チャンス
本格的な夏がやってきた。
昨年よりも気温が高い日が続く中、二年生のクラス前の廊下には朝から人だかりが出来ていた。真剣な表情の者、なんとなく視線を向けている者、ホッとした顔の者、皆反応は様々であった。
人だかりの中心にいたランティスとマシューの二人は、ものすごく嫌そうな顔をして貼り出された紙を見ていた。
「なんであいつは、こんな時でも余裕で一位なんだよ…さすがにちょっとムカつくんだけど。」
「ああ、本当に。」
彼らの視線の先にあったのは、前期の試験結果だ。
エトハルトが堂々の一位、入学してからその地位は変わらない。そして、セラフィも変わらず二位の位置を維持していた。
二年に進級して早々、不穏な空気に包まれていたエトハルトとセラフィの二人。ひょっとしたら勉強に身が入らないんじゃ…などとランティス達は邪な気持ちを持って臨んだ試験だったが、結果は完敗であった。
「まあまあ、君たち。彼の優秀さは規格外なんだから、そう気を落とすなよ。」
後ろからランティス達の肩を叩いてきたのはビリーであった。
そのニヤついた表情に、マシューはあからさまにイラついた声を出した。
「お前、前回手抜いたくせに…」
「さて、何のことだか。」
マシューの忌々しげな言葉に、ビリーは両手を広げて全く分からないという白々しい顔をして見せた。
前回赤点を取ったビリーは、今回は五位であった。マシューとランティスより下とは言え、圏外だった彼にとっては大躍進である。
これでキャシーに褒めてもらえると浮き足立つ心を止められないでいた。
そんな浮つくビリーに対して、ランティスとマシューの二人はツッコミの鉄拳を入れようとしたが、本鈴が鳴ってしまった。慌てて自分達の教室に戻った。
「皆さん、試験お疲れ様。エトハルト君にセラフィさん、首位と二位の維持なんて素晴らしいわ。おめでとう。この学園始まって以来の快挙よ。」
ホームルームを始める前に、カナリアはセラフィ達の試験結果を称えてきた。クラスメイト達からも温かい拍手が送られる。
慣れない賞賛に、セラフィは小さく身体を縮こまらせた。カナリアは、そんな彼女に視線を移すと、微笑んだ。
「セラフィさん、突然なのだけど、隣国から貴女に留学の話が来ているの。隣国では女性の社会的活躍に力を入れていてね、優秀な貴女にぜひ来てもらいたいと言っていたわ。この地で女性が学び続けることは難しいから…もし興味があれば一度話を聞いてみない?」
カナリアからすれば、これは願ってもないチャンスであり、断ることなど考えられないほど好条件の案件であった。
あと10歳若ければ自分が行きたかった…いえ、引率者としてでも良いから、私も学びの機会を得たいわ。
そんなことを思いながら、期待の目でセラフィのことを見る。
彼女は目を見開いて言葉も出せずに驚いていた。自分にそんな話が降ってくるなど予想していなかったからだ。
やっぱり彼女のことだから迷うわよね、また後で話をすることにしましょうか…と考えていたカナリアだったが、何かが引っ掛かった。見過ごしてはいけないものを見過ごしているような、いつもあるものが欠けてるような物足りない、そんな気持ち。
しばらく考えてようやく気付いた。
「エトハルト君?」
カナリアは心配そうな目を向けた。
いつもなら一番に断るか自分も行くと言い出しそうな彼。だが今日はひとことも口を挟んで来ない。
不安になってつい自分からエトハルトに声を掛けてしまった。
「先生、何でしょうか。」
「…いえ、何でもないわ。」
何も言わない穏やかな表情のエトハルトに、カナリアも何も言えなかった。
あんなに仲良さそうにしていた二人なのに、一体何があったんだろうか、お節介にもそんなことを考えてしまう。
だが、一介の教師である自分に生徒達のプライベートに口を出す権利はない。カナリアは自分から関わろうとすることはしなかった。
「セラフィさん、突然ごめんなさいね。またちゃんと話をするから、今度職員室にいらっしゃい。」
「ありがとうございます。」
この時、セラフィは驚き過ぎて感情を表に出せなかったが、内心ドキドキしていた。
もしかしたら、上手く行ったら、隣国で働いて自分で生きていけるかも…親の言いなりにならず、誰かを傷つける事なく、自分の意思を持ってこの人生を歩んでいけるかもしれない。
それが実現できたらどれだけ幸せだろう。
あの父親がどう思うか分からないけど…でも沢山お金を稼いで実家に送金出来れば交渉の余地はあるかもしれない。
とにかく、後で先生に詳しい話を聞いてみよう。
セラフィは、自ら切り開く人生を望んだ。
決意と希望に満ちた彼女の横顔を、エトハルトは悲しげな瞳で見つめた。
どんどん成長して強くなっていく彼女。
それは喜ぶべき変化であるはずなのに、エトハルトは寂しくて堪らなかった。彼女に置いていかれる、そんな気持ちでいっぱいになる。
エトハルトは隣に座るセラフィとは反対側の窓の外を見た。
よく晴れた夏空が広がっていた。真っ青な空に夏らしい入道雲が浮かんでいる。
こんな景色だったんだ…
これまで彼女の横顔しか見てこなかったエトハルト。初めて見た教室から見える空は思っていた以上に広々としていた。
「セラフィ、留学に行くの?」
昼休みの食堂、今日は二人でランチを取っていたアザリアとセラフィ。
留学の話が気になって仕方なかったアザリアは、ステーキを切るよりも先に口を開いた。
「…まだ分からない。でも、魅力的だなとは思うよ。留学してそのまま隣国で働けたら私も自由に生きられるかもしれないから。」
「ここでも自由に生きたら良いじゃない。」
「無理だよ。あの父親だもん。私のことを自由にさせるわけがない。だから今回の留学の話も反対されるだろうな…何か考えないと…」
セラフィは鬱々とした表情で野菜スープに口を付けた。
彼女が留学への期待に胸を膨らませ、父親への言い訳を考えている頃、学園内にはセラフィとエトハルトが婚約解消をするという噂が広がっていた。




