狂気の沙汰
頭とは単純なもので、忘れようと思って忘れていたはずなのに、聴覚と視覚で得た情報から引き摺り出されるように簡単に過去の記憶が舞い戻る。
忘れたはずなのに、もう関係ないはずなのに、もう気にしなくていいはずなのに、嫌でも思い出される抑圧された日々の記憶。
大丈夫、
大丈夫、
大丈夫、
私にはエティがいる。
何度も何度も心の中で唱えているのに、呼吸は浅くなり、息苦しさを感じる。
目の前でニヤつく父親のことを見返す勇気もなく、足も動かない。過去の自分と同じように、その場でじっと耐えることしか出来ない。
「どうした?久方ぶりに会った父親に対して何の言葉もないのか?お前は母親に似て薄情な女だな。」
ネストは、セラフィに一歩近づき、俯く彼女の顔を覗き込んだ。
石のように固まり何の反応を示さないセラフィに、ネストは面白く無さそうに息を吐いた。
「まぁいい。俺はお前と違って情に熱い人間だからな。お前がシブースト家に残ることを認めてやろう。もちろん、あの侯爵家との婚姻もな。それで満足だろう?俺は娘想いの優しい父親だからな。」
セラフィは吐き気がした。
自分のことを道具のように扱い、侯爵家のことも我が物にしようとし、それを娘想いだと言うこの男に。
セラフィは変わった。
エトハルトに出会って、すれ違って想いをぶつけ合ってようやく通じ合って、こんなにも自分のことを尊重してくれる相手がいて、自分の心も大切にしようと思えた。
だからこそ、今ここで目の前にいる父親に向かって拒絶の言葉をはっきりと口にすべきで、それが一番正しいことだと分かっている。
今すぐに…
そう思うのに、ぎゅっと心臓が締め付けられ、口の中はカラカラに乾き、喉の奥が詰まって言葉が出ない。
それはまるで、目の前にある父親に対して恐怖しているようであった。
「そう怯えるな。実の娘であるお前のことを急に取り上げられて俺は寂しかったんだ。」
嘘だ。
そんなことは分かってる、分かっているはずなのに、もし万が一にでも、ほんの僅かにでも、父親が自分自身を見てくれていたらどんなに嬉しいだろうか…
そんなことはあり得ないと分かっているのに、求めずにはいられない親の愛。
とうの昔に諦めた親からの愛情を未だに欲している自分が情けなく、白々しく寂しいと言う男が自分の親だと思うと悲しくて、セラフィの瞳に涙が溜まっていく。
瞳を滲ませるセラフィを見たネストは、自分のことを受け入れてもらえたと勘違いし、そのまま懐柔しようの彼女の頬に手を伸ばす。
下心に塗れた歪んだ表情で手を伸ばしてくるその姿はひどく滑稽で、セラフィは一気に冷めた。
こんな男に何を求めていたんだろう。
何を怯えていたんだろう。
こんな何もない男に。
過去の私は何一つ出来なかった。
でも今は違う。
今の私ならきっと大丈夫。
ーーーパチンッ
セラフィは、自分の頬に伸ばされた手を裏手で跳ね除けた。俯いていた顔を上げ、真正面からネストの顔を見た。
彼女の瞳には、憎悪も嫌悪もなく、ただ哀れみだけが込められている。
「貴様っ!!!こっちが下手に出れば、生意気なことをしやがって!黙って親の言うことを聞け!これ以上この俺に逆らうというのなら、お前の大切なものを一つずつ奪っていくぞ!全てはお前のせいだ。お前が悪いんだっ。」
怒鳴り散らし、凄みを効かせて睨み付けてくるネスト。その目は本気だった。
自分以外の誰かがこの男に狙われるかもしれない、そう思ったセラフィは一瞬怯んだ。
手を跳ね除けた勢いではっきりと言ってやるつもりだったのに、手を上げたまま止まってしまった。
戦意喪失したセラフィを見てニヤリと笑ったネストは、暴力による恐怖でセラフィの心をへし折ってやろうと、手を振り翳してきた。
ぶたれると思ったセラフィは、立ち尽くしたままぎゅっと目を閉じて歯を食いしばり、動かない足の代わりに出来る限り顔を晒した。
「それでも貴方は父親ですか?」
「あ?」
突如現れたワンピース姿の女性は、振り翳したネストの手を捻り上げると、そのまま持ち上げて自分の背に乗せ勢いよくネストを背中から床に叩き付けた。
「んがぁっ!!」
人体が床に叩きつけられる鈍い音とネストの血を吐くような呻き声がした。
それは一瞬の出来事で、恐怖に目を閉じていたセラフィが目を開けると、気を失って床に寝転ぶネストとハンカチで手を拭きながら駆け寄ってくる女性が視界に入った。
「セラフィ様っ!!」
「……えっ??」
わけがわからないまま強く抱きしめられたセラフィ。この女性が自分を助けてくれたことに違いないが、いきなり現れた彼女が誰なのか全く分からなかった。
「大変失礼致しました。私です、セラフィ様を敬愛しているナラにございます。」
「ナ…ラ……??」
衝撃の事実に目をぱちくりさせるセラフィ。
いつもと服装も髪型も化粧も違うが、よく観察すると、その声も瞳も仕草も向けられる微笑みもナラと同じだった。
しかし、邸にいるはずの彼女がなぜここにいるのか、こんなにもタイミングよく現れたのか不思議でならない。
そんなセラフィの心の内を読んだかのように、ナラは簡潔に説明してくれた。
「今日は外部から人が沢山来ますから、エトハルト様からセラフィ様のお側に付いているようにとご指示頂いたのですよ。エトハルト様もすぐいらっしゃるはずです。」
「知らなかった…ナラ、本当にありがとう。」
驚いた顔をするセラフィに、ナラは優しく微笑んだ。
「セラフィっ!!」
ひどく焦った様子のエトハルトがやって来た。
ナラの側にいるセラフィを見ると安心した顔を見せ、その近くに横たわる男の姿を見た彼は激しいほどの憎悪に顔が歪んだ。
エトハルトは真っ直ぐにネストの元へと向かうと、憤怒の表情で横たわる彼を見下ろす。
その後、一瞬にして激昂が消え、一転無表情になったエトハルト。怒りに満ちた大気は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれている。
懐に手を入れ、きらりと輝く物体を手にしたエトハルト。彼は無表情のまま、ネストの首元目掛けてそれを真っ直ぐに振り下ろした。