無力
まだ日が昇り切っていない早朝、下の階から騒がしい声が聞こえてきた。
しばらくの間領地に引っ込んでいた父親がこの長期休暇の間に王都の邸に戻ってきたのだ。
連日朝帰りをしており、このくらいの時間帯に帰宅する音が聞こえてくる。
だが今日は、いつもの音に加え、言い争う声が聞こえてきた。どうやら、玄関先で父親と母親が鉢合わせをしてしまったらしい。
セラフィはベッドの中で耳を澄ました。
言い争う声はしばらく続いた後にようやく止んだ。もう日は完全に昇り切っており、カーテンの隙間から入ってくる朝日が眩しい。
やり過ごしたことに安堵したセラフィはベッドから出ようとしたが、自室に近付いてくる足音が聞こえてきたため、慌ててベッドの中に潜り込んだ。
「セラフィ様、旦那様がお呼びです。」
「体調が悪いと伝えて。」
自分のことを呼びにきた使用人に、セラフィは言葉を被せるようにして言い返した。
「『呼び出しに応じない場合は、今すぐサンクタント家のところに行く』そのように御言付けを承っております。」
セラフィはベッドから飛び起きた。
あの父親ならやりかねない…そう思った彼女は、相手の思う壺だと思いつつも従わざるを得なかった。
これ以上エティのことを巻き込むわけにはいかない…
セラフィは唇を噛み締めると、手早く部屋着のワンピースに着替えて父親の待つ書斎へと向かった。
「遅いぞ。」
一人掛けのソファーに座ったネンスがセラフィのことを睨み付けてきた。
その頬は少し赤く、酒の匂いがした。明らかに酔っている様子に、セラフィは無言で顔を歪めた。
「愚図で地味な見た目でもあのサンクタント家の息子を手玉に取るんだから、お前はエリザベスの子だよな。男に媚びることだけは一人前か。一体どんな手を使ったんだろうなぁ。」
ネンスは下品な笑みを浮かべながらドアを背にして立つセラフィのことを見てきた。
セラフィは、その嫌な視線から逃れるように顔を逸らして俯き、腹の底から込み上げる嫌悪感を必死に押さえ込んだ。
「男を誑かすことしか取り柄がないお前に、この家の役に立てる絶好の機会を与えてやろう。これはお前のためだ。アイツから金を取ってこい。そうすればこのシブースト家は持ち直すことが出来る。簡単な話だろ?」
「そんなことをしたら、私と彼の婚約は解消されてしまいます。」
ネストの勝手な言い分に、はらわたが煮えくりかえりそうになるのを堪え、努めて冷静に言葉を返したセラフィ。
きっとお金のことだろうと予想を付けていた彼女は、用意していた答えで切り返した。ネストにとって、サンクタント家と縁が切れることは絶対に避けたいことであると思ったからだ。
だが、ネストに焦る気配はなく、口角を上げて愉快そうに笑ってきた。
「ああそうだな。婚約解消となったら困るのはお前だよな。だから、相手に不審がられないよう上手くやれ。あいつと結婚したいんだろ?」
ネストは逆に、セラフィの気持ちを利用してきた。彼は、余裕の表情を浮かべている。
どうしてこんなことを…
セラフィは、手のひらを傷付けてしまいそうなほど強く両手を握りしめた。
なんでこんな男の元に生まれてきてしまったんだろう。
私に向けられたエティの優しさを、どうしてこんなやつに搾取されないといけない?私がこの男の子どもだから?利用されて当たり前?私はアイツのために存在するの?
…絶対に違う。
こんなのは間違ってる。
それなのに、自分にはこの現状を変えるだけの力がない。
自分の無力さに吐き気がする。
少しは頑張りたいと思ったのに、結局ここから抜け出せない。どこまでいっても私は私。親の言いなりになるしかない。ならばせめて、私のせいで誰かに迷惑をかけてしまうことだけは避けたい。自分の人生は最初から諦めているけど、他の誰かが傷付くことだけは耐えられない。だから…
彼を解放しよう。
この家から、この男から、私から。
彼から十分過ぎるほどの優しさと勇気と希望をもらった。だからもう大丈夫。一生分の幸せを与えてもらったから。
それを糧に私は生きていける。
きっと大丈夫。
「はい、お父様。」
セラフィは頷いた。
これまでしてきたように、また望むことを諦めた。痛みを感じないように、絶望してしまわないように、自分の心を守るために。
***
「セラフィ、おはよう。今日から僕たち二年生だね。」
「おはよう。うん、そうだね。」
新学期の初日、いつものように迎えにきたエトハルトだったが、セラフィの様子を見て一瞬だけ顔を顰めた。
元気がないとも少し違う、瞳に光が灯っていないような初めて見る彼女の表情だった。
本当は、行きの馬車の中でセラフィへ想いを告げようと考えていたエトハルト。
覚悟を決めてセラフィの元を訪れていたのだが、そんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。
自分の気持ちを押し付けて彼女のことを困らせたくないエトハルトは、結局たわいもない話題を選んだ。
いつもならあっという間に感じる馬車移動だったが、今日はものすごく長い時間に感じてしまった。
いつもと同じように会話をしているはずなのにいつもよりセラフィとの距離を感じる。心を閉ざされているような気さえする。
エトハルトは、彼女の心の枷を取ってあげられないどころか、その要因すら分からない自分に絶望していた。
こんなにもセラフィのことを想っているのに、彼女のために何も出来ない自分。
自分の無力さを思い知らされる状況に、胸が張り裂けそうだった。




