第1部・33
奈々はがっくりと膝を折ってしゃがみ込んだ。今までの慎の冷たくて辛辣な言葉、そして今の暖かくて悲しげな声の両方が蘇った。
二つの言葉が奈々の心をかき乱し、混乱した。慎が倒れた時のあの表情、あの言葉。間違いなくレデストワールドに来る前の兄だった。
時間が止まったかのようだった。奈々も鏡も慎も、動ける人は一人もいない。
意味がわからない。「ごめん。」って何?今まであれだけの人を傷つけておきながら、奈々を裏切って銃をつきつけておきながら今更謝るなんてどういうつもりだろう。
苛立ちは消えるどころか更に強くなる。だが、憎みきれなかった。…あの言葉がまた蘇る。優しい声。
立ち上がることも声をあげることもできない。自分だけは今動けるはずなのに。その言葉が奈々を縛り付けるかのようだった。
唇が震えた。動けなかったが、動かずにはいられなかった。
ようやく足を引きずり、慎の側まで行くと、震える声で言った。
「…どう…して?…なんで…なんで今更そんなこと言うの?」
慎は答えなかった。もう目をつぶっている。腕もだらりと下がって動かない。一秒一秒経つごとに体が冷たくなっていくのがわかった。
目から涙がこぼれた。何故だかわからない。もう許さないと決めた相手なのに。
その時、慎の向こうから物音が聞こえた。
奈々はすぐにそちらへ駆け出した。足の痛みなんて気にならなかった。鏡が今少しだけ動いたのだ。
生きているかもしれない。手を握るとまだ暖かかった。すると瞼が少しだけ動いた。
奈々の表情が明るくなる。また少し瞼が動いたかと思うと、ゆっくりと鏡が目を開けた。
奈々はほっとして声をかけた。
「鏡!よかった…よかった…!」
「奈々……痛っ!」
傷口を抑えて鏡がうずくまる。生きて板とはいえいえ、傷は決して浅くはない。
肩、脚、腕、計三箇所から血が流れ出していた。最初、奈々は何の疑いも持たずに鏡の治療をし始めようとした。だが、ふと気づいた。
肩も脚も腕も打ち抜いて一発で相手を殺せる箇所ではない。どうして慎はそんな所を打ち抜いたのか。
鏡の生存に安心して少し冷静さを取り戻した時に気づいた。ぞわりとした感覚が襲ってきた。何か重大な過ちに気づいたような気がした。
その時、鏡が呟いた。
「くそ…しっかり急所は外してやがる…。」
奈々の手が止まった。鏡も同じことを思ったらしかった。
認めたくなくて目を逸らそうとした。けれど、無視できない考えだった。
慎はわざと急所を外したのでは?
また手が動かなくなった。その時、鏡が何か思い出したように急に奈々に言った。
「そうだ、お前の兄貴は?川崎慎はどうなった!?」
奈々は急に喉に何かつまったかのように何も言えなくなった。言えるわけなかった。奈々が殺したなんて。
表情が暗くなり俯く。恐怖のような、よくわからない感情。殺したのは自分なのに。
それを見た鏡の表情が青くなった。何があったのかは察したようだった。
「まさか…殺したのか?」
心臓を打ち抜かれたような気分だった。しばらくの沈黙の後、奈々は震えながら頷いた。
鏡の目が絶望に変わるのがわかった。奈々はそれが何より悲しかった。
唇が震えた。自分が何をしたのか、今になってやっと自覚しだした。自分は兄を人からモノに変えた。
ずっとずっと、自分の面倒を見てきてくれた兄を。急に目から涙がこぼれ落ちた。怖くて仕方がなかった。
震える声で奈々が言った。
「あいつが鏡を撃った時…カッとなって思わず……でもあいつ…防がなかったの…銃を向けてきたのに…撃たなかった…
そしたらあっけなく…なんで…なんで…?」
鏡はその様子を見て無理して笑った。無理しているのがバレバレなのが鏡らしかった。
そして、奈々の頭を少し撫でると哀しげに言った。
「それが…あの人の優しさだったんだよ。」
思いがけない言葉だった。だが心のどこかで本当はそうなのではと疑っていたような気もする。
倒れた時のあの目は嘘じゃなかった。
なぜか腹立たしくて、認めたくなくて思わず怒鳴った。
「でも、あいつは私を殺そうとした!竹内君を使って私を騙そうともした!
