自分の感情とその価値とは
「本当に、申し訳なかった。」
エトハルトは、椅子から立ち上がると腰を折り深く頭を下げた。
いつもの単調な声音ではなく、心からの謝罪の気持ちが感じられた。
「や、やめてくださいまし!」
ソフィリアは慌てて自分も立ち上がるとエトハルトに頭を上げるように促した。
これ以上惨めな気持ちになりたく無かった。
別れを告げたのなら、こちらのことなど気にせずさっさと立ち去って欲しかった。そうすれば被害者でいられるから、可哀想な人にならなくて済むから。
「僕があの時、きちんと自分と君と向き合っていたらこんな風にはならなかったから。君を、二度も傷付けなくて済んだのに。」
「それは…わたくしを侮辱するなさるおつもりですの!?」
ここで初めて語気を強めたソフィリア。
眉を吊り上げ、拳を握りしめ、頬を紅潮させてエトハルトのことを見返す。
「これは親が決めた話で、そこに私たちの気持ちはなくて、ただそれだけのことなのに…そうやって謝られたら、私は私の気持ちを認めないといけないじゃない!自分の感情なんて、自分の意思なんて、私にとって何一つ価値なんかなくて邪魔なだけなのに。そんなこと言われたら…過去をやり直したくなる…本当は欲しかったんだって、気付いてしまうわ…」
最後は顔を両手で覆い、声と肩を振るわせていた。
エトハルトは、彼女の視線と合わないまま、優しい眼差しを向けた。
「自分の抱く感情に価値のないことなんてない。確かに僕たちは他の人よりも生きにくい世界にいる。でもだからこそ、君は、もっと我儘になってもいいと思うんだ。これまで十分に周囲の期待に応えてきたのだから。」
「…そんなこと出来ませんわ。そんなことをしてしまえば私の価値がなくなってしまうもの。皆、私が公爵令嬢だから側にいてくれる、助けてくれる、良くしてくれる。それくらい理解してるわ。そこまで自惚れてないもの。」
「そうじゃない人もいる。その見極めは僕たちが持つ永遠の課題だ。君の周りに100人いたとして、その中に1人だけ君自身を見てくれる人がいたとしよう。その時、君は誰もいないって思う?それとも、そのたった一人のことを良き理解者だと受け入れることが出来る?」
ソフィリアは即答出来なかった。
賢い彼女は彼の言わんとしていることを正確に捉えていた。だからこそ、自分の頭に浮かんだ回答では駄目だと思ったのだ。
自分だったら、そのたった一人のことはきっと信じない。他の大勢の人と同じだと思い込んで、見ないふりをして、自分のことを真に理解してくれる人なんて誰もいないって蹲る、心を閉ざす。
だって、そのたった一人が違ったら?本当は私の地位を狙っていたら?
