第1部・14
「五月原…栄恋…!」
奈々は思わず後ろに後ずさりした。
けれどすぐに冷たい壁に背中が当たる。
奈々はビクリと震え上がった。
栄恋のナイフの輝きが目に入り、奈々は恐怖感に襲われた。
こんなとき、鏡と霧也がいてくれたらと奈々は思った。
だが栄恋は攻撃してくる様子はまるでなかった。
ただ両手にナイフを持ち、サファイアのような瞳で奈々を見つめている。
けれど奈々は警戒を解かない。
恐怖を感じながらもチェーンソーはしっかり握っていた。
奈々は栄恋に言った。
「…何の用?私を殺しにでも来たの?」
すると栄恋は静かに首を振った。
栄恋はメモ帳にこう書いて奈々に見せた。
『別に。ただ通りかかっただけ。』
奈々は疑わしげに栄恋を見た。
栄恋は無表情でこちらを見ていたので何を考えているのか全くわからない。
奈々はチェーンソーを支えにして、疲れた足になんとか力を入れて立ち上がった。
すると今度は栄恋の方から奈々に聞いた。
『貴女は慎が何を願っているか知ってる?』
栄恋はそう書いて寂しそうな、けれど必死な目で奈々を見た。
奈々は今の慎が何を願っているかなんてわからない。
あの冷たい目になってしまった慎の願い事とは何なのだろう。
栄恋はこんなことを奈々に聞いてどうする気なのだろう。
大体どうして慎はあんな冷たい目をするようになってしまったのだろう。
奈々は少し棘のある口調で言った。
「…今のお兄ちゃんが何を願っているかなんてわからないよ。
あんたの方がお兄ちゃんと一緒にいるんだから何か知ってるんじゃないの?
…前は優しかったのに。あんな冷たい目をする人じゃなかったのに。」
奈々はそう言って俯いた。
信じたくはなかった。けれど何度思い出してもあの時の慎の目は昔と違う。
奈々は顔を上げて目を鋭くして栄恋を睨みつけた。
「何でお兄ちゃんはあんなに冷たくなっちゃったの?
一緒に行動してるなら何か知ってるなずでしょ?」
奈々がそう言うと、栄恋は少し悲しそうに目をそらした。
奈々は栄恋が目をそらしてからも必死に栄恋の目を見て訴えかける。
すると、ついに栄恋はペンをとってメモ帳にこう書いた。
『シンの能力には代償がある。』
「代償?」
奈々が聞き返した。
栄恋は悲しそうに頷いた。
栄恋はメモ帳に事の詳細を書き始めた。
『シンの能力は『メドゥーサ』。
相手を石にする力。けど代償がある。
代償は、優しさ。
シンが冷たくなったのはそのせい。』
栄恋はそこまで書くとメモ帳を持ったまま悲しそうに俯いた。
奈々は言葉が出なかった。
能力の中には代償が必要なものもあるということはチケットに書いてあった説明を読んだので知ってはいたが、まさか慎がそうだったなんて。
生き残るために能力を使い、そのたびに優しさを失うというのは一体どんな気分だろう。
優しさを失っていく慎はもう奈々のことなどどうでもよくて、生き残るために奈々を殺すつもりなのだろうか。
奈々はがっくりとうなだれた。
何か原因となる過去でもあって、そのせいで変わってしまったとでもいうならまだよかった。
説得する手がないわけではなかったから。
けれど、優しさそのものが失われてしまったら、どうしようもないじゃないか。
「なんで…
どうしてこんなこと…」
奈々は絶望したようなか細い声でそうつぶやいた。
『シンが能力を使う度に冷たくなるのは、私も悲しい。』
栄恋は俯きながらそう書いた。
奈々はそれを見ると、ゆっくりと顔を上げて栄恋の顔を見た。
栄恋の澄んだブルーの瞳には一点の曇りもない。
慎の能力の話は奈々にとって相当ショックなことだった。
だが、もう一つ気になることがある。
奈々は栄恋に尋ねた。
「どうしてあなたはお兄ちゃんと一緒に行動しているの?
どうして冷たくされるとわかっているのにお兄ちゃんの願いを叶えてあげたいの?」
栄恋は表情一つ変えなかった。
それくらいに強く、曇りのない思いを感じた。
綺麗で一途で鋭い目だった。
そして、栄恋は迷うことなくこう書いた。
『シンは私の恩人だから。
シンがいなかったら私はもう死んでいる。二度と歌えなかったと思う。
この世界に来たおかげで私はまた歌えた。それはシンのおかげ。
だからシンに恩返しがしたい。何でもいいから役に立ちたい。
おいしいものが食べたいとか些細なことでもいい。
お金でも、家でも、地位でも、欲しいものがあれば何でもあげたい。
もしこの世界で生き残ることがシンの願いなら、私は『主人公』をとっつかまえてシンに突き出す。
私はシンのためなら何だってやるよ。
殺しでも、自殺でも。
もし私のことが目障りで、私が居なくなることがシンの願いだとするなら、私は笑ってこの喉を切り裂くから。』
奈々は言葉が出なかった。
あまりにも強い栄恋の思いに奈々は圧倒されて動けなかった。
異常とも思えるくらいの執着心だった。
栄恋が慎のために本気で命をかけていることは栄恋の目を見ればすぐわかる。
あんなに真っ直ぐで無垢で鋭い目をした人は他にいない。
奈々はしばらくぽかんと口を開けたまま何も言えなかったが、やがて再び奈々は尋ねた。
「どうして…」
そこまでできるのと聞こうとした時だった。
奈々の後頭部に冷たく固いものが当てられた。
奈々の背筋が震え上がる。
先ほども同じものを当てられたのでそれが銃口だということはすぐわかった。
これからどうしようということすら考えられなかった。
銃口を当ててきた相手が誰か、すぐわかってしまったから。
「よくまたのこのこと出てこれたものだな。」
冷たい声が奈々の心に突き刺さる。
それは間違いなく慎の声だった。
恐怖よりもショックで奈々は動けなかった。
あの慎が、優しかった兄が、今は奈々に銃口を向けている。
すると、慎が栄恋に言った。
「おしゃべりはほどほどにしておけ、栄恋。
余計なことをバラされると厄介だ。」
そう言われた栄恋は少し悲しそうにうつむいた。
そんな栄恋の様子を見た奈々は少しだけ慎に怒りを覚えた。
自分を慕ってくれる人に対してこんな仕打ちをするなんて。
慎がそんな風に変わってしまったことが奈々は悲しくて仕方がない。
「変わっちゃったの…?
もう前のお兄ちゃんじゃないの…?」
「黙れ。右手を出せ。」
奈々が再び何か言おうとすると慎は銃口をさらに強く奈々の頭に押し付けた。
奈々は仕方なく右手を上げた。
そこには間違いなく黒い剣の入れ墨が描かれていた。
「やっぱりな。」
慎は感情のこもってない声でそうつぶやいた。
奈々はぞわりとした恐怖をさらに強く感じた。
足がすくんで動けない。肩が小さく震えるのを感じた。
後ろにいる人がもう奈々には別人のように感じられた。
怖い。怖くて怖くてどうしようもない。
すると、栄恋がメモ帳にこう書いて慎に尋ねた。
『その子、どうするの?』
慎はすぐには答えなかった。
気まずくて緊迫した沈黙が流れる。
そして、慎は引き金に指をかけて言った。
「当たり前だ。殺すに決まってるだろ。」
そう言うと同時に栄恋がメモ帳をしまい、二本のナイフを取り出した。
奈々の心臓が早鐘のように鳴り始めた。
殺される。
そう思った。