優しさ!?どこが!?なんでそんなこと…」
「落ち着けよ…」
「だって…!」
「落ち着け!」
震え上がるような迫力の怒鳴り声だった。奈々は冷たい水でもかけられたように大人しくなった。
それを見てようやく鏡はまた優しい表情に戻った。冷静さを取り戻した奈々は俯く。
なぜだろう。涙が止まらない。
「お前は勘違いをたくさんしてる。まず霧也は川崎慎の手先なんかじゃない。」
奈々は驚いて顔を上げる。信じられなかった。そうじゃなかったら奈々に銃を向ける訳がない。
「でも竹内君は私に銃を…それに、明らかに五月原栄恋の味方をした。」
「後ろから物音がしただけで奈々かどうかなんてわかるか?この世界じゃ誰でも物音がしたら警戒するだろ。
それにあいつは五月原栄恋が心配だったから俺達についてきたんだ。そいつに危険が迫っていたら思わず庇ったって不思議じゃない。
霧也は…川崎慎に利用されたんだ。」
奈々は鏡の目を見つめた。強い確信と悲しさが入り混じった目だった。
戸惑いながら奈々は言う。
「でも、何でそんなこと…」
わからなかった。奈々には慎がそうしなければいけない理由が思いつかなかった。
だが、鏡はピタリと正解を言い当てた。訴えかけるように奈々から目をそらさなかった。
「お前を生き残らせるためだよ!
霧也を利用しただけじゃない…あいつは五月原栄恋にわざと撃たれるように指示してた。
よく考えてみろよ、あいつがお前を殺せるタイミングはいくらでもあったはずだ。
そもそも、本気であいつがお前を殺す気なら、あの花畑でお前に会った瞬間に撃ち殺してたはずだろ?
でも殺さなかった…全部お前があいつを憎むように仕向けるためだったんだよ!そうすれば…あいつは敵だってお前思うだろ?もう優しい兄ちゃんじゃないってそう思っただろ?
違ったんだよ…。」
ぽたりと涙がこぼれ落ちた。一粒、また一粒と。落ちては白いタイルを濡らしていく。
声もあげず、拭うこともせず、ただ涙が落ちていく。真っ赤な世界が今なら真っ白に見える気がした。
なんて馬鹿だったんだろう。どうして気づかなかったんだろう。優しさが無い?もう昔のお兄ちゃんじゃない?一体どこが?
倒れているあの人はこんなにも優しかったのに。『メドゥーサ』の代償なんかじゃ消し尽くせないくらい、優しい人だったのに。
また涙が溢れ出す。両手で目を覆って止めようとしても止めきれない。タイルが次々濡れていく。
敵だと思いこんでいた。裏切り者だと思いこんでいた。
この世界は冷たくて恐ろしい世界。だから誰も信用できないといつしか思いこんでいた。
「お兄ちゃん…みんな……ごめん…ごめ…ん……ありがとう…!」
声にならない声で言う。涙が言葉さえ邪魔する。
なんて愚かだったんだろう。奈々の周りの人々はみんなこんなに優しい人ばかりだったのに。
後悔と悲しみが溢れ出した。裏切り者なんて一人もいなかったのに。
…けれどみんな死んでしまった。これじゃまるで…
その時、女の人のとても澄んだ声がした。
「まるで貴女が裏切ったみたいね?」
その時だった。急に鏡の顔色が悪くなり苦しそうにうずくまった。
真っ青な顔で咳込み始める。奈々は慌てて声をかけた。
「鏡!どうしたの、鏡!?」
返事がない。ますます苦しそうに口に手を当てて咳き込むだけ。
異常だ、何かおかしい。先ほどの怪我のせいならまだしも急に返事もできないくらいに体調が悪くなるなんて。
次の瞬間、奈々は息が詰まったように声が出なくなった。突然鏡が倒れた。
何度も声をかけたが返事はない。目を開けたまま動かない。唇の周りと、咳き込んだ時にあてていた手に異常な量の血がついている。
その時奈々はやっと思い出した。このゲームのルールを。
『魔王』、あるいは『主人公』を殺した人以外の参加者は皆殺しだと。
「鏡ッ!鏡!いやああああああああああああああああ!」
喉が枯れるくらいの勢いで叫ぶが返事はない。揺さぶっても瞼一つ動かない。
見てすぐもうわかった。これはもうモノだと。生きた人ではないと。
でも叫ばずには揺さぶらずにはいられなかった。
手放したくなかった。けれどそんな意志と無関係に手も体もどんど冷たくなっていく。
目の前が再び真っ暗になる。もう涙は枯れ果てて出なかった。
その時、また綺麗な声がした。
「お疲れ様、『主人公』さん。ゲームクリアおめでとう。」
その声と同時に不吉なカラスの声が響き渡った。普通のカラスよりも何十倍も大きな声。
奈々はまだ泣きじゃくりながら振り返る。窓の向こうには紅い空。
巨大なカラスのケモノが紅い月の前を通り過ぎて飛んでいくのが見える。
そして、そんな景色を背景にして一人の女性が立っていた。
髪の毛は白、青、紫の順にグラデーションさせたような奇妙な色。
目は青と紫のオッドアイ。気味が悪いくらい美しい女性だった。
「ごめんなさい、ロゼットが少しやりすぎたみたい。」
優しげに微笑みながらその人は言った。
奈々は尋ねた。
「…貴女は誰?」
どこか冷たくて恐ろしかった。
その人は人差し指を口の前で立てて、内緒話でもするかのように言った。
「はじめまして、私は永遠。
こんにちは、主人公さん。」