マガイモノと狼少女(2)
ニコ……ニコラ・イルルク、それが私の名前。
私の住む村はとても美しい場所だった。小さな村だったが、気候は温暖で作物や家畜もよく育つし、村人も気さくな人が多い、とても住みやすい村。
十七になった頃、親友の一人が結婚することになった。相手は村の牧場主の跡取りで、年上の好青年だった。彼女とは小さい頃から仲が良く姉妹同然だったこともあり、私は親友の新たな門出を大いに祝福した。
幸せな時間、しかし時として最高の幸せは、最悪の不幸に転ずる事もある。
しばらくして迎えた結婚式当日、私は親友である新婦の付き人として彼女の幸せそうな顔を間近で見つめていた。
式は滞りなく進み、幸福が最高潮を迎えようというその時、式場に火の雨が降り注いだ。
無数の放たれた火矢は、その業火を燃え滾らせ、人も建物も全てを飲み込み、後に残ったのは焼け焦げた絶望だけだった。
私は怒ることも泣くこともなく、ただただ目の前に広がる絶望の落差に心を失った。
失意のどん底に叩き落された私は、気が付くと見知らぬ場所に連れて来られていた。
鉄格子の並ぶ石造りの地下室、そこは牢屋だった。
そこで私は知った、不幸には際限がない事を、どん底の先にはもっと凶悪な地獄が待っているのだと…。
また一人また一人と連れて行かれては恐怖で凍り付いたような表情で戻って来る友人や知り合いたち、しばらくすると彼らは苦痛に呻き、発狂し、夜通し泣き叫ぶようになった。暗い地下室には恐怖と狂気が渦巻き、まさに地獄のような光景だ。
劣悪な環境とストレスも相まって私の身体はみるみる弱って行った。
健康的だった体は小枝のように瘦せ細り、綺麗だった赤毛はストレスで白く色が抜け落ち、睡眠不足からか目の周りは黒く落ちくぼんで骸骨のようになっていた。
「私もみんなみたいに正気を失えれば、こんな苦しい気持ちにならずにいられるのかな…。」
ここに来た時は十人以上いたはずの村人も、いつの間にか半数以下になっていた。無作為に連れていかれては、何かの液体を体に注入され戻って来る繰り返し。老人と子供は一回から二回で戻って来なくなり、大人も三回で正気を失い、五回以上行ったものはいない…私を除いて。
どういうわけか私は正気を失わないし、五回以上打たれてもギリギリ何とか生きている。
しかし体の弱り方を見れば、あと一回か二回、あの液体を打たれれば確実に死ぬのは明白だ。
「このまま死んだほうが楽なのかな…。」
そんな独り言を呟きながら、隣の房で床に頭を擦りつけ続ける村人を無気力に眺めていた。すると突然牢屋の扉が開き、黒い作業服を着た男たちに両腕を抱えられる。そして抵抗することなくズルズルと注射を打つ部屋、もとい処刑場へと運び出されるニコ。
(あの時と同じ、最悪はいつも突然にやって来る。…いや、私は死んでもいいと思ってるから最悪って訳でもない…か)
そこまで考えたところで不意に胸の内から、悲しさと可笑しさの入り混じった、感じた事のない感情が込み上がる。
「ハハ…ハハハハハッ!アハハハハハハハハハハハッ!」
久しぶりに発する笑い声、しかしそれは到底楽しげと言えるものではなく、彼女の中に眠っていた狂気が解き放たれた産声に他ならなかった。
「静かにしろっ!」
右側で私の腕を抱えていた男が怒鳴り声をあげ、今なお笑い続けている私の頬を強く殴りつける。
ゴッ!という衝撃と共に脳天が揺れるのを感じ、私は気を失った。
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気を失ったニコは、いつの間にか大きな暗い湖の真ん中に浮かんでいた。空には満天の星空が浮かび、時折流れ星が通り過ぎていく。懐かしい故郷の星空だ。
(あぁ、これ死んだのかな?それとも夢?まあ、どっちでもいいか…。)
そう思った途端、ニコの体は暗い水の中へと吸い込まれるように沈みだした。このまま行けば間違いなく死ぬだろうと直感が告げていたが、このまま生き続けることに意味を見失ったニコにとっては些末な事だった。
そうしてゆっくりと沈んでいると、不意に誰かの話し声が耳に聞こえてきた。それは柔らかい口調の女性の声だった。
「薔薇色の赤毛に琥珀色の目、ニコはホントに可愛いなぁ。」
(懐かしい声、テリスの声だ。彼女を最後に見たのは…そうだ彼女の結婚式だ。)
「こんなのただ悪目立ちするだけよ。いいテリス?私はフツーが良いの。」
(昔から嫌いだった赤い髪色も、今じゃ愛しく思えるなぁ。)
「目立つからいいんじゃない!ニコはまだまだお子様ね?フフッ」
「なによそれ、チョーむかつく…」
(ほんとムカつく、なんで今さら…こんなの見せられたら…)
ニコは沈む意識の中で親友との何気ない日常を見せられた事で、一度は手放そうとした生への執着に再び火がともる。それと同時に沈んでいた意識が急速に浮上を始める。
(そうだ、もう一度テリスに会うまで私は死ねない、死ぬわけにはいかない!)
湖の水面から勢いよく飛び出すと同時に、覚醒したニコの琥珀色の瞳に何かが宿った。