第1部・27
奈々とは小学生の頃からの友人だった。奈々の母親と鏡の母親の仲が良かったせいで、必然的に話す機会も多かったのだ。
昔の奈々は今よりももっと活発な子だった気がする。どちらかというとお転婆な方で、下手すると鏡よりもよく叱られていた。
…父親が失踪するまでは。
傍から見ているとそんなにわからないことだったかもしれない。けれど話してみるとわかる。以前よりも声に感情の起伏がなくなっていた。
中学や高校から奈々と知り合った人は、単に大人しいだけだと思ったみたいだったが、鏡はそうではないことを知っていた。やはり辛かったのだろう。壊れていく家族を見ることは。
鏡はずっと何か奈々の力になりたいと思っていた。どん底の奈々を少しでもいいから引き上げる力になりたいと思っていた。
けれど駄目だった。所詮他人の鏡がよその家の問題を丸ごと解決なんてできるわけがない。
その時の奈々の様子から、日に日に状況が悪化していることはすぐにわかった。
ずっと力になりたかった。けれどできなかった。自分の無力さに腹が立つ。
ずっとずっとそう思ってきたのに、また何もできていない。
「くそ…ダメだな、俺…。」
そう呟きながら階段を駆け上がる。とにかく奈々が心配だった。あの子はきっとみんなが思っているよりずっと脆いから。
母親が自殺した直後の奈々なんてとても見れたものではなかった。人間不信に陥っていて、鏡のことまで拒絶した。敵を見るような目で鏡を睨みつけて言っていた。
『どうせあんたも裏切るんでしょ。』と。
そう考えると、今の奈々は大分落ち着いた方だ。そして、奈々が落ち着いた一番の理由は慎だった。
鏡にできなかったことを慎は全てできていた。どう足掻いても当時の奈々を鏡は笑わせられなかったのに慎はいとも容易くやってのける。
鏡はずっと慎がうらやましかった。
「頂上…もうすぐだな…。」
鏡は必死で階段を登る。微かに光が見えた。
慎はずっと奈々を支えてきた優しいお兄さんだった。だからこそ確かめたい。どうして慎が変わってしまったのか。
メドゥーサの能力のせい?…いや、その割に慎はあまりあの能力を使ってこない気がする。どちらかというと銃で攻撃する方が多い。
この世界の残酷さに失望したから?…それでも、唯一の肉親にあんなに迷いなく銃を向けられるものだろうか。
どうしてかわからない。だから確かめたい。鏡は冷たい石の階段を駆ける。そして頂上の光見えた。
そして見えた光景は鏡の想像を絶するものだった。
そこはまた石造りの広めな部屋だった。赤茶けた何かで床が汚れているのが気になり、部屋の中央に目を向ける。
そこには血で汚れて横たわる栄恋の姿が。そしてその隣には鏡がよく知る友人とそっくりな石像があった。
「霧也!」
鏡は霧也の石像に駆け寄った。まるで生きているかのような表情の石像だった。どう見ても霧也だ。
そして、こんなことをできる人物は一人しかいない。川崎慎しか。
鏡は自分の後ろ側を見る。そこにいるのは血まみれの歌姫。雪のような白い肌に鮮やかな赤が散っていた。
閉ざされた瞼は全く開かない。冷たい石の霧也と血まみれの栄恋。
何が起こったのかわからない。だが一つだけわかることがあった。
…この分だと、奈々の身も本当に危ないかもしれない。奈々はここを通っただろうか。慎は何をしたのだろうか。
知っているのはこの二人だけ。鏡は栄恋の方へ行った。まだ死んでいるとは限らない。
手をとり、脈を確認する。手も血もまだ温かい。事が起こってからまだ間もないらしかった。
「生きてる…!」
まだ脈があった。鏡は安心した。たとえ敵だとしても人が死ぬのを見たくはないから。
鏡は栄恋の背中を揺さぶった。
「おいお前、起きろ起きろ!」
しばらくして、栄恋の瞼が微かに動いた。鏡は揺さぶるのを止めた。指先も少しだけ動いた。
そして瞼が開き、栄恋が目を覚ました。
栄恋は肩を庇いながらゆっくり起き上がる。だがやはり傷は深いし痛そうだった。
「大丈夫か?」
その時に栄恋は初めて鏡と目が合った。途端に鏡は栄恋に右手で殴られた。
「痛ぇよ怪力女!」
栄恋は鏡を睨みつけて口をパクパク動かすが声は出ない。右手でメモ帳を探すが見つからないようだった。
鏡は自分の足元にメモ帳があることに気づいた。栄恋が気絶した騒ぎの時に落としたのだろうか。
鏡はメモ帳を拾って栄恋に渡した。
「一体何があったんだ?」
だが栄恋は頑なに答えようとしなかった。どうしようもなく途方にくれそうになっていた時だった。
後ろから物音が聞こえた。鏡が振り返ると霧也の石像の様子が先ほどと違った。
パキパキと音をたてていた。すると足の先から石だった部分がもとの人間に戻り始めた。
そして頭まで元に戻ると、霧也はつらそうにしゃがみこんだ。
「おい、大丈夫か!」
「鏡…?大丈夫、怪我はないから。」
鏡は霧也がどうして元に戻れたのかわからなかった。特別なことは何もしていないのだけれど。
霧也に特に異常もない。鏡は栄恋を見た。
『別に『メドゥーサ』の力で石になったら永久に石のままなんて言ってない。
一定時間で元に戻る。それだけ。』
鏡はホッとしてため息をついた。そしてすぐに霧也に聞いた。
「何があったんだ?」
「川崎さんのお兄さんが栄恋を撃ったんだ。それで俺も『メドゥーサ』の能力で…」
「そもそもどうしてこんなとこに来たんだよ?」
「……。」
霧也はすぐには答えなかった。
鏡は首を傾げた。すると疑いのない目を向ける鏡を見て霧也が言った。
「栄恋がメールで話があるからここに来てくれって言ってきたんだ。」
「それで俺たちに黙って来たのか?」
「ごめん…。『慎に脅されているから助けて。』って言われたから…」
鏡はため息をついた。こいつ、鏡のことなんて言えないと思う。
「前から思ってたけど、お前…あのアイドルにベタ惚れだよな…。
それで、奈々はどこに居るんだ?」
その時だった。鏡の首筋に冷たい物が当てられた。
見なくてもわかる。栄恋が後ろでナイフの刃を鏡の首筋にあてている。
まるで『行かせない。』と言っているようだった。
殺す気だ。鏡は思った。上を見る。栄恋の蒼い目が鏡を見下ろしていた。
左肩からは未だに血が流れていたが右手には鋭いナイフが。
逃げようとした途端、栄恋が膝で鏡を抑えつけた。そして一瞬だけ栄恋が不気味に笑った。
栄恋がナイフを鏡の目を目掛けて突き落とそうした時だった。
発砲音が響き、栄恋のナイフが弾かれた。
地面に落ちる硬い音が響く。鏡は急いでその場を離れた。
「助かったよ、霧也。」
霧也の銃からは白い煙が出ていた。
霧也は複雑そうに銃を下ろして栄恋に言った。
「栄恋、どうして今更こんなことをするんだ?
君は川崎慎に裏切られたのに…」
だが栄恋は睨むのを止めなかった。
そしてメモ帳に書いたことは鏡も霧也も全く予想していなかった言葉だった。
『裏切られた?何のこと。全て予定通りだけど。』
「栄恋を撃つことが予定通りだったって言うのか…?」
『そういうこと。慎も甘いけど。撃たれて死んでくれって言ってたのに結局わざと急所を外すなんて。
慎は私に願い事してくれたの。とっても酷いお願い。でも慎のためなら私は協力する。』
「…ひょっとして、僕を呼び出したのは…川崎さんに僕が裏切り者だと勘違いさせるため?」
「どういうことだよ?」
鏡が霧也に聞く。霧也はチラリと鏡を見た後に銃を再び握り直した。
「鏡、川崎さんを追って。ここは僕がくい止めるから。」
「おい!」
「ごめん…僕がここで話をしてる途中に誰かが階段を登ってくる音が聞こえて…。
川崎慎だと思いこんで反射的に銃を撃った。…そしたら川崎さんの方だったんだ。
そのせいで川崎さんは僕が裏切り者…川崎慎側の人間だと思ってる…。
川崎さんに会ったら謝っといて。僕は裏切ってなんかいない。
…裏切ったと思われてもおかしくない行動をとったことは謝るよ。」
鏡は黙り込んで霧也を見る。
霧也が嘘をついているとは思えなかった。それに、奈々の方が勘違いをしていることは十分ありえる。
奈々は少しだけ人間不信気味なところがあるから。
「…信用していいんだな?」
「うん。」
「五月原栄恋が相手でも、食い止められるんだな。」
「……うん。」
霧也は辛そうに呟くと銃を上げた。霧也の幼なじみ、そして誰よりも好きな人である五月原栄恋に。
一人で霧也を置いていくことは勿論不安だった。けれどここで行かなければ霧也の思いが無駄になることもわかっていた。
鏡はついに言った。
「…わかった。証明してみせろ、お前が俺たちの味方だって。」
「…了解。」
鏡は部屋の反対側の螺旋階段へ駆けだした。
同時に後ろから銃声と爆発音が聞こえた。
振り返りたい思いを振り切って、鏡は階段を登りだした。