そんな人ばかりだから、最初から期待しなければ後で辛い思いをすることはない。だって、相手を信じて期待を寄せて信頼して、その上で裏切られたら心が折れてしまうから…そんなことになれば私はもう二度と…
「僕も同じ考えだった。」
「え?」
「僕も、セラフィと出会う前は誰も信じてなくて、皆僕自身には興味なんてないと思っていた。だから周りに目を向けようとすらしてこなかった。だって、そんなこと意味ないと思っていたし。他人のせいで自分の感情を揺らされるなんて嫌でしょ?結局、自分の感情や気持ちなんて関係なく僕の未来は勝手に決まっていくのだから。」
「だったらどうして…」
「彼女のことを知って、欲しくなってしまったんだ。もうどうしようもないくらいに。自分の中に、抑えきれない感情があるなんて知らなかった。そこで初めて、自分で手を伸ばさなければ手に入れられないことを知ったんだ。そして、黙っていても寄ってくる人たちは、僕には必要ないのだと気付いたんだよ。だから、僕は僕の欲しいもののために、自分の意思を持つことを選んだ。そして、その他大勢のことを気にすることはもう止めたんだ。」
エトハルトは清々しい顔で笑って見せた。
その顔はいつもより幼く、少年のような無垢さがあった。
自分と全く同じだったはずなのに…
なのに、彼の話は遥か彼方の世界のように聞こえた。
同じなのに、同じだったはずなのに、どうして私は彼とこんなにも違ってしまったんだろう…彼には彼自身を強くするほど欲するものがある。そんなこと、私自身にも起こり得るのかな…私も彼みたいに望むものが出てくるのかな…なれたらいいのに…そんな夢みたいなこと…
「…羨ましい。」
気付いたら口から言葉が出ていた。焦ったソフィリアは慌てて自分の口を塞いだ。
公爵令嬢、いや貴族令嬢としても人のことを羨ましがるなんて絶対にしてはならないことだ。そんなこと口にすれば、はしたないと陰口を叩かれあっという間に品位と立場を失ってしまう。
「あ、いえ、これはその…お忘れになって!」
「ふふふ、羨ましいでしょ?」
慌てふためくソフィリアに向かって、エトハルトは自信満々の顔で満遍の笑みを向けた。
「なんですって?」
こんな失言、普通は聞かなかったふりをする。何事もそつなくこなすエトハルトなら、流してくれると思ったのに、彼はしっかりと拾い上げ、更にはそれをひけらかしてきた。
ソフィリアは彼の言動が全く理解出来なかった。思わず、半眼で見上げてしまった。
「セラフィに出会えたことは奇跡のようなことだから、羨ましいなんて言ってもらえるのすごく嬉しい。」
ふふふとエトハルトは本当に嬉しそうに笑みをこぼした。そこにはもう、ソフィリアが知る彼の姿はなかった。
「それと、今の姿の方がいいと思う。僕が言うのは気に障るかもしれないけれど、とても良い顔をしていたから。思ったことはもっと口にしていいと思う。それで去る者が出たとしても、その人たちは元からいなかった人達だから気にすることなんてない。」
「そんなこと…」
「そんなことある。今ここにいる僕が何よりの証明だよ。それがいつかは残念ながら分からない。でも、君にはすでに良き理解者が一人いるようだから。いつか来るその時までは彼を頼りにしたらいい。」
エトハルトは振り返ると、ガゼボの屋根を支える石柱の一つに視線を向いた。すると、その石柱の影から気まずような顔をしたランティスが姿を現した。
「お兄様っ!!」
驚いたソフィリアは、悲鳴に近い声を上げた。
「…悪い。その少しばかり気になってしまって…お前、いつから気付いていたんだ?」
「ふふ、いつからでしょう?」
エトハルトの余裕の返しに、ランティスは初めから気付かれていたのかとがっくりとうなだれた。バレていないと思っていたらしい。
「エトハルト、世話かけたな。」
「いや、迷惑をかけたのはこちらだから。」
ランティスはエトハルトに向かって軽く頭を下げると、今度はソフィリアに向き直った。
「ソフィリア」
「はい、お兄様…」
名前を呼ばれたソフィリアは、気まずそうに視線を足下に落とした。
醜態を晒した姿を兄に見られていたと知り、恥ずかしさで目を合わせられなかった。
その時、俯く彼女の頭の上に温かい感触がやってきた。
「え…」
驚いて見上げると、ランティスが慣れない手つきでソフィリアの頭を撫でていた。
「気付いてやらなくて悪かった…これからはもっと頼れる兄になるから。」
いつも自信満々で、打倒エトハルトに燃えているランティスにしては珍しく、気弱い声を出した。
「ふふふっ」
「…なんでそこで笑うんだ。」
ソフィリアは、笑った顔のまま目元の涙を手で拭った。
「わたくしは、自分が思っている以上に幸せなのかもしれませんわ。ありがとうございます。」
「当たり前だろう。お前が幸せじゃないと私が困る。」
なんだかんだ言いながらも、仲良さそうに話す二人を見て、エトハルトは嬉しそうに目を細めて暖かい眼差しを向けていた。




