消えた教科書
新入生研修からしばらく経ち、セラフィに対してあからさまに悪く言ってくる者も陰口を叩く者もいなくなった。
表面上は穏やかな日々で、クラス全員とまではいかずとも、何人かは朝の挨拶を交わせるくらいの仲になっていた。
だが、見えないところで地味な嫌がらせは続いていた。
教科書を机から抜き取られたり、私物を隠されたり、セラフィしか気付かないところで嫌がらせを繰り返してくる。
今日もまた机から教科書が一冊消えていた。
ここ最近は注意をしていたが、移動教室があった時に盗られたらしい。
その教科書は次の授業で使うものだ。
教科書なしでは手持ちぶたさになってしまう。
もうすぐ授業が始まってしまうため、隣の人に見せてもらってその場を凌ぐことにした。
「ごめんなさい、教科書忘れてしまって…次の授業見せてもらっても良いかな?」
セラフィが申し訳なさそうな顔をして頼んだ相手は、クルエラだ。彼女とは新入生研修の時に少しだけ話したことがある。何より、自分と同じ大人しそうな雰囲気で話しかけやすかった。
「え、ええ。もちろんよ。」
快諾してくれたが、なぜかクルエラの表情は暗かった。
セラフィは、もしかしたら本当は嫌だったのかなと思い、やっぱりいいと言おうとしたが、鐘がなってしまった。
席を少しだけ近づけて彼女の教科書を見せてもらうことになったセラフィ。
しかし、頭の中では、やっぱり嫌だったかな…とモヤモヤか離れなかった。
嫌われ者の私に教科書を見せるだなんて、周りからの目が気になるかな、私のせいでクルエラに嫌な思いをさせてないかな…そんなことで頭がいっぱいになり、授業の内容はほとんど入って来なかった。
「では、次のページの訳はセラフィさんにお願いするわ。」
「え…あ、はいっ」
いきなり教師に名前を呼ばれ、セラフィは反射で立ち上がってしまった。
その後、訳するだけならホワイトボードの前に行く必要はないことに気付き、顔を真っ赤にしてまた席に座った。
四方八方から、クスクスと小さな笑い声が聞こえた。
…ってあれ、次のページってどこだろ…今先生何の話をしてた??
まずい…全く話を聞いていなくてどこを訳せばいいのかわからない…
でも、こんな状態で先生に聞き返すだなんて、恥ずかし過ぎてそんなの絶対に出来ない…この場で発言するなんて無理だ…
え、どうしよう…
耳まで真っ赤にして俯くセラフィに、クルエラが小声で話しかけてきた。
「セラフィさん、ここよ。」
「あ、ありがと…」
クルエラは教科書のページを開き、指を指しながらセラフィに差し出してくれた。
自分に教科書を見せてくれるだけでなく、気遣ってくれるクルエラに、セラフィは胸の奥が熱くなった。
皆の視線を集めてしまっていたセラフィは、その視線から逃げるように教科書に視線を落とすと、そのページに書いてある文章を外国語に訳し始めた。
『それは、私達先祖が古来より大切にしてきた概念であり、この国の根幹となる価値観だ。宗教というものは、人々の生活に根差した身近なものであると同時に、崇拝すべき対象として各々の精神を支えて一層高めるものでもある。そうしたことから、私達の国では…』
セラフィは、途中で言葉を止めた。
クラスメイトに驚愕した顔を向けられていたからだ。
また何かしでかしてしまったのかと、セラフィは教科書で顔半分を隠し、目だけで周りの様子を伺った。
チラリと隣のクルエラを見たが、彼女は頑なにセラフィと目を合わせようとはしなかった。
「セラフィ、すごいね。」
教師すらも言葉を発さず、クラス全体に重い沈黙が広がる中、エトハルトの明るい声が教室に響いた。
「え?」
セラフィは訳が分からず、エトハルトに聞き返した。
ポカンとしている彼女を見た彼は、口元に手を添えてクスッと笑った。
「やっぱり。セラフィは気付いていなかったんだね。これは上の学年で習う範囲だよ。いや、もしかしたらそれよりも上かもしれないな。こんなに難易度の高い訳をすらすら出来るなんて、セラフィは本当にすごいよ。」
「あ…」
エトハルトに言われてようやく気付いた。
確かに、学園の一年目、それも入学して間もない授業で習うような内容ではなかった。
やってしまった…とセラフィはまた耳を赤くして立てた教科書の影に隠れた。
「セラフィさん、素晴らしいわ!こんなに流暢に外国語を話せるだなんて。しかも難易度の高い言葉を予習もなしに出来るとは、賞賛に値するわ。皆さん、セラフィさんに拍手!」
皆に拍手と笑顔を向けられ、セラフィはいたたまれない気持ちなっていた。
幼い頃からひとりぼっちだった彼女は、勉強するしかやることがなかった。
見栄っ張りな母のおかげで質の高い家庭教師を付けてもらい且つ、元来努力家なセラフィは学業との相性が良かった。
寂しさを紛らわすため、持て余した時間を全て勉強に充てた結果、貴族令嬢とは思えないほどのレベルまで達したのだった。
だが、これまで人と関わることが極端に少なかったセラフィは、格が違うことに全く気付いていなかった。
担当していた家庭教師でさえ、嫉妬心から彼女の出来の良さに言及することはなかった。
「セラフィさん、さっきはごめんなさい…間違って兄の教科書を持ってきちゃったみたいで…」
授業後、クルエラは申し訳なさそうを通り越して青い顔でセラフィに謝罪をしてきた。
「そんな、謝らないで!そもそも私が教科書を持っていなかったことが悪いんだし…クルエラさんは悪くないよ。むしろ、教科書を見せてくれてありがとう。手元に何もなかったらもっと困っていたと思うから。」
セラフィは、クルエラのことを元気づけようと努めて明るく振る舞ったのだが、彼女の反応はイマイチであった。
「いえ…でも、私が悪いから…本当にごめんなさい。あ、私先生に呼ばれていたみたいで、失礼するね。」
クルエラは浮かない表情のまま教室を出て行ってしまった。
そんな彼女のことが気になって仕方がなく、セラフィはしばらくぼうっとしていた。
「セラフィ!さっきの授業格好良かったわよ!」
昼休み、アザリアは目を輝かせてセラフィのことを褒め称えてきた。
食堂にたくさんの人がいる中大きな声で言われ、恥ずかしくなったセラフィはそっぽを向いた。
「いや、あれはたまたまで…」
とにかく話題を変えようと、ランチのパンに齧り付きながら何を話そうか必死に頭の中で考えた。
が、手頃な話題は何もなく、黙ってパンを食べ続けることにした。
「そういえば、自分の教科書はどうしたの?」
一緒にランチをとることが当たり前になったエトハルトは、セラフィに鋭い質問をしてきた。
その目は、真面目な彼女が教科書を忘れるはずがないと完全に疑っている。
「ええと…家に置いてきてしまったみたいで…多分ベッドの上だと思う。寝る前に読んでいたから。」
「ふうん…」
エトハルトのその声は、絶対に信じていない言い方であった。
だが、今ここでセラフィのことを追及しても困らせるだけだと分かっている彼は、この場は見過ごすことにした。
セラフィは、エトハルトの反応が気になって仕方がなかったが、自分から話を蒸し返すわけにもいかず、やっぱりまたパンに齧り付いたのだった。




