第1部・29
砂煙が舞い上がる。石が砕け散る音がした。そして、沈黙が訪れた。
長く苦しく、音一つしない。誰もいないかのようだった。
そして、砂煙が晴れた。
「…勝負あったね。」
霧也はようやく口を開いた。地面に倒れ込んだままの栄恋に銃を向ける。
栄恋が投げた手榴弾は銃弾で弾き飛ばされ、壁を砕き飛ばしていた。
ナイフとメモ帳は栄恋の手の届かない所に落ちてしまっていた。
栄恋はすぐにナイフへ手を伸ばす。だが容赦なく霧也は引き金を引いた。
銃声が響き、栄恋の顔が苦しそうに歪む。栄恋の脚に穴が空き、そこから血が流れ出した。
すぐにもう一発…そんなことはできなかった。
本当は今すぐ銃を捨ててしまいたかった。けれどそれは許されない。
自分で決めたことだ、破るつもりはなかった。痛む心を必死でこらえ、霧也は銃を突きつけ続ける。
「…ごめん、何もできなくて。
苦しくて、辛くて…そんな時の栄恋を僕は痛いくらい…知っていたのに。」
震える声で霧也は言った。
声だけじゃない。足が震える。手が震える。指が震える。
落ち着こうとすればするほど、元の世界の栄恋のことを思い出す。
空耳が消えない。栄恋の歌声が今も聞こえる気がした。けれど退けない。震えながらも両手で狙いを定める。
栄恋の蒼い眼はずっと霧也の眼を見ていた。真っ直ぐで綺麗で怖かった。
引き金を引けば、その眼が紅に染まると思うと余計に。
「…さよなら、栄恋。」
あくまで平然を装ったつもりだった。けれどきっと無理だったのだろう。
ため息をついた後、栄恋の唇が動いた。
『…泣きそうな顔。やっぱ臆病ね、情けないモヤシ。』
仕方ないだろ。言い返してやりたかったが声が出ない。声に出したら、もう銃を向けられない気がした。
代わりに頬を何かが伝って落ちるのがわかった。落ちた水滴は思いの外温かかった。
迷いと悲しみをかき消すように引き金に指をかける。銃口を栄恋の額に向けた。
その時だった。栄恋の唇が動いた。
『……ごめんなさい。けど、もう戻れないの。』
栄恋がナイフを掴んだ。
同時に引き金が引かれた。
十分、二十分…もっと経ったような気がしていた。華奢な体はあっけなく地面へ叩きつけられた。
地面に横たわる栄恋の『遺体』。壊れた人形のように、もう瞼を閉じて動かない。もう二度と動かない。
額の潰れた部分からまだ温かい血が次々流れ出て白い顔を覆っていく。
あれほど迷ったのに終わる時は一瞬。
けれどあの銃声の余韻はいつまで経っても消えなかった。
霧也はその場を動けなかった。銃を下ろすことさえしなかった。
下ろしてしまったら、栄恋の死を認めてしまうようで怖かった。
時間が止まったかのような静寂の中、ついに霧也は銃を下ろした。そして血で穢れた栄恋を見下ろす。
またひとつ、涙がこぼれた。そしてまたひとつ、次々と。
抑えられるわけがない。涙で目の前が見えなかった。
震えて、かすれて、よく聞こえない声で呟いた。
「どうして…どうして…こんな結末になったんだろう。
……馬鹿…馬鹿だよ…お前も、……僕も…」
途端に、ぐらりとバランスを崩して倒れ込んだ。
力が入らない。もう手も足も動かない。霧也は二本目のナイフが自分の腹に刺さっているのを見た。
とめどなく血が流れ出る。撃つのが一歩遅かったのだろう。
やっぱり甘かったな、ぼんやりと霧也は思った。
紅が増える度に、手足、そして自分の意識の感覚が薄れていくのがわかる。天井を見つめたままぼんやりと時間だけが流れる。
ああ、そうか、死ぬのか。他人事のように心の中で呟いた。
