第1部・13
「うそ…嘘でしょ…
そんな…」
奈々は思わずそう言った。
だが霧也の表情は変わらなかった。
奈々は悲しくてうつむいた。
どうしてこの世界はこんなに残酷なのだろう。
奈々にとって慎は兄であり、命の恩人であり、唯一の肉親だ。
その慎が『魔王』だなんて。
『魔王』がこの世界から抜け出すには『主人公』を殺し、この世界から抜けられるように頼むしかない。
『主人公』でも同じだ。そうなると『主人公』と『魔王』は否応なく殺し合わなければならない。
奈々はえぐるような心の痛みを感じた。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
どうしてこんな世界に来る羽目になってしまったのだろう。
どうしてこんな残酷なことをさせる人がいるのだろう。
どうして、よりによって奈々が『主人公』で慎が『魔王』なのだろう。
まるで何かの運命のようだった。何か魔女のような恐ろしい者の手で仕組まれたことのように感じた。
その時、鏡の表情が急に険しくなり、きょろきょろ辺りを見回しはじめた。
奈々が鏡に聞いた。
「どうしたの?」
「なあ…なんか音しねえか…?」
奈々は耳をすませた。
かすかにしか聞こえないがたしかにどこからか音がする。
何かの羽音のような音と何かはわからないが高い音が聞こえてくる。
ドクンと心臓の音が響くのがわかった。
場の空気が一気に緊張した。奈々はもうチェーンソーを手に握っていた。
音はどんどん近づいてくる。
羽音も大きくなってきて、先ほどまで何の音だかよくわからなかった高い音ももう何かの鳴き声だということがわかる。
鏡が刀を抜き、霧也も銃を握りしめた。
そして一瞬あらゆる音が消え、まるで時間が止まったかのように辺りが静まり返った。
その途端、霧也の表情が青ざめ、銃を下ろして叫んだ。
「逃げろ!」
霧也がそう叫ぶのと同時に、甲高い鳴き声と共にお化け屋敷の建物の一部が勢いよく砕け散り、そこらの建物よりも大きそうなくらいの巨大な鷲のような形のケモノが姿を現した。
三人ともお化け屋敷の裏側の路地を走り抜け、他のアトラクションへと続く細い道へと急いだ。
だが今回のケモノはそんなことでは懲りなかった。
ケモノは羽を広げると風のように奈々たちの頭の上を飛んで行き、あっという間に先回りされてしまった。
奈々たちは思わず立ち止まった。逃げ場を探したがここはとても狭い一本道なので戻る道なんて今来た道しかない。
だがここから戻ってもすぐ追いつかれてしまうだろう。
ケモノの目が光り、一瞬ニヤリと笑ったような気がした。
そして、ケモノは巨大な翼を広げて奈々たちに攻撃しようとしてきた。
「くそっ…しょうがねえな!」
真っ先に動いたのは意外にも鏡だった。鏡はケモノの羽をかわして後ろに回り込み、羽の付け根のあたりを勢いよく切った。
鼓膜が破裂するかと思うほどの悲痛な叫び声が辺りに響いた。
奈々の心がえぐれるように痛んだが今はそれどころではなかった。
ケモノは今の痛みで怒ったのか、鏡の方へ向きを変えた。
まずいと奈々は思った。相手が大きすぎる。鏡一人でかなうはずがない。
その時銃声が二発聞こえたと同時にケモノの後頭部二カ所から血が吹き出た。
奈々の隣にいたはずの霧也はもう遥か前の方で煙立つ銃を手に握っていた。
「一人狙いはよくないよ。おいで、デカ鳥さん。」
霧也は鋭くケモノを睨みつけながらそう言った。
だがケモノは二発の銃弾を食らったにもかかわらず全く怯む様子がなかった。
まだまだ元気そうだ。このままだと二人ともやられてしまう。
手伝わなくちゃと奈々は思った。だが同時に心の中から「また悲しい思いをするの?」と声が聞こえた。
奈々は一瞬迷った。奈々が腕を切りつけてしまった男性の青ざめた表情が頭に浮かんだ。
「けど…ここで私が何もしなかったら…」
