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無意識に溺愛してくる婚約者と愛を知りたくない少女  作者: いか人参


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月夜の君


エトハルトに別れを告げた日の夜、セラフィは今まで抱いたことのない複雑な感情に、脳の処理が追いつかず、心が壊れそうになっていた。



彼のために自分自身から解放して自分も自ら望んだ道に進む、何もかもが上手くいっている。これ以上の選択なんて無かった。


頭ではこれが最善であり唯一の選択であると分かっているはずなのに、なぜか気持ちの整理が追いつかない。

これで良いんだ、これが良いんだと思えば思うほど、自分の内側から泣きじゃくる声が聞こえてくる。

 


『セラフィの心が泣いている。』


ふと、エトハルトの声がした。



ああこのことか。


あの時は知らなかった。大丈夫って言えば大丈夫で、心で泣くことがあるなんて思ってもみなかった。それくらい、自分の気持ちに鈍感だった。


辛いことや嫌なことは全部気付かないふりをして、閉じこもって時が過ぎ去るのを待っていた。自分の気持ちを省みることなんてしたことが無かった。


それしか術を知らなかったから。



エティと出会って、私は人に助けてもらうことを知った。頼っても良いということも教えてもらった。

彼は、自分以上に私の気持ちに気付いてくれて、いつだって先回りして手を差し伸べてくれた。それが物凄く嬉しくて心から安心出来ていた。



本当に、幸せな時間だったなぁ…



でももうそれは過去の話で、また彼のいない毎日に戻る。またあの色のない世界に戻るだけ。たったそれだけのこと。


だから別に、これは泣くようなことじゃない。

悲しむようなことじゃない。

あるべき自分に戻るだけなんだから。




ベッドの奥、枕側の壁を背にして座っていたセラフィは、ふと窓の外を見上げた。


いつの間にかふけていた夜に、カーテンは開いたままだ。レースのカーテンだけが下りている。レース越しに月明かりが部屋に入ってくる。今日は満月だった。


決して眩しくはない月明かりであるはずなのに、セラフィは目元を手で覆い、目を瞑った。


その手の下、涙が頬を伝う。

 



「どうして手を伸ばしてしまったんだろう…」


手を伸ばさなければ、届かない恐怖を知ることはなかった。欲しいと思わなければ、失うことも無かった。求めなければ、手に入らないと知ることも無かった。



憧れは憧れのままに、心の内に留めておけばよかった。



いつか辛い思いをするのは自分だって覚悟していたはずなのに、こんなにも胸が痛くなるとは思わなかった。こんなに涙が溢れてくるなんて知らなかった。痛みを感じないことに慣れたつもりだった。



この手を伸ばさなければ良かったのに…



セラフィは、目元から避けた手を窓に向かって伸ばした。ただ空を掴むだけだと知りながら、それを確かめるように手を伸ばす。






パリーーーーーーンッ!!!



「………っ!!?」


その時、ガラスの割れる高い音と割れた破片が絨毯の敷かれた床の上にぱらぱらと落ちる音が静かな部屋の中に響いた。


割れた窓の隙間から夜風が入り込み、レースのカーテンが風で旗めく。風が収まり、大人しくなったレースのカーテンの前、銀髪の彼が佇んでいた。


月の光を背にしたエトハルトは、逆光でも分かるほど優しい眼差しをしていた。



エトハルトは、セラフィにのいる方向に向かって静かに絨毯の上を歩くと、ベッドの上に片膝を付いた。

そして、窓に向かって伸ばしたまま固まっていたセラフィの手をそっと両手で握りしめた。



「どう、して…」


手を握られたセラフィは、溢れそうなほど大きく目を見開いた。驚き過ぎてうまく呼吸が出来ない。このまま心臓が止まってしまいそうであった。


この状況の何もかもが理解出来ない。


混乱する頭でなんとか一言口にすると、エトハルトの目を見返した。彼はなぜか、少し恥ずかしそうに笑っていた。





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