第九話 ライバル。
「気を失ってるだけみたいですわね……本当、まったくもう」
私の膝の上で安らかに寝息を立てる兄の額を撫でる。むずがる様にむにゃむにゃと呟くのを見て、つい笑みが零れた。
特筆すべき程の特徴もない顔。印象に残らないような普通の顔。昔、私を助けてくれた、大好きなお兄ちゃんの顔。
「す、すまぬ撫子殿。つい力が入ってしまったようで……」
年ごろの少女らしい、可愛い声。隆々と盛り上がる筋肉と童顔気味の顔で、目の前の少女の年齢はようと知れない。
兄の顔を撫でるまま、彼女――レティシアを見詰める。
「構いませんわ。今はお兄さまが眠っている方が好都合ですもの。――折角です。女同士の話を、始めましょう?」
静かに、戦いの火蓋が切って落とされた。
ライバル
「では、まず。貴方、佐藤レティシアさん?」
先程の自己紹介では、レティシア・フォン・ムキムーキ、などとふざけた名前を名乗っていた。先制のジャブ。
「……ど、どうしてそれを」
「簡単です。私仕事柄、貴女のお母さんと何度もお会いしておりまして。折に触れて、何度も娘の――貴女の写真を拝見しましたの」
「……」
続いてボディブロー。
目の間、押し黙るレティシア。ふん、と鼻を鳴らし、転がっていた兄の手帳を引き寄せる。
中身に特に不審な所はない。強いて言えば、兄は大学には行っているのだろうか? 大学二回生とは言え、まだまだ必修の科目はあるはず。
「それに……写真を見る限り、貴女は普通の女の子だったはずですけれど?」
「……」
一週間の講義の項目と教室が書かれたページを見つける。赤のペンで事細かに注釈が入っていた。……出席なし。レポートのみ。出席のみ。
……どうやら、ほとんど講義に出ずとも単位を取る自信があるらしい。後で説教。
手帳を閉じ、視線を上げる。
「黙っていないで、何か言うことはありませんの? ……魔法だったかしら、そういうお話? 荒唐無稽、ですけど」
「魔法は……あるのだ。確かにそういう力は、ある。我には師匠もおる」
「証明することは?」
「今は出来ぬ……我はたった一つしか魔法を知らぬ。今、もしも魔法を解いたりしたら、我は主殿を守れない。蓄えた力が散ってしまう」
「……お話に、なりませんわね」
溜息を一つ。首を振る。
「お兄さまの出まかせかとも思いましたけど、あの話が真実だと? 貴女は、そんな不確かな理由で兄に迷惑をかけているんですの?」
知らず声が尖り、きつい調子になる。声に込められた叱責の念を感じたのか、レティシアは身を小さくした。項垂れ、肩をすぼめる。
「……本当、だ。信じてくれぬか。放っておけば主殿が……危険なのだ」
小さな子どもを相手しているような感覚だ。確証はなく、兄が危ないと言い、そして知らぬ内に見知らぬ女が兄の近くに居座っている。
……何て不愉快。
続けてレティシアは、師匠とやらから教わった、魔法について訥々と。
曰く、魔法は実在の力である。
ただし、炎を出したり宙を飛んだりする様な、御伽話の超常力ではない。
何故なら魔法とは、限られた人間が持つ、魔力を使用することで脳や細胞の働きや耐久性を活性化する力のことだからだ。
魔法は、時に傑出した才能として発現するのだ。普通の人間以上の知能。普通の人間以上の肉体として。
古くはキリストから、歴史に名を残すような天才は魔法の恩恵を得ていた可能性が高い。
魔法によって増幅・強化された能力はしかし、基本的に人間という種のスペックを越えることは出来ない。
魔法は、神様が人間に与えた奇跡の力。その者の最も強い願いを叶える為の力である。
――そんな風に語った。
一応、頭の隅にメモを取り、馬鹿げた少女を睨みつける。
「では、お兄さまが狙われる理由は?」
「主殿の体、それも筋繊維だ。……ふざけている訳ではないぞ! ちゃんと、理由があるのだ」
「……続けて」
レティシアは私の顔をじっと見つめ、兄の顔を見つめ……ポツリ、ポツリと語りだした。小さな部屋に、体に見合わない小さな声が満ちる。
「主殿の筋繊維は……極めて特殊なのだ」
「……」
「我のように、いや、我でなくとも、普通筋肉は大きくなれば成る程大きな力を発揮することが出来る。それは、一本一本の筋繊維が発揮出来る力が、限られているからだ。そして、筋肉が発揮できる力の上限を生理的限界という。しかし、そこまで行ってしまうと筋肉が耐えきれずに壊れてしまうので、それを抑える為に心理的限界というものがある」
