」
「そうでしたね。七回目は領地経営の勉強をする約束でしたわ」
「あら、領地経営の勉強の約束ですか。でしたら今から私と勉強しましょう」
ジュリアにずるずると引きずられながらオリバーは部屋を退出していく。静かになったローウェル伯爵家の客間で、わたくしは少し冷めてしまった紅茶を口にした。
「ああ、紅茶を淹れ直しましょうか」
目聡く気づいたオリバーの弟のヴェルノ・ローウェルが、自ら新しい紅茶の準備をする。芳醇な香りが際立つ温かい紅茶は、まるでヴェルノの人柄そのもののように感じた。
「あの二人、大丈夫かしら?」
「ジュリア嬢はしっかりしていますから、兄の駄目な部分をすべて直してくださって感謝しているのですよ。あと内緒ですけれど、兄もジュリア嬢にビシビシ扱かれるのが新鮮なようで、満更でもない様子でして」
ヴェルノが話す意外な相性の良さにわたくしは驚いた。婚約者時代、オリバーにしていたわたくしの配慮は逆効果だったのかしら。
そんなわたくしの心の中を察したのか、ヴェルノは補足して説明する。
「シェーラ様の優しさは、ジュリア嬢や私をはじめ、周囲はみな知っているのです。幼い頃から優しかったシェーラ様が大好きだと、ジュリア嬢が言っていましたよ」
「あの子がそんなことを……」
ジュリアがわたくしを好いていることは承知しているつもりだったが、他家の人間に臆面もなく「大好き」と述べるとは。なんだか恥ずかしくなってわたくしは扇で顔を隠す。
「身内贔屓の激しい妹で申し訳ございません」
「いいえ、ジュリア嬢の率直さと行動力は素晴らしいと羨むばかりです。……シェーラ様が兄に家格の違いを持ち出さなかったことは、私のためと自惚れてもよろしいでしょうか?」
「あの、ええと、……はい」
妹の素直さに感化されたのか、ヴェルノに気持ちをぶつけられてわたくしは更に扇に顔を埋める。
オリバーに建国祭を共にする約束を反故にされたとき。いつの間にかヴェルノが傍にいてくれて、一緒に打ち上がる花火を観に行った。
それまで散々ブラウンの髪をオリバーに貶されて少し落ち込んでいる時期だった。ヴェルノは七色に輝く花火より、わたくしの艶やかな髪が美しいと褒めてくれた。
夜空に舞う花火に照らされたヴェルノの横顔のほうが美しいと。オリバーという婚約者がいたわたくしは言うことができなかった。
聡いヴェルノは、その頃からわたくしの気持ちを察していたのかもしれない。誰もいない客間でそっと身を寄せてくる。
「手首の薔薇の飾り、ジュリア嬢とお揃いなのですね」
「ええ、あの子に揃いの品を贈られて大切にしているのです」
優しく手を取られて、ヴェルノは薔薇に口づける。甘く澄んだ瞳を向けられて、わたくしの心臓は高鳴る一方だ。
「シェーラ様。どうか私の気持ちを受け容れてくださいませんか?」
ヴェルノの告白はジュリアに背中を押されたからだろうか。それともオリバーとジュリアが結ばれたから? そんな疑問が頭を掠めるけれど、わたくしはただ目の前の美しい男性からの求愛を受け止めた。
「……はい、喜んで」
建国祭以降、わたくしとヴェルノは頻繁に会うようになった。彼のエスコートはいつも洗練されていて、まるで物語の中の王子様のようだった。
自分を蔑ろにしてばかりのオリバーより、ヴェルノに惹かれていくのは当たり前だったのだろう。だからこそ父親にオリバーの仕打ちを明らかにして、伯爵家が咎められる事態を避けたかった。もし伯爵家よりも高位の貴族を侮ったオリバーの態度が公になれば、当然ヴェルノにも影響を及ぼしてしまう。
「わたくしが優しいと申しますけれども。ヴェルノ様とジュリアこそ、わたくしにとても優しくて感謝しているのですわ」
大きな窓から太陽の光が差し込み、花火のときのようにヴェルノの顔を照らす。今度こそ勇気を出して彼を「美しい」と称えたら、ヴェルノは嬉しそうにわたくしの髪を一房すくい上げた。
「この美しい髪を、シェーラ様を私は一生愛し続けます」
ブラウンの髪が陽光を弾いて煌めく。見つめ合ったわたくしたちは、そっと初めてのキスを交わした。
おしつじさんに姉妹のイラストを作っていただきました。可愛くて素敵なイラストをありがとうございます!