日の目を見た感情
怒涛の追い込みを終え、赤点組も無事に期末試験を終えることが出来た。
本人達は思いの外手応えがあったようで、恐らく8割方大丈夫であろうという感じであった。アザリアに至っては、満点に違いないわ!と豪語し、マシューからツッコミの鉄拳をくらっていた。
期末試験から一週間が経ったこの日、教室はこれまでにない緊張感に包まれていた。
当事者である赤点組はもちろんのこと、他のクラスメイト達も表情が硬い。祈るように、胸の前で手を組んでいる女子生徒もいる。あの大口を叩いていたアザリアでさえも、緊張した面持ちをしていた。
そんな異様な空気に包まれる中、採点した答案用紙の束を抱えたカナリアが教室に入ってきた。いつもと変わらない彼女の表情からは、結果の予想がつかない。
皆、はやる気持ちを抑えて、カナリアからの発表を待った。
「皆、試験お疲れ様。本当によく頑張ったわ。今回は前回と違って、赤点を取った生徒は一人しかいなかったのよ。」
「へ」
「…嘘だろ」
「そんな…」
「…死にたくない」
アザリアは気の抜けた声を出し、マシューは信じられないと言った顔で頭を抱え、ランドルは血の気を失い、ドロスは命の心配をしていた。
反応は4者4様だが、皆ショックを受けた顔をしている。血を吐くほどの努力をしたはずなのに、それが報われなかったことに、魂が抜けそうになるほどの衝撃であった。
赤点を取った者はたったの1人とは言え、もはや戦友のような関係の三人は、自分以外の者にも赤点など取って欲しくはない。共に戦った全員でこの試練を乗り切りたかった。
「今回赤点だったビリー君は、補習の授業があるから、それを受けるように。さぁ、順番に答案用紙を返却するわよ。」
「「「「は………………」」」」
まさかの唯一の赤点保持者はビリーという結果に、4人は魂を取り戻すと、気の抜けた間抜けな声を発した。
なんとなく頭の良さそうなイメージがあった、メガネの彼に、クラスメイト達は揃って驚いた顔で見ている。
「メガネだからって、勉強が出来ると思うなよ。」
皆の視線に、ビリーはメガネを指で上げながら、捨て台詞を吐いた。
ここは笑っていいものなのか、先入観で決めつけてしまったことを申し訳なく思うべきなのか、判断に迷うクラスメイト達。
なんとなく互いに窺うような空気が流れる中、それをぶち壊す者がいた。
「セラフィ、これで無事に試験も終わったことだし、これからはずっと一緒にいられるね。」
隣の席に座るセラフィのことを見つめながら、にこにこしているエトハルト。
彼には、ビリーのメガネの話も目の前に立つカナリアのことも何も関係なかった。相変わらず、セラフィのことしか視界に入っていない。
見つめられた彼女は、真横からの視線を感じつつも、彼の方を見る勇気はなく、顔を正面に向けたまま曖昧に頷いて見せた。
そんな彼女に、一層甘さの増した視線を向けるエトハルト。
いつもの彼に、クラスメイト達からはクスクスと笑い声が漏れ始めた。
ようやく、教室にいつもの雰囲気が戻ってきた。
「スペシャルセットにデザートのケーキに、紅茶はスペシャルブレンドでお願いね。それと、本日のパスタとスコーン追加で。あとは…」
「本当にそれ全部食う気かよ…」
「もちろん、食うわよ。」
赤点を回避した暁には、学食で好きなものを好きなだけご馳走するとアザリアに約束していたマシュー。
その彼に対して、アザリアは席に座ったまま、早速食べたいものを片っ端から伝えていた。そこには遠慮も容赦も無かった。
マシューはげんなりとした態度を見せつつも、彼女が無事に試験を通過出来たことが嬉しくて堪らず、口元は僅かにニヤついている。
軽い足取りで注文カウンターへと向かって行った。
それを見送るとすぐ、アザリアはデザートコーナーに行ってしまった。本日のデザートが何か気になったらしい。
「セラフィは?何か食べたいものある?頑張ったご褒美に、僕がなんでもご馳走するよ。」
にこにこ顔のエトハルトが正面に座るセラフィに尋ねてきた。彼は、セラフィに何かしてあげたくて堪らないといった顔をしている。
「頑張ったのはエティの方だよ。学年一位を維持するなんて本当にすごいと思う。それに今回は他の人の勉強も見てたっていうのに…。エティは優秀だよ。」
口では褒めているのに、セラフィの表情にはほんの僅かに暗さが感じられた。
自分よりも圧倒的に高貴な身分で成績優秀で、何もかも自分より優れている彼のことを少し遠くに感じてしまったのだ。
「セラフィのおかげだよ。」
「私は何も…」
「セラフィがいるから、僕は良いところを見せたくて頑張れるんだ。君がいなかったらきっと、そこそこの成績だったと思うよ。僕は元来、手を抜くタイプの人間だからね。何かに本気になることなんて無かったから。」
「…意外、かも。生まれ持った才能で何もかも出来るんだと思ってた。でもそうだよね、努力をせずに花開く人なんていないよね。じゃあ、エティは本当によく頑張ったんだね。凄いよ。」
セラフィはテーブルの上に少し身を乗り出すと、ビクッと反射で身体をこわばらせたエトハルトの頭を撫でた。
「えっ…」
エトハルトは驚いて目を見開いた。
冗談抜きで心臓が止まるかと思った。それほどの衝撃であった。
彼女から触れてきたのは初めてだった。
その手は温かくて優しい。
落ち着くはずなのに、心の内側がひどく騒がしくて落ち着かなかった。
このまま触れ続けて欲しい気持ちと、今すぐその手を掴んで彼女のことを抱きしめたいという欲求がエトハルトの中でせめぎ合う。
ああそうか、僕は彼女のことを…
彼の中で確信めいた感情が生まれた。
それは、本当は彼女と出会った時に初めて抱いた感情だったのだが、その時の彼はまだ精神的に幼く、他者へ向かうこの感情に気付くことが出来なかった。
彼の情緒が育った今、その感情はようやく日の目を見ることが叶ったのだ。
「エティ?」
セラフィは、彼の頭から手を離すと、固まっているエトハルトに心配そうな瞳を向けた。
「何でもないよ。」
エトハルトはセラフィのことを安心させるように微笑んだ。
今ならちゃんと自分の気持ちが分かる。ようやく分かった。でもこの感情は相手に押し付けるものではない。だから今は言葉にするべきじゃない。来るべき時のために、今はこの感情を大切に育てていこう。願わくば、彼女と共に…
「じゃあ、デザートのケーキを半分こしようか。今日は特別にケーキ2種もりを頼んじゃおう。」
「ふふふ。それじゃあ、1人一個と変わらないよ。」
どこか吹っ切れたような朗らかな顔のエトハルトと微笑むセラフィ。二人の間には、優しい時間が流れていた。
「なんかあの二人、良い感じじゃない?」
「ああ、そうだな。」
遠目で見ても良い雰囲気だと分かる二人の様子に、アザリアとマシューの二人は席に戻れずにいた。
これはしばらく戻れそうにないなと早々に諦めたアザリアは、マシューの持つトレーから付け合わせのポテトを摘んで口に放り込んだ。
「あ、こらっ!手で食べるな!行儀が悪い。とりあえず、俺達は空いてる席に座ろう。」
「そうね。」
アザリアはまたポテトを摘もうとしたが、マシューにトレーごと避けられてしまった。
「手が汚れる。」
そう言うと、マシューは自分の手でポテトを掴み、アザリアの口元に差し出した。
彼女は差し出されたポテトを躊躇なく口にすると、美味しそうに咀嚼した。反対に、指まで食べられそうになったマシューの方が顔を赤くしていたのだった。