「それで?」
「しかし、主殿の肉体は生理的限界が非常に高い。筋繊維の質が非常に良いからだ。つまり、常人の限界を越えて、細身のままでも凄い力持ちなのだ」
細身の力持ち。その言葉に思い出を刺激される。いつもは閉ざしている、記憶の扉の向こうから迫り上がってくるそれを無言のまま一時押しやり、疑問の言の葉を口にする。
「でも、お兄さまはあくまで普通の身体能力しか持っていないですわよ?」
「……この一ヶ月、それとなく探ってみたが、主殿は深層心理で『自分が普通だ』と強く強く思っている。その無意識が、心理的限界のもっと下にもう一つ無意識的限界というべきものを作りだし、常人と同レベルの力しか出せないよう抑圧しておるようだ」
「ふぅ……で、本来ならどの位の力を発揮できる筈だと? 車でもひっくり返せますの?」
前髪を弄り、揶揄するように放った言葉に思いがけず真剣な眼差しが返ってくる。
「正確には、分からない。我は魔法があるので、ウエイトリフティングなどの世界記録と並ぶか、超える位の力が出せるが、主殿なら……そうだな、おそらく、二tトラック位はひっくり返せるのではないかな……最も、そこまで全力を出せば、流石に体が壊れてしまうだろう」
「は!? 二t!?」
「んん……」
細く悲鳴の様に上げた声を、慌てて抑える。兄の顔を見た。大丈夫、まだ起きていない。
兄を起こさぬ様にか、心なしか、続くレティシアの言葉もより潜められた物になる。
「言葉にするとチープな感じだが、もし、こんな……一人で、二tもの重量を持ち上げる力が出せる人間が居るなら、軍隊なぞはこぞって欲しがるだろうな。もし、そんな力を手に入れる方法があるなら? 『人類の進化の為』だから、何をしてもやむなしとする者――解剖でもして、調べようとする輩がいるのではないかな」
はっ、と顔を上げる。
「我は、主殿の体質は魔法に寄るものだと考えている。無意識の魔法が体に人外の膂力を与え、それを主殿の無意識が発揮出来ぬよう縛っておるのだと。そうだとしたら、主殿の体を幾ら弄った所で同じ力は得られない。しかし、主殿のことを知る者には、そんなこと分からない。魔法などというものは、今の科学で解き明かせるものでは無いからな」
「……」
沈黙。幾獏かの空白を挟んで、口を開く。
「……で、でも。人間の限界は超えられないのでしょう!? なら、幾らなんでも2tの重量なんて支えきれる訳が……」
「いや! 確かにそうなのだ。……主殿の魔法は、明らかにその定義を超えておる。何故なのかは我にも分からぬ。ただ……今まで、そのような件が無かった訳ではないので、名前はある。『選ばれし者』……唯一分っておることは、彼らが生まれつき魔法を行使出来ていること。人間を逸脱した能力を持つこと」
「馬鹿馬鹿し過ぎますわ……」
「我もそう思う」
はぁ、と諦観の溜息を吐く。米噛みを抑えつつ、目の前で同様に息を吐いている少女を見やった。
「……仮に、その話を真実だとして。何故、そんな訳の分からない、本人も知らない体質が知られているんですの?」
眉見に皺が寄る。レティシアを、目の前の彼女の姿を通して、顔も知らない誰かのことを睨みつける。
それはもしかすると、神様なのかもしれない。十年前に死に絶えた、私の神様。神なんて残酷で、ちっとも優しく何てない。
「……十年前」
「っ!」
「一人の少年が、災害現場から一人の少女を助け出す奇跡があったらしい。消防隊が少女を発見した時は、入り組んだ瓦礫が積み重なっていて、重機がないと少女を救出出来ない状況で。でもそこは足場が崩れていて、とても重機を持ってくるスペースなどない。それに他にも要救助者は居た。涙を呑んで消防隊が他の要救助者の所に駆けだすと、一人の少年が現れた。誰何の声も聞かず、幼い少年は重機でないと持ち上げられないような重さの瓦礫を、一人で持ち上げ、どかし、中から少女を救け出した代わりに限界を越えて倒れた。確か、その後入院したはず」
フラッシュバック。寂しくて、怖くて、痛くて、寒くて、とても優しい記憶が溢れ出る。
ごくんと息を飲んだ。
「……なぜ」
「人の口に、戸は立てられない。とはいえ、非現実的な光景だったことが幸いして災害の当時は少年のことが語られることは無かった。でも時間が経ってほとぼりが冷めた頃、当時の消防隊員から話が広まり、荒唐無稽なその話は後ろ暗い連中に嗅ぎつけられ、いつの間にか裏を取られ、今に至る……その少女は、撫子殿のことではないか?」
