誰が為の刃
……おかしい
現場に現れたエトハルトが真っ直ぐにセラフィの元へ駆け寄らないことに、ナラは胸騒ぎがした。
自分の勘違いであって欲しい…
そう強く願いながらネストに近寄るエトハルトの動きを凝視する。
お願い、そこで止まって…
だが彼女の願いは届かず、エトハルトは自身のジャケットの襟元に手を掛けた。その瞬間、ナラは残念ながら自身の予想が当たってしまったことを確信する。
その後のことを想像するよりも早く、反射的に身体が動いた。
エトハルトまで10歩ほどの距離、ナラは、地面を強く蹴って跳躍すると、目にも止まらぬ速さでその距離を詰めた。
セラフィからエトハルトのことを隠すように彼の背後に回り込んだが、彼が自分の方を向く気配はない。彼には目の前の獲物しか見えていなかった。
ナラは、エトハルトが振りかざしたナイフの柄を躊躇なく掴むと、彼の手の上から強く握りしめた。
「………何のつもりだ。」
エトハルトは地を這うような低い声で言うと、自分の手を掴んで離さないナラのことを鋭い眼光で睨み付けた。
その瞳はひどく濁っていて光を失い、深い憎しみの感情に支配されている。
「それはこちらの台詞です。セラフィ様の前でなんてことをなさるおつもりですか?彼女の実の父親を彼女の目の前で絶命させて、それでご満足ですか?」
ナラはセラフィの耳に届かないように声量を抑えながらも、毅然とした態度でエトハルトに向き合った。
セラフィは少し離れたところから二人のやり取りを見守っている。エトハルトの様子がおかしいことに気付いていたが、今はナラに任せて静観することにした。
エトハルトは葛藤していた。
セラフィの翳りの要因である目の前の男を今すぐ殺してやりたい気持ちと、セラフィのために今は自制すべきだという心の声の狭間に立つ。
よく考えれば、いやよく考えずとも、セラフィが殺しを望まないことなど明白だ。自分の手でこの男を葬りたいというのは自分自身の身勝手な感情でしかない。
自分がセラフィのことを守れなかったという自刃したくなるような事実を抹消するために、目の前の男を消し去りたかった。
そして、もう大丈夫だと言ってセラフィのことを抱きしめに行きたかった。
全部全部全部自分のエゴだ…
エトハルトは深く長い息を吐くと、手の力を抜いた。
彼の手から滑り落ちるナイフが床に落ちる前にナラは手を伸ばして掴む。セラフィにバレないようにそっと自分のスカートの中に忍ばせた。
「…………悪かった。」
聞き逃してしまいそうなほど小さな声で言ったエトハルト。
「セラフィ様のお側に。」
ナラの言葉に頷くと、エトハルトはようやくセラフィの元へと向かった。
ナラは近くに潜んでいた他の護衛に、倒れたままのネンスを侯爵領の地下牢に運ぶよう指示を出した。
「セラフィ」
「…エティっ」
エトハルトは廊下に座り込んだままだったセラフィの手を取って優しく立ち上がらせると、強く抱きしめた。
「…また君のことを守れなかった。僕は…」
「エティ、本当にありがとう。ナラってとても強いんだね。びっくりしちゃった。」
泣きそうな声で吐き出したエトハルトの後悔と懺悔を、セラフィは聞こえなかったふりをして、自分の言葉を被せた。
心優しい彼のことだ。
彼の知らないところで自分が危機に晒されていたことを自分のせいだと悔やんでしまうに違いないと思ったセラフィ。
エトハルトがいつも側にいてくれるおかげで、セラフィは父親に懐柔されずに済んだ。絆されずに済んだ。言いなりにならなかった。ちゃんと手を跳ね除けられた。
その事実がセラフィの自信になる。
彼女を強くしてくれる。
それをエトハルトに伝えたいのに、セラフィには上手い言葉が見つからなかった。
きっと傷ついて自分のことを責めている目の前の彼に、貴方のおかげで私は強くいられるって感謝の気持ちを伝えたいのに、今の彼にはどんな言葉ならその心に届くのか分からない。
元々口下手なセラフィ。
家族との真っ当な関わりもなく、アザリアと出会うまで話せる友人もいなかった。
好きだった読書のおかげで語彙力はあるが、肝心のその伝え方が分からないのだ。
しかし、一刻も早く自責の念から救ってやりたかったセラフィは、ごちゃごちゃと頭で考えることをやめた。
きっと考えても上手い言葉は思い付かない、そう思ったセラフィは最もシンプルな言葉を選ぶことにした。
セラフィは、抱きしめられたまま限界まで背伸びをすると、エトハルトの胸に埋めていた顔を上げて彼の耳にそっと唇を近づけた。
「エティ、大好きだよ。」