春風に乗せて
エリザベスはセラフィの前に立つと、縋り付くように彼女の腕を掴んできた。
セラフィの後方に控えていたナラは一瞬足を踏み出しかけたが、相手に害意がないことを悟るとなんとかその足を踏みとどめた。
同情を誘うように寂しげな顔でセラフィのことを見てくるエリザベス。
「セラフィ、貴女が会いたいって言ってくれて本当に嬉しかったわ。貴女は優しいから、私のことを見捨てたりしないわよね?私はあの人と違って、ずっと貴女のことを想って貴女のために生きてきたわ。そうでしょう?ねぇ、セラフィ。」
猫撫で声を出して必死に嘆願してくるエリザベスのことを冷静な瞳で見返すセラフィ。
もっと心が揺らぐと思った。
動揺すると思った。
悔やむと思った。
しかし、実際セラフィの中には何の感情も芽生えなかった。
なんでこんな人のために心を痛めてたんだろう。もっと早くに気付けば良かった。最初から彼女の中に私の居場所はなかった。
そんな空っぽの場所に、私は一体何を求めていたんだろう…
最初から無かったものを失うことなんてないのに。そんなの求めたって探したって何も意味がないのに。
…やっと気付けた気がする。
「お母様」
セラフィは、しがみついてくるエリザベスの腕に優しく手を添えた。
「セラフィ…」
自分のことを許してくれるのだと、エリザベスは口角を上げ期待に満ちた眼差しでセラフィのことを見返してきた。
だが、そんな彼女との決別を示すようにセラフィはゆっくりと首を横に振った。そして、エリザベスの腕を丁寧に引き離す。
「セラフィ…?どうして…どうして…」
エリザベスの瞳から光が消え、一転して絶望に染まった。
セラフィから引き離されて行き場の失った両腕で自分の身体を抱きしめ、わなわなと肩を震わせている。
実の母親が目の前で狼狽する姿を目にしても、セラフィの感情が動くことはなかった。
自分の中にこんな非情な側面があったのかと、セラフィは思わず自嘲気味に笑ってしまった。そのくらい冷静で母親に対して心を閉ざしていた。もう彼女の耳に母親の声が届くことはない。
「私は私の道を行きます。もうお母様の思う通りには生きません。これからの人生、好きな人と共に歩んで参ります。」
凛とした声を出せたが、最後の一瞬だけ僅かに言葉が震えてしまった。
だがそこにあったのは寂しさや悲しさではなく、面と向かってはっきりと言えたことに対する自分自身への誉れであった。
今まで感じたことのない自分に、心が震えて鳥肌が立った。
「そんな…私のことを見捨てる、の…?セラフィまであの人と同じように私のことを邪魔者扱いするの…?貴女が幸せを掴めるように私は私なりにやってきたというのに…どうしてそうやって私の手を離すの…?どうしてそんな…」
「お母様は、貴女は、私に貴女の理想を押し付けていただけです。最初はそれでも構わなかったけれど、私は私のことをちゃんと見てくれる人達に出会えたの。だからもう、貴女の傀儡ではいられない。」
「本当はこんな母親と縁を切りたいだけでしょう!だったらそうはっきり言えばいいじゃない!結局は貴女もあの人と同じで、私のことを疎ましく思っているのでしょう!!」
激昂したエリザベスは、足元に落ちていた小石を握りしめると振りかぶった。
すぐに気付いたナラが後ろからセラフィの前に飛び出そうとしたが、セラフィの出した腕によって制止されてしまう。
その隙に投げつけて来た小石がパラパラとセラフィのスカートに当たり地面に落ちて行った。その間、セラフィはその場から一歩も動かなかった。
「私に石を投げて満足するなら、気が晴れるなら、好きなだけしたらいいよ。そんなことをしても、私の心が戻ることはないから。」
「この偽善者っ!!自分だけか綺麗だと思って!お前だって、この薄汚れたシブースト家の人間のくせに!たかが侯爵家の人に見染められたくらいでいい気になって!小賢しいわっ!!」
足元に石が見当たらなかったエリザベスは、爪を立てて土を掴みセラフィに投げつけた。
彼女に届くことのない土は、土埃となって春風が運んでいく。
「セラフィ様」
土の上に座り込み金切り声を出すエリザベスに、限界だと感じたナラはもう終わりにするように目で訴えた。
同じように思っていたセラフィは、後ろに一歩下り、主導権をナラに譲ることにした。
「エリザベス様、帰りの馬車をご用意しております。どうぞこちらへ。」
「誰よこの使用人!私はここの女主人よ!たかが使用人が気安く私の名を呼ぶな!」
腕を取り立ち上がらせようとしたナラの手を振り払うエリザベス。憎悪に歪んだ醜い顔で感情のままに怒鳴り付けてくる。
狂気の沙汰であったが、それに動じるナラではない。
涼しい顔で受け流すと、控えていた守衛を呼び付け強制的にエリザベスのことを連行させていった。
「セラフィ」
エリザベスとの会話が終了した瞬間、セラフィの元へと駆け寄って来たエトハルト。
その勢いのままありったけの想いを込めてセラフィのことを抱きしめた。
「よく…よく、頑張ったね。」
「エティ、甘くて美味しいものが食べたい。」
今にも泣き出しそうな声のエトハルトとは対照的に、セラフィはどこか吹っ切れたような明るい声を出した。
予想外の反応に、エトハルトは一瞬目を見開くとすぐに満遍の笑顔を見せた。
セラフィの初めてのおねだりに笑顔を通り越して顔面がニヤついている。
「頑張ったご褒美に、王宮から一流の菓子職人を呼んでこよう。今日の夜までには間に合うように手配するから、少しだけ待っていてもらえるかな?」
「ええと…なんか思っていたのとは違う、かも?」
「では、私が特別美味しいイチゴのパイを焼きましょう。すぐにご用意できますよ。」
「はぁ?」
「え、ナラはお菓子作れるの!?食べてみたい。」
「ええ、喜んでお作りしますので、その間にセラフィ様は湯浴みとお着替えをお済ませくださいませ。」
「では僕は菓子作りで忙しくなるナラの代わりにセラフィの手伝いを…」
「エトハルト様、気が触れましたか?大人しく応接室でお待ちになってください。本日期日の決裁書類も届いておりますよ。」
「・・・」
「えっと、すぐ戻るから少しだけ待っててね。」
セラフィはしょんぼりとしているエトハルトの手を取り、目線を合わせて微笑みかけた。途端に笑顔になるエトハルト。
二人は仲良く手を繋ぎながら邸の中へと戻って行った。
馬車に乗り込んでからもエリザベスの泣き喚く声か敷地内に響いていたが、彼らがそれを気に留めることは無かった。