提案
『君、迷子?』
目の前の少年から発せられた言葉に、セラフィは信じられない気持ちになった。
実の親にさえ、心配などされたことないのに、初めて見かけた相手が自分のことを気にしてくれるなんて…それは心が浮き足立つような落ち着かないような不思議な感覚であった。
後から冷静に考えれば、この時は自分の気持ちが落ちていたからだって分かる。だが今は、こんなにも心細い時に掛けてくれた言葉が心に沁みた。
「これ、良かったら。」
少年は、目を滲ませるセラフィに理由も聞かずハンカチを差し出してくれた。
自分の感情を上手く説明できない彼女にとって、それはありがたい気遣いだった。
「どうもありがとう。」
セラフィはなんとか御礼を言うと、素直にハンカチを受け取り、目元を押さえた。
「何に困ってる?」
少年は椅子に座るセラフィの目線に合わせるように腰を屈めて尋ねてきた。
『大丈夫?』と聞かれていたら、彼女は大丈夫だよと答えて話は終わっていただろう。
具体的に聞かれたセラフィは、つい頭の中で今一番困っていることについて考え始めた。
色々あり過ぎて長い時間思考にふけっていたように思うが、目の前の少年は急かすことなく静かに待ってくれていた。
「知らない人と結婚させられそうになっていること、かな。しかも親よりも年上の。」
思わず本音が出た。
迷子云々よりかなり重い困り事に、少年は大きく目を見開いた。
彼の反応に、答えを間違えってしまったと焦ったセラフィは慌てて口を押さえ、必死に弁明の言葉を考えたが、返ってきた言葉は彼女の気持ちに寄り添うものであった。
「それは、困るね…どうしたらいいかな…」
顎に手を添え、うーんと自分事のように頭を悩ませてくれる目の前の少年。
想定外の展開に、セラフィは困惑した。
今会ったばかりだというのに、いきなり言われた困り事について真剣に悩んでくれている。嬉しいとか有難いとかそんな感情を通り越して、訳がわからなかった。
「いきなり、ごめんなさい…貴方もきっとお茶会に招かれたのでしょう?こんなところで足止めしてしまって申し訳なかったわ。」
こんな自分の話に時間を使わせてしまったことにいたたまれなくなったセラフィは、遠回しに会場に戻るよう彼に促した。
だが、真剣に頭を悩ませている彼には聞こえていなかった。
悩み続ける彼とそれに気を使うセラフィ。
この状況をどうしたものかと彼女がやきもきしていると、ようやく彼が口を開いた。
「そうだ、僕を君の婚約者にするのはどうだろうか?」
「えっ???」
これまた予想してなかった提案に、セラフィは大きな声で聞き返してしまった。
「申し遅れたけど、僕の名は、エトハルト・サンクタント。僕は侯爵家の嫡男だから、君の父上も納得するんじゃないかな?サンクタント家の資金は潤沢だし、僕の婚約者ということにしておけば、勝手に変な家に嫁がされることはないと思うよ。」
なんてことない口調でとんでもない事を言い出したエトハルト。
だが、嘘をついているようには見えなかった。ただセラフィのことを思っての提案のように聞こえるが、彼女にはなぜそこまでしてくれるのか、全く理解出来ない。
「えっと、貴方が私の婚約者って…名を借りられるのはありがたいけれど、そこまでしてもらう義理はないし、貴方にもかなりの迷惑を掛けるわ。うちは侯爵家には到底不釣り合いだし、婚約解消した後貴方に醜聞が残る可能性もある。そしたらその後の相手探しで困ることになるでしょうし。だから、私の我儘に巻き込むわけにはいかないわ。」
「僕の結婚のことなら心配ないよ。そんなことに興味ないから、自分の評判なんてどうだっていい。」
「なんですって??」
「恐らくだけど、僕も君の家と同じような感じ。普段は僕のことなんて感心ないくせに、結婚相手のことだけ口を出してくる。だから僕は結婚しないって決めたんだ。子どもっぽいって思われてしまうかな。で、今をやり過ごすためにも、君を婚約者だと言えたら僕も助かるんだよね。打算的な提案で申し訳ないのだけど。」
エトハルトは、自嘲気味に笑った。
その顔は、どこか寂しそうであった。
「私と、同じ…」
セラフィにとって、これは願ってもない提案であった。
変なところに嫁に行かせられることは何よりも避けたい。であれば、家格が上のエトハルトと仮初の婚約を結ぶことが最も良い隠れ蓑となる。それに、話してほんの数分だが、彼は悪い人間ではないような気がした。
そして何より、自分と同じような境遇の者の存在が心強かった。
だからと言って今の生活が劇的に何か変わるわけではないが、同じような人がいるというだけでも、心を保つことが出来ると思った。
「本当に、いいの…?」
「ああ、君さえ良ければ。むしろ、こちらからお願いしたいくらい。」
「じゃあ…その、よろしくお願いします。」
「よし、じゃあ決まりだね。」
エトハルトは、嬉しそうに微笑んだ。
彼の笑顔が眩しく、セラフィはぎこちない笑顔を返した。
「僕の名前呼びにくいでしょ?エティって呼んでいいよ。君のことはセラフィと呼んでも?」
「ええ。」
「では、セラフィ」
「えっ」
エトハルトはセラフィの前に跪くと、彼女に向かって手を差し出した。
「僕と婚約をしてもらえませんか?」
真っ直ぐに見つめてくる揺るぎないシルバーの瞳を、セラフィは緊張と不安に揺れる目で見返した。
手を差し出された彼女がどうしていいか分からず戸惑っていると、エトハルトは固まっている彼女の手を自ら取りに行き、ふふっと小さく笑みをこぼした。
「いくら仮初とはいえ、こういうことは形が大事と言うからね。これからよろしく、セラフィ。」
「え、ええ。こちらこそ。」
跪くエトハルトと椅子に座ったまま握手を交わしたセラフィ。
彼女は、混乱したままなんとか言葉を発した。
彼女の返事を聞いたエトハルトは、交渉成立とばかりに、満足そうな顔で笑った。