選ばれなかった者
馬車に乗り込んだエトハルトは、腕を組んで背もたれに身体を預けると、少しの間目を閉じた。
まだ不安定なこの状況下、セラフィの身を案じた彼は昨晩一睡もせずに側についていたのだ。
彼女から離れたくなかった。
でも、セラフィはようやく自分を選んでくれた。自分の気持ちに応えてくれた。だからこそ、彼女のことを信じないといけない。
言葉巧みに彼女の心に付け入ろうとしても、彼女自身がそれを振り払って自分を選んでくれるだろうと、これまでのように自分を犠牲にするような思考にはならないだろうと、だから大丈夫だって。
だけどやはり、胸のざわつきは収まらない。
まだやるべきことが残っている。
僅かな移動時間で仮眠を取ったエトハルトは、邸に戻ると身支度を整え、またすぐ馬車へと乗り込んだ。自らの言葉で自分の気持ちを伝えにいくためだ。
「エトハルト様、お待ちしておりましわっ!」
馬車から降りたエトハルトのことを、笑顔のソフィリアが出迎えてくれた。
ソフィリアは、夏の向日葵を彷彿とさせるような、華やかな黄色のドレスを身にまとっていた。彼女の美しい金髪と相まって、夏の強い日差しに負けないほどの輝きを放っている。
「急なことにも関わらず、都合をつけて下さりありがとうございます。」
エトハルトは胸に手を当てると、綺麗な姿勢で頭を下げた。
「エトハルト様が来てくださるなんて滅多にないことですもの。今日は珍しいお菓子を用意しましたのよ。さぁ、参りましょう。」
ソフィリアは無邪気に両手でエトハルトの腕を取ると、先導するように歩き出した。
どんな時でも形式的なエスコートをしてくれていたエトハルト。でも今日の彼は手を差し伸べてくれる気配がなかった。どうしようもないほど遠い距離を感じた。
その距離を埋めようと、ソフィリアは努めて明るく天真爛漫に振る舞うことを意識した。
庭園内にあるガゼボに着くと、そこには既にお茶とお菓子の用意がなされていた。そのすぐ側に使用人が控えている。
エトハルトはここでもエスコートをしなかった。
どんな関係性の相手でも、このような場面では女性に恥をかかせないよう、男性が椅子を引いてエスコートすることが暗黙の了解となっている。自分や相手が既婚者だったとしても、エスコートをしたことを責められることはない。それほどまでに当然で、マナーのようなものであった。
いつまでも立ったままでいるわけにもいかず、気を利かせた使用人がソフィリアの椅子を引いて座らせた。
二人が着席すると、使用人がティーポットから紅茶を注ぎ、下がっていった。周囲には誰もいない、二人きりの空間だ。
「今日の紅茶は、公爵領で取れたりんごの葉を加えておりますのよ。良い香りがしますでしょ。」
「ええ、とても。」
「こちらのお菓子は隣国から取り寄せたものですわ。きっとこれから王都でも流行ると思いますの。」
「ええ、そうですね。」
「こちらの磁器は外国産で…」
エトハルトの一辺倒の反応にもめげずに、ソフィリアは懸命に話題を振り続けた。
公爵令嬢として高い教養を身に付けている彼女が話題に困ることはなかった。だが、エトハルトがどんな話を好むのかは分からなかった。
「ソフィリア嬢、今日はお話があって参りました。」
エトハルトは、彼女の話を遮り、意志のある瞳で彼女のことを見据えた。
自分だけに真っ直ぐに向けられているシルバーの瞳。これまでずっと望んでいたことなのに、自分だけを見て欲しいと希っていたはずなのに、目の前のそれは望んでいたものとは全くの別物であった。
自分に対する気持ちが何一つ込められていなかった。
「まぁ、そんなに真剣な顔をなさってどうされましたの?」
ソフィリアは、精一杯の虚勢を見せた。
こんなことで狼狽える自分は嫌だった。どんな時も公爵令嬢としての矜持を持っていたかった。
努めて冷静に、気品を持って振る舞う。
「僕は、貴女とは結婚しません。」
その瞬間、ソフィリアの世界から音が消えた。
風で揺らぐ葉の音も、近くにある噴水の音も、時折聞こえていた馬車の駆ける音も、何もかもが聞こえなくなった。
はっきりと言われたエトハルトの言葉だけが頭の中で何度もこだましている。
彼が自分との結婚を望んでいないことなんて分かりきっていた。
でも、家同士のことだからこんな風に正面から断られるとは思ってもみなかった。愛のない結婚でも、あの優しい彼ならきっと、いつか自分のことを見てくれるんじゃないかって勝手に期待していた。
親から言われた破談なら、人のせいにして自分は悪くないって被害者ぶることが出来るのに…
『結婚しません』
その言葉には彼の意思しか感じられない。
いつだって穏やかで優しい瞳をしていたと思っていたのに、それは私に興味が無かったからだった。こんなにも強い意志を露わにする彼の顔を私は知らない。
彼の本心に触れたことは一度も無かったのね…
「そんなこと…書面で下されば良かったのに。これは親が勝手に決めた婚約でしょう?余計なお気遣いは不要ですわ。」
ソフィリアはわざと鼻につく声を出した。
彼から結婚を断られたことに狼狽える自分なんて見せたく無かった。
親から言われて仕方なく婚約させられた相手、たったそれだけのこと、そう思った方が心の傷が少なくて済む。
「それでも、僕の口から伝えたかったから。これは僕の自己満足だ。」
「え…」
急に話し方の変わったエトハルトに、ソフィリアは驚いて目を見開いた。
これまで何度も言葉を交わしてきたはずなのに、初めて見る彼の姿だった。そして、これが本来の彼なんだと気付いた。
こんなタイミングでなければ、すごくすごく嬉しかったのに、どうしてこんな最後の最後で…
もっと早くに彼と本音で向き合えていたなら、何か変わったかな…私だってあの人みたいに、彼の想いを独り占め出来たかもしれない。親のせいとか家柄のせいとかそんなことを気にせずに、もっと素直に彼のことを求めていたらもしかして…
今更こんなことを思っても仕方ないのに。
ソフィリアは、エトハルトに見えないようにテーブルの下でスカートを握りしめた。