不思議と悲しくなかった。ただ、少しだけ怖い。
薄れていく意識の中、思い出したのは鏡と奈々のことだった。
最後に呟いた。
「……ごめん…約束……守れなくて。」
三人でこの世界を抜け出そう。必ず。
もう一度、こだましてなくなっていく。
そして、目の前の光景と感覚は静かに消えていった。
◇ ◇ ◇
階段を登る音だけが響く。息を切らしながらただ登る。
石造りの階段の終わりは見えない。それでも登るしかなかった。何かにせき立てられるように鏡は進んでいく。
鏡は納得がいかなかった。どうして慎と栄恋は奈々に霧也が裏切り者だと思わせようとしたのだろう。
奈々をおびき出したかったのだろうか。鏡は舌打ちした。
どこまでも非情だ。奈々を容赦なく殺そうとし、霧也に濡れ衣を着せ、栄恋に撃たれて死ねと要求した。
眉間にしわがよる。ふつふつと怒りが湧き上がってきた。だが、同時に強い悲しみも湧き上がってきた。
「くそっ……畜生!」
鏡はそう怒鳴ると急に立ち止まってしまった。俯いてうなだれる。情けなくて吐き気がしそうだ。
どうしてこんなことになったのだろう。この世界に初めて来た時の洸の台詞を思い出した。
「残念ですが、逃げることはできませんよ。」……あの時殴りかかった自分はなんて幼稚だったのだろう。
どうしてこんな世界に来てしまったのだろう。
どうしてこんなことになったのだろう。
どうして慎は変わってしまったのだろう。
どうして……
「畜生ッ…!…どいつもこいつも…狂ってやがる…!
なんで…なんでこんなゲームに…なんで乗っちまうんだよ…!」
怒鳴った。喉が枯れそうなくらいの精いっぱいの怒鳴り声だった。
少し響いてまた静寂が。泣いても喚いても状況は変わらない。
そんなこと知っている。それでも辛い。それでも怒鳴りたい。それでも諦めきれなかった。
自分が生き残るためにこのゲームに乗り、奈々を殺そうとする慎の気持ちは鏡にはわからなかった。
何もできない鏡がこんなにも奈々を守りたいと思っているというのに、奈々の力になれる慎がどうしてそれをしないのだろう。
そんなにも生き残りたいのか。川崎慎はそんなに浅ましい人物だったのか。生き残ることが慎の願いだったのだろうか。
そんな時、鏡は栄恋の言葉を思い出した。
『慎は私にお願いしたの。…とっても残酷なお願い。』
…慎が栄恋にしたお願い。それは何だろう。
撃たれて死ねと言ったことだろうか。だが栄恋を撃ったところで何の意味があるだろう。
鏡が奈々を守りたいように栄恋は慎を守りたいはずだ。
なら、味方となってくれる栄恋を撃つことは慎にとって損のはずだ。
慎は栄恋に何を頼んだのだろう。慎の目的は本当に生き延びることなのか。鏡は首を振った。
鏡に慎のことなんて慎の考えることなんてわかるはずがない。
なら、栄恋のことはどうだろう。考えろ。考えろ。絶対にわかるはずだ。
「まさか…!」
鏡は思わず駆け出した。今までよりもずっと速く階段を登っていく。
先ほどよりもずっと焦っていた。疲れも悲しみも忘れてただ駆け上がる。
もしかしたら、奈々はずっと騙されていたのではないだろうか。栄恋が霧也にメールを送るよりもずっとずっと前から。
奈々だけではない、鏡も、霧也も、そして栄恋も。
騙していたことを慎は栄恋に明かしたのでは?
そして鏡の予想が当たっているとすると、明るい結末は待っていそうにない。
急げ。鏡はさらに速く駆け上がる。
「畜生…そんなこと…させてたまるかよ!」
最後の舞台を、物語の結末を、鏡は目指して駆け上がっていった。物語の真の結末をまだ知らないままで。