ソフィリアの欲しいもの
「入っていいか?」
「ええ、どうぞ。」
ランティスは、ノックとほぼ同時に入室の許可を得ると、ドアからゆっくりと顔を出した。
学園から帰宅した足で彼女の部屋を訪れた彼は制服姿のままだ。
部屋の中には、真っ白な猫足のソファーに腰掛け、本を片手に寛いでいるソフィリアの姿があった。
彼女は少し前に帰っていたらしく、真っ白なフリルがふんだんに使われた可愛らしいワンピースを着ている。
「お兄様がいらっしゃるなんて珍しいですわね。」
ソフィリアは優雅に微笑むと、軽く小指を立ててティーカップを掴み、口元に運んだ。
「私がここに来た理由に見当がついてるだろ?」
「さぁ。なんのことでしょう。」
小首を傾げてまつ毛の長い大きな瞳を瞬かせるソフィリア。
心臓を握り潰されそうなほどの愛らしさであったが、実兄相手には何の効力も無かった。
「…エトハルトのことだ。彼にはセラフィさんという列記とした婚約者がいるんだ。彼女のためにも、これ以上あいつに構うな。」
「そんなっ…お兄様ったらひどいですわ…わたしくしはただ、エトハルト様のことを想っているだけですのに…私の気持ちを否定なさるなんてあんまりですわっ。」
ソフィリアは瞳をうるうるとさせ、悲しそうな表情で必死に訴えてきた。だが、そんな彼女の姿を見てもランティスは冷静であった。
「で、何が目的だ?」
「わたくし、恋がしたいんですの。」
ランティスの冷静な物言いに、ソフィリアはぶりっ子をやめて即答した。兄のことを絆そうとするのは諦めたらしい。
「それは構わないが、相手は選べ。」
妹の自由奔放な発言に、ランティスは深いため息を吐いた。
昔から可愛がってきた仲の良い妹だが、周囲に愛されて大事に育ってきた分、少し我儘なところがある。ここでそれを発揮するのか…とランティスは頭痛がした。
「わたくしに相手を選べまして?」
ソフィリアはこめかみに手を当てるランティスを尻目に、鼻で笑って返した。
「それは…」
ランティスは答えられなかった。
公爵令嬢という高貴な身分の彼女は、誰とでも結婚できるわけではない。それなりの相手と結婚しなければならない。公爵令息よりもその縛りはキツい。
「わたくしが結婚できる相手は、この国だったら我が家に次ぐサンクタント家のエトハルト様だけでしょう?何より、お父様がそれを望んでますもの。」
「その可能性はゼロではないが、それでも今の婚約者はセラフィさんだ。お前の勝手な未来予想図で彼女を巻き込むのは良くない。」
「わたくしは決められた道をゆきます。それが公爵家に生まれた者の務めですから。だから、学園にいる間くらい恋をしても良いと思いませんこと?これから結婚する相手に恋をして何が問題ですの?」
ソフィリアの心に迷いはなかった。
初めて邸に来た時、なんて美しいシルバーの瞳なのだろうと目を奪われた。その次に、これまで会った誰よりも優しい表情を見せる彼に心を奪われた。
自分に微笑みかけてくれる穏やかな顔を見て、この人の元に嫁ぐことが楽しみだと思った。この方がお相手なら喜んで受け入れられると思っていた。たとえ、その瞳に自分が映っていなくて、彼の心に寄り添えなかったとしても。
形だけの夫婦であっても、あの方となら乗り越えられるとそう思っていた。
自分の婚約者として紹介された彼。
なのに、いつの間にか私たちの関係は無かったことにされていた。
両家の間で話がまとまらなかったらしい。
せっかく、この人だと心を決めたのに、家の都合で白紙に戻されてしまった。
本当は普通に恋をして好き同士になって結婚に至りたかった。恋愛小説に出てくる主人公のような恋がしてみたかった。それが実らなくても、恋焦がれる自分を想像して憧れた。
私にそんなこと出来るはずないのに…
だから、父に連れられて行った学園でエトハルト様に偶然お会いして運命だと思った。やはり私はこの方と添い遂げるために生まれてきたのだと。
そう思ったら居ても立っても居られず、気づいたら父に彼との結婚を強請っていた。事業のタイミングも良く、思いの外上手く事が進んだ。
両家の間で今まさに話が進んでいる最中のようだ。
だから、私とエトハルト様の結婚は決定事項のようなもの。
今の婚約者の方には悪いと思うけれど、私は決めれた道をゆくのだから、このくらい大目に見てもらいたい。
自由に相手を選べる人は、同じように自由な人の中から相手を選んだらいい。
私やエトハルト様のように相手を選べない者は互いに理解し合って支えていくから。
「…それが私たちの務めかもしれないが、相手にこちらの事情は関係ない。それを押し付けるのは良くない。本気でエトハルトのことを慕ってるなら、ちゃんと正面から向き合って自分の想いを告げるんだ。それがセラフィさんに対する敬意でもある。」
独りよがりなっている妹に対して、ランティスは言い聞かせるようにゆっくりとした口調で諭した。
彼の声に怒りの感情は乗っておらず、それがソフィリアにとって余計に苦しかった。
真正面からなんて太刀打ち出来るわけがない…あんなに甘い顔をする彼を見たことがないもの。彼女が彼にとっての特別だなんて、そんなこと分かってる。だから公爵家という立場を利用して手に入れようとしてるのに…
兄様はいつも正しくて時々残酷だ。
皆が皆、兄様みたく強くいられるわけじゃない。自分のためにズルくなりたい時だってある。
私がズルをするのはこの一回だけ。
今までも父の言う通りに生きてきた。見た目だって教養だって振る舞いだって、人一倍努力してきた。求められる公爵令嬢のソフィリアであるために。
これからも私はそうやって生きていく。
この生き方しか知らないから。
だから、この一回だけは見逃してもらいたい。彼女に譲ってもらいたい。あの人は私と違って心が綺麗だし勉強も出来るし優しいし、何より結婚相手を選べる自由がある。伯爵家なら私よりずっと自由に生きられる。
ねぇ…貴女は、エトハルト様じゃなくてもいいでしょ?
「ソフィリア、私は怒っているわけじゃなくて、お前のことを、」
「心配、してくれたのでしょう?」
黙り込むソフィリアに、心配になったランティスが慌てて言葉を続けた。
そんな彼の心を見透かすように、彼女は朗らかに笑って見せた。
「安心なさって。お兄様が心配するようなことはもう致しませんわ。もちろん、お父様のご迷惑になるようなことも。これで宜しいでしょう?」
「ああ。分かっているならそれでいい。」
結局ランティスはソフィリアに言われるがままであった。
彼女は大切なたった一人の妹であり、彼女が家のためにしてきた努力も知っている。だからランティスは、ソフィリアに対して昔から強く出られないのだ。
絆の深いあの二人なら、ソフィリアが少しくらい邪魔をしたって上手くやっていけるだろう。
ランティスは、ソフィリアの説得を諦め、二人の絆に賭けることにした。




