第1部・26
駆ける駆ける。耳に入るのは風を切る音だけ。
身を隠しながら進むことも忘れて、堂々と走り抜ける。
鏡が目指すのはただ一つ。遠くにそびえ立つ廃墟の城。
そこが奈々のいる場所。
城の前に広がる庭園。そこは紅の世界を引き立たせる場所であり、城への侵入者を拒む城壁でもある。
城を守るかのようにこちらを睨むケモノ達。
その目は間違いなく獲物を見る目だった。
だが鏡も退くわけにはいかない。
竹刀を刀に変え、構える。
「来いよ、化け物共…!」
鏡がそう言った途端、一体のケモノが鏡目掛けて飛びかかった。
鏡はそれをうまく避けて後ろに回り込む。そして鏡は刀でケモノの足を斬りつけた。
ケモノは力が抜けたように地面にへばりついた。
立ち上がれないようだが死んでもいない。けれど、それでよかった。
何も殺さない。それこそが鏡の信念なのだから。
残りのケモノが鏡に襲いかかる。
鏡は深呼吸をした。いくつもの牙が鏡に迫る。
だが鏡はそれを全て避けきった。
昔から剣道をやっていた。だからもう判っている。
どう避ければいいか、どう攻撃に持ち込むか。
ケモノ相手だと多少感覚は違うがそれは僅かな差でしかない。
鏡はケモノの攻撃を避けては回り込んで足を斬りつける。
大抵のケモノはこれで攻撃してこなくなった。
鏡はケモノたちを避けては斬りつけつつ城へと向かう。
そしてようやく城門へとたどり着いた。そびえ立つ城門は堅く冷たい。
鏡はゆっくりと門を押して中へ足を踏み入れた。
中は薄暗く、鎧兵士が立ち並んでいて気味が悪かった。
硬い石造りの廊下を一歩一歩進んでいった。
傷や汚れでまみれた白い壁。割れたシャンデリア。
寂れていなければきっととても可愛らしい城だったのだろう。
まるで童話のお城かすたれてしまったかのようだった。
鏡は刀を持つ手を少しも緩めず、警戒しながら先に進む。
その時、遠くから一筋の光が見えてきた。
たどり着いたのは広間らしき場所だった。
ステンドグラスから射し込む光が美しい。
鏡はぐるっと一周して辺りを見回す。
「くそっ…どっち行けばいいかわからねぇ…」
広間からは何本もの道が四方八方に伸びていた。
間違えた道を選びたくはない。今危険かもしれない奈々を救うには一刻も早くたどり着かなければならない。
鏡はもう一度辺りを見回す。やはりどれが正しいのかわからない。
鏡は舌打ちする。急げと心が叫ぶのに動けない。それがどんなに辛いことか。
とりあえず適当に進むわけにもいかない。
道に迷っている時間はないのだから。
どうにかしてわかれば。誰か教えてくれればいいのに。
そう思った時だった。
『教えてあげましょうか?』
鏡はすぐさま後ろを向いた。けれどそこには誰もいない。
確かに誰かの声が聞こえたはずなのに。
不気味な沈黙の中、鏡は動けなかった。
その時だった。再び声が聞こえた。
『立ち止まっている場合じゃないわよ、この豚が。』
鏡はその一言に少しカチンときた。
大広間中に聞こえる声で言った。
「おい、誰だ!出てこい!」
すると高笑いと共にその声が再び言う。
『アハハハ!どうしたのぉ、怒ったのぉ?
だって本当でしょお?
動かない奴は亀以下。学ばない奴は猿以下。
なら学ばなくて動かない奴は豚未満。文句があるならどうぞぉ?』
皮肉混じりの嘲り笑うような声が響く。
間違いなく女の高笑い。だがその姿はどこにもない。
実体のない誰かの声が嫌でも耳に入ってくる。
その声の話し方は、どこか先ほどの奇妙な髪色の少年を思い出させるところがあった。
その声は言った。
『哀れな豚の為に教えるわ。…右よ。』
「本当かよ?」
疑わしげに鏡は言う。
声はクスクス笑いながら答えた。
『ええ、あたくし無能な豚じゃないもの。』
鏡は辺りを見回し、居もしない声の主を探す。
信用できるわけがなかった。
するとまた高笑いが聞こえた。
『これは驚いたわ!本当に無能ねぇ!豚を越えて石以下かしらぁ!
