大きな一歩
本来の性格とは真逆の行動をしようとすることに、セラフィは気が進まなかった。キリキリと痛む胃を摩る。
いつもの彼女だったらわざわざ関わろうとなどしなかっただろう。目を閉じて耳を塞いで痛みに気付かないふりをしてやり過ごしたはずだ。
でも今回は、エトハルトのことを巻き込んでしまった。自分だけながら我慢すればいい痛みも、自分以外の人が被害を被ると思うと途端に耐えられなくなる。
本当は、昼休みが終わった直後に、セラフィに嘘を吐いて教室に閉じ込めた女子生徒二人に話をするつもりだった。
だが、中々決心がつかず、気付いたら今日最後の授業の終わりを告げる鐘が鳴っていた。
明日になったら決心が揺らぐ…
ちゃんと今日のうちに向き合わないと…
そう思ったセラフィは意を決して二人の元へと向かった。ちょうど良く二人一緒にいてくれたことにホッと息を吐いた。一人一人に声を掛ける勇気なんてない。
皆帰ろうと教室の外に向かう中、窓際に触る自分達の方に向かってくるセラフィに、訝しんだ目を向けた。
セラフィは、怯みそうになる心を、グッと奥歯を噛んで耐える。
これは自分のためじゃなくて、彼のため…だから彼のためにも自分が頑張らないと…
不安そうな挙動なのに、意思のある瞳で真っ直ぐに進むセラフィのことを、少し離れた場所から心配そうなシルバーの瞳が見ていた。
「あ、あのっ」
懸命に出した第一声は上擦ってしまった。
席に座っていた女子生徒二人は、めんどくさそうな顔でセラフィのことを見上げた。
「何の用?今忙しいのだけど。」
「そうそう。それに、貴女と関わったなんてうちの親に知れたら叱られてしまうわ。シブースト家とは距離を置くように言われているの。貴女も分かってくれるでしょう?」
二人は顔を合わせて、小馬鹿にしたように笑った。
それを目にしていた数人も同じように口元を押さえて笑っている。
なんでこんなことを…
今すぐにここから逃げ出したい…
こんな自分らしくないことやめておけば良かった…誰かのためと思ったら頑張れると思ったけど、違った。そんなの嘘だった。そんな些細なことで自分の性格が、周りの目が変わるわけがない。
こんなことになるのなら、気付かないふりをしてやり過ごした方が良かった。
なんでこんなことやろうと思ってしまったんだろう。
セラフィは俯いて唇を強く噛み締め、両手を握りしめた。
身体が石化したように重く、その場から立ち去ることも出来なくなってしまった。
自分から話しかけて来たくせに、用件も言えずに黙り込んでいるセラフィに向けて、一人が頬に手を当て大仰にため息を吐いた。
「まぁ、なんでこんな子があのエトハルト様の婚約者なのかしら…理解に苦しむわ。彼は見る目がないのかしら。それとも、女性だったら誰でも良かったりして?あんなに見た目が麗しいのだもの、複数の女性を抱えていてもおかしくないわね。」
勝手なことを言っておかしそうに笑い声を上げた。
今、なんて…?
あの人、エティのことをなんて言った?
どうしてエティのことまで悪く言ってくるの?彼は何も関係ないのに。むしろ、私にこんなに良くしてくれているのに。私は彼以上に真っ直ぐに優しい人を見たことがない。
それなのに、勝手なことを…
セラフィの中でふつふつと抱いたことのない感情が沸いてきた。
自分に対しては何を言われても仕方がないと諦められたが、エトハルトの話は別だ。
自分が巻き込んでしまったからこそ、彼が周囲から悪く言われることは耐えられなかった。
何より、これ以上彼の陰口を聞きたくないと思った。
「…めて」
「何よ?聞こえないんだけど。」
「やめて。」
「はぁ?」
「私のことはいくら悪く言ってもいいから。嫌がらせだってなんだって耐えて見せる。何しても怒らないから。だから、エティのことを悪く言うのはやめて。それだけは許せない。」
不思議と声は震えなかった。
セラフィは強い口調で最後まで堂々と言うことが出来た。
しかし、鼓動は速く、心臓が壊れてしまいそうなほどだ。
この時、なぜか胃は痛まなかった。代わりに、心臓が飛び出してしまわないよう胸に手を当てた。
「貴女、誰に向かってそんなっ」
「キャシーっ」
キャシーと呼ばれた女子生徒は慌てて口をつぐんだ。
顔を青くする彼女の視線の先には、こちらに近づいてくるエトハルトの姿があった。
「キャサリン嬢にフローラ嬢、僕のセラフィと随分と仲が良さそうだね。これからも仲良くしてもらえるかな?」
にっこりと圧のある笑顔を向けてきたエトハルト。
キャサリンとフローラの顔から血の気が引いた。彼の反応に、先ほどまでの会話を全て聞かれていたと悟ったらしい。
「も、もちろんでございますわ!さ、フローラ、私達はもう行きますわよ。」
「え、ええ。では、皆様ご機嫌よう!」
エトハルトの威圧にビビった二人は、脱兎のごとく教室から逃げ去ってしまった。
「エティ?」
さっきの会話が聞かれていたらちょっと気恥ずかしいなと思い、窺うように彼の顔を見上げた。
そこには、いつもの穏やかな表情を浮かべた彼の姿があってホッとした。
「セラフィ、僕らも帰ろうか。向こうでアザリア嬢も心配しているようだし。」
エトハルトが視線を向けた先には、殴りかかるように拳を上にあげたアザリアが、苦笑するマシューの手によって必死に押さえてられていた。
「ありがとう、エティ。うん、帰ろう。」
自分のことを心配してくれる人がいて、自分のために怒ってくれる人もいる。
今までだったら、一人で膝を抱えて耐えてやり過ごしていた。それが今では…
セラフィは涙で目が滲みそうになるのを必死にこらえて、アザリア達の元へと向かった。
その足取りは春の風のように軽やかであった。