「……そうよ」
口の中で小さく呟き、目を閉じた。
「ええ、そうよ……」
今でも鮮明に思い出せる、あの暗闇。私が家族を亡くし、兄を手に入れたあの日のこと。
どかされた瓦礫の隙間からこちらを覗く、幼い彼の顔。
「……」
「科学は恐ろしいな。主殿を狙う奴らは纏まっていないようでな、それぞれの作戦がぶつかり合って、相殺して、失敗する内に、どうせどこかに取られるなら殺してしまえば良いと考える者も最近現れたようだ。……以前、主殿を襲った犬モドキは、そんな勢力の実験体の一つだ」
馬鹿らしい、と切って捨てるのはひどく簡単。それでも、私の直感は彼女が嘘を吐いているのではない、と告げている。
兄が――ほんの少しでも危険にさらされている可能性があるのならば、それは看過できない事態だった。
兄が居なければ、私はどうやって生きて行けば良いか分からないのだ。
「魔法。魔法、ね。……撫子にも、似たような物がありますわよ? ……だから今の話、兄の安全の為だと言うなら信じてあげても、良いわ」
心底驚いた、と言いたげな顔と視線を合わせる。苦笑。時計が時を穿つ音が、規則正しく部屋に響く。
「私はね、対面した他人の感情を読み取れるの。……どういう演技を私に求めているのか? どう振る舞って欲しいのか? 嘘を吐いているのか? ……私はそうやって、直感とでも言うべき物で、女優として、モデルとして、歌手として、芸能の世界を駆け上がって来たんですの」
オーディションでも、テレビの番組でも、雑誌のカメラマンの前でも。
彼ら彼女らが望む私を読み取り、それを個性として表現して見せることで今まで人気を得て来たのだ。
これからは更に先、もっと自分だけの魅力を磨かなければ、生き残れないだろう。芸能界は甘くない。
しかし私は、女なら誰もが持つ鋭い感性。それが特別研ぎ澄まされているのだろうか。
「魔法は――本人の強く望む力で発現することがあるらしい。撫子殿のソレも、もしかすると魔法なのやも知れぬな。……我は、主殿を身を呈してでも助けたいと。師匠の手助けもあって、その思いがこの肉体となった」
「嘘は感じられないわ、残念ながら。それに貴女、嘘を吐くにしては下手過ぎますもの。……私が本当に気になるのはもう一つの方ですの。貴女は、何故お兄さまを守ろうと?」
「そっ、それは……」
瞬時に頬を染め、俯く。
例え少女の体に見えなくとも、心を読まずとも、その表情だけで十分だった。
テンプレートすぎる反応からはソレ以外の意味を読み取れない。大げさに溜息を吐き、肩を竦める。
「はぁ、やっぱりそういうことですのね。……でも、そういう方面なら、私、年季がこもってますの。負けませんわよ?」
余裕を、自信を見せつけるように頤を上げる。兄を思う心は何一つ劣っていないのだと示すように。
「我はッ……」
口ごもる女。兄に寄りつく女。同じ物を欲する女。おそらく……私と同じ、ソレを手に入れる為なら、最終的には何だって投げ捨てられる女。
「何を、躊躇っているんですの? ……私たちは女。殿方を手にしたいなら、正々堂々その身で、手管で、心で、魅せて堕とすのものですわ?」
「……」
あくまで不敵な笑み。……確かに過去、何度も足蹴にしたせいで今の友好度は低いかもしれない。魅せるといってもタイヘンなのだ。
目を瞑って真っ先に浮かぶのは、泣きそうな、否半泣きの兄の顔。……大丈夫、私にも魅力あるはず!
「私は、撫子は……お兄さまを好きですわよ」
「うむむ……ごふぁああああ。あれ……撫子、何か言っ、ぶばっ!」
「……」
緊張していた空気が弛緩する。
羞恥に頬が染まって行くのを感じ、迷わず兄の鼻の下――正中線上にある人体の急所に振り下ろした拳を撫で、小さく嘆息をついた。
熱を冷ます様に頬に手を当て、仕切り直すようにふるふると首を振る。
「あらあら、寝つきがよろしいですわね」
「な、撫子殿……!?」
「うふふ」
顔を引き攣らせるレティシアに対して艶然と笑って見せる。
「寝つきが……よろしいですわね?」
「……う、うむ」
青い顔で何度も頷くレティシア。……素直な子ね。
「まぁ、もういいわ。何だか色んなことを一度に聞いて頭がパンクしそうです。掃除もする気分でなしに……撫子は、今日の所は帰りますわね?」
言い、席を立つ。未だ膝の上に乗せていた兄の頭が床に激しく着地したが、そんな些末事には