道がわかったのにまだ動かないなんて。
愛しのあの子が惨殺死体になってもいいのぉ?』
クスクスという笑いが消えない。
まるで鏡をせきたてるように。
勘にさわる笑い声。腹が立った。
鏡はついに舌打ちした。
刀をしっかり握りしめて怒鳴る。
「ああくそっ!行きゃいいんだろ!」
鏡は迷わず右へと駆け出した。
入り込んだのは長い長い廊下。
終わりは遠すぎて見えない。
迷わず奥まで駆け抜ける。進めば進むほど辺りは薄暗くなる。
これで行き止まりだったら承知しないぞ、と鏡は半ばやけくそで走っていた。
その時、今まで闇でしかなかった突き当たりに何かが見えた。
それは上へと続く階段だった。石造りの階段。中は真っ暗で何も見えない。
鏡は少し迷ったが、すぐに階段を登りだした。
目指すは頂上。奈々のいる場所。
深く長い暗闇の階段に鏡は飛び込んでいった。
◇ ◇ ◇
ひっきりなしに響く銃声。息切れしつつも上へと駆け上がる。
螺旋階段の終わりはまだ見えない。
上から差し込む光に向かって伸びていく階段を奈々はただ登る。
慎の銃撃は止まない。時折メドゥーサの能力まで使ってくる。
そんなに奈々を殺したいのだろうか。自分が生き延びるためなら誰を殺しても構わないのだろうか。
どうしてそんな人になってしまったのだろう。
銃撃だけでなく、絶望感と悲しみも奈々を襲う。
黒く底のない感情が奈々を浸食する。
それでも奈々は必死に力を振り絞って走った。
奈々だって死にたくはないのだから。
走って走って、上を目指す。その先がどうか光であるようにと願いながら。
息切れしてきて、走る体力も無くなってきたその時、階段の終わりが見えた。
「そんな…」
奈々の目の前が真っ暗になったような気がした。
目の前にはだだっ広い部屋が一つあるだけ。障害物となりそうな置物などはあるが、逃げ道は一つもない。
運命の行き止まり。固く閉じた窓ガラスが嘲笑うかのように光る。
死ぬのか、こんなところで。たった一人孤独に。
お兄ちゃんはこんなことをして幸せなのだろうか。
霧也は奈々たちのことなどどうとも思っていなかったのだろうか。
栄恋は慎に裏切られてどう思っただろう。
そして、城の外に置いていった鏡は無事だろうか。
ケモノに見つかることもなく、今もアホ面で寝ているだろうか。
死を予感した奈々の中に様々な思いが駆け巡る。
悲しい、辛い、悔しい、許せない。…死にたくない。
だが慎の視線は揺るがない。銃を構え、こちらを見つめる。
引き金を引けば、あっという間に奈々は紅いモノになるのだろう。
一歩一歩慎が近づく音が響く。奈々は怯えて後ずさりするが、もう後ろには壁しかない。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。
どうすればいい?どうすれば生き延びられる?
もう話し合いも逃げることもできない。次々と塞がれる選択肢。
そして奈々が見つけた道は一つしかなかった。
「川崎慎…覚悟!」
奈々はチェーンソーの刃を向けて駆け出した。
銃声が立て続けに響く。
それを奈々はしゃがんでかわし、再び走り出し、慎を斬りつけた。
だが慎はそれを一歩下がってかわす。だが更に奈々が斬る。
それも慎はかわした。だが一瞬だけピッと微かに音がした。
「…やってくれたな。」
慎は言った。慎の頬から僅かだが血が出ていた。小さなかすり傷だった。
奈々は泣きそうな目で慎を見る。どうしてこんな選択をしなければならないのだろう。
どうしてこんな運命を辿らなければならないのだろう。
答えを出せないまま、奈々はまたチェーンソーを握り駆け出した。