奈々は顔を上げた。そしてチェーンソーのスイッチを入れて勢いよく走り出した。
何もしないで二人を見殺しにするほうがよっぽど悲しいと思った。
ケモノが羽を使ってまた攻撃をしかけてきた。
奈々は素早く体勢を低くしてその攻撃を避け、ケモノの首の後ろをチェーンソーで思い切り斬りつけた。
だがその途端予想外のことが起こった。
斬りつけられたケモノがもがくように勢いよく羽ばたきはじめた。
その時、羽が他の建物に当たり、建物の壁などが剥がれ落ち、奈々たちめがけて落ちてきはじめた。
鏡が急に青くなって叫んだ。
「やべっ!」
「嘘でしょ!?」
奈々は全速力で走り、落ちてくる瓦礫から逃げ始めた。
歩いてきた道を迷わず走っていく。
瓦礫はまるで狩りをする鳥のように奈々を狙って落ちてくるようだった。
一瞬でも止まればすぐさま瓦礫の下敷きになってしまうだろう。
崩れ落ちるような音のせいで何も聞こえない中、奈々は無我夢中で走りつづけた。
その時、紅の強い光が奈々の目に入ってきた。
もう少しで先ほどのお化け屋敷のところに戻れる。奈々は持てる力を振り絞って必死に走った。
光はどんどん強くなっていく。そしてついに奈々は明るくて鮮やかすぎる月の下に飛び出した。
不気味な赤い月の姿が見えた途端、奈々は思わず座り込んでしまった。
考えてみればもう相当な時間歩き続けていたんだ。奈々の足は疲れてしばらく力が入りそうになかった。
奈々は疲れてその場に座りこんだ。そして両端を見てようやくあることに気がついた。
「…やば…鏡たちいない…!」
奈々はその時ようやく鏡たちとはぐれてしまったことに気がついたのだった。
もと来た道の方を見ても誰もいない。ただ瓦礫が積み重なってあるだけだった。
別の方向に逃げたのかもしれない。まさか瓦礫につぶされたりしていないだろうか。
一気に顔が青ざめて一瞬安心した心がまた張り詰めはじめた。
不安が一気に押し寄せ、心細さで震え上がりそうだった。
その時、追い討ちをかけるようにまた何かの鳴き声が聞こえた。
狼のような低い鳴き声だった。奈々はビクリと震えた。
足がすくみ、立ち上がることもできない。
チェーンソーを握って戦う体力はもう残っていなかった。
なのにどうして、どうしてこうみんな残酷なのだろう。
目の前には鋭い牙を光らせた狼のようなケモノが二体、こちらを見つめていた。
二体はじりじりと奈々の方に近づいてきた。
奈々は壁にへばりついて震えることしかできない。
足にも手にも力が入らなかった。
だが容赦なくケモノたちは奈々に近づいてくる。
鏡たちの様子をもっと見ながら行動すればよかったと後悔したがもう遅い。
ここで死ぬしかないのだろうか。奈々は壁にへばりつきながらそんなことを思った時だった。
上の方からナイフが二本飛んできてケモノの背中に突き刺さった。
ケモノたちは痛々しげに叫びながらもがきはじめた。
そんなとき、すかさずもう4本ほどナイフが上から降ってきてケモノの周囲のあちこちに突き刺さった。
これにはさすがにケモノたちも危険を感じたのか怯えたように後ずさりすると二匹ともさっさとどこかに逃げてしまった。
「誰…?」
奈々は上を見上げながらそう尋ねた。尋ねてから後悔することも知らずに。
相手は答えなかった。一体だれがケモノを追い払ったのだろう。
奈々がナイフが飛び出したあたりを見つめ続けていると、奈々の背中にある建物の屋根から誰かが飛び降りてきて音もたてずに奈々の目の前に着地した。
飛び降りてきた人物を見て奈々は目を丸くした。
そして今鏡と霧也が居ないことを改めて悲しんだ。
美しくて長い金髪の髪の毛が風に揺れ、サファイアのような青い大きな瞳がこちらを見つめていた。
そして、その人物はメモ帳にこう書いて奈々に見せた。
『また会ったね、ナナさん。』
本当に運が悪いと奈々は思った。
目の前にいる五月原栄恋は両手にナイフを持ったまま、まっすぐ奈々の方を見つめていた。