離別
学園内は今、エトハルトとセラフィの婚約解消の話題で持ちきりだった。
エトハルトがセラフィではなくソフィリアと結婚するのではないかという噂は度々流れていたが、セラフィに留学の話が出たことで、その噂に一気に現実味が増したのだ。
エトハルトとセラフィの本来の関係性を知っているクラスメイト達がその噂を信じることは無かったが、他のクラスや一年生のクラスの間ではまるで真実かのように語られていた。
こういうの、なんだか久しぶり…
ひとりで廊下を歩いているセラフィに、いくつもの視線が飛んでくる。皆、彼女のことを可哀想な目で見ていた。
もう慣れたつもりだったけど、これはちょっとしんどい…急ごう。
先生の頼まれごとで資料室に向かっていたセラフィは、手にしていた書類を抱え直して歩くスピードを速めた。
「セラフィ」
後ろから聞き慣れた優しい声がした。
ずっと避けていた懐かしい声にギョッとしたセラフィは、足を止めてその場に固まった。
手には書類があって、すぐ目の前には資料室、そして周囲にいる生徒達。ここから走り去るには不自然な条件が揃っていた。
反応せざるを得ない状況に、セラフィは覚悟を決めてゆっくりと後ろを振り返った。
「それ、持つよ。」
「えっ…」
エトハルトは、セラフィの返事を待たずに彼女の手から書類を取り上げた。
そのまま何も言うことなく、目の前の資料室の中に入っていく。
手持ち無沙汰になったセラフィは、慌てて彼の後を追った。
「よし、これでいいね。」
全ての書類を棚に仕舞うと、エトハルトはパンパンと軽く手を叩いた。
「…ありがとう。」
セラフィは気まずくて顔を上げられなかった。
彼と顔を合わせることが嫌で逃げようとしていたのに、こんな自分にも彼は優しさを向けてくれた。
いつだって、どんな時だって優しい彼との違いを思い知らされる。
彼と比べて自分は…
セラフィは無意識にため息を吐いた。
そんな彼女に、エトハルトは当然のように手を差し出してきた。
「少し、話がしたい。」
それは初めて聞く、彼の不安げで弱々しい声だった。
セラフィが驚いて顔を上げると、不安そうに揺れるシルバーの瞳と目が合った。
「うん。」
セラフィは控えめに彼の手を取った。
いつもなら温かくて安心する自分よりも大きな手なのに、今日は冷たくてほんの少しだけ震えていた。
二人しかいない薄暗くて少し狭い資料室。
エトハルトは、近くにあった丸椅子にセラフィのことを座らせると、手を繋いだまま自分は彼女のことを見下ろすように机の上に軽く腰掛けた。
聞きたいことも言いたいことも、言わなきゃいけないことも伝えないといけないこともたくさんある。
頭の中では多くの言葉が溢れてくるのに、何一つ言葉となってはくれなかった。
セラフィもエトハルトも、目の前にいる相手のことを思うが故に、言葉を選びすぎて何も話せずにいた。
何も話せないまま、時だけが過ぎていく。
どれだけの時間が経っただろうか。
下校時間を知らせる音楽が鳴った。生徒達は全員帰らなければならない時間だ。ここでようやくエトハルトが重い口を開いた。
「セラフィ、行かないで。」
縋るように、今にも泣きそうな声で言ったエトハルト。
本当はもっと他に伝えたい言葉があった。好きだとか愛してるとかそばに居てとか。
だが、そんな愛の言葉よりも自分の欲が第一声として言葉に出てしまった。
こんな自分は情けなくて嫌われてしまいそうで、セラフィには見せたく無かった。でも、求めずにはいられなかった。今を逃したら永遠に彼女を失ってしまうような気がしたから。
この手を離したくない。
絶対に離すものか…
セラフィの手を強く握りしめる。
「私は、」
もう良いかなと思った。
彼の気持ちに応えたいと思ってしまった。
彼が望むのなら、こんな私を望んでくれるのなら、少しくらい迷惑をかけたって良いんじゃないかなんてそんな都合のいい考えすら頭をよぎった。
だが、頭の中で声がした。
『アイツから金を取って来い。』
内側から聞こえてきた幻聴に、セラフィはエトハルトの手を振り払って両手で口を押さえた。
「セラフィ?」
突然怯えたような表情をしたセラフィに、エトハルトは机から飛び降りると、彼女の目の前に膝を付いて振り払われた手を取った。
不安そうにする彼女の瞳と目を合わせようとするが、焦点が定まらない。
もどかしく感じたエトハルトは、セラフィのことを抱きしめようと腕を伸ばしたが、彼女の手によって振り払われてしまった。
「ごめん。エティとはもう一緒にいられない。」
自分と一緒にいたらエティまであの父親に良いように使われてしまう。
優しくて優秀な彼はきっと、アイツの要求に応えてしまうと思う。彼の努力と才能をそんなことに使わせたくない。
だから私は決めたんだ。
「セラフィ…?それは君の本心?どうしてそんなこと…」
エトハルトらしくない、性急な物言いだった。
真正面から尋ねても彼女が本心を話すことはないなんて分かりきっていたのに、頭が回っていなかった。振り払われた手に触れようと手を伸ばす。
セラフィは、自分に伸ばされた手を避けた。もうその手を取ろうととはしなかった。
「ソフィリアさんの方が家柄も素質もエティに釣り合っていると思うから。今までありがとう。大切な友人って言ってもらえて嬉しかった。エティといられてすごく楽しかった。だから、どうか幸せに。」
セラフィは泣き笑いの表情で懸命に微笑んだ。カッコよく別れを告げるつもりだったのに情けない顔になってしまった。
「そんなこと、関係ない。僕はセラフィがいい。セラフィしかいらない。セラフィじゃないとダメなんだ。僕は君のことを…」
「ありがとう、すっごく嬉しい。でももう大丈夫。私は私の道を生きるから。エティも自分の人生を生きて。」
「セラフィ…」
嘘を吐いて、自分のことを嫌いになったふりをして無理に別れようとするなら力づくで止めた。だけど、こんなにもはっきりといらないと言われたらもう何も言葉を返せなかった。
彼女の選んだ世界に、
自分の居場所は無かった…
一人で羽ばたいていこうとする彼女を止めることなど出来ない。
彼女の足枷にはなりたくなかった。いらないと言われたのにそこに縋り付くほど愚かにはなりたくなかった。
彼女が幸せだと思う道を歩んで欲しかった。
セラフィには誰よりも幸せになってほしいから。
「いつだって君の幸せを願ってる。」
エトハルトはそれしか言えなかった。
セラフィに向かって伸ばして行き場を失った手は、制服のポケットの中にしまい込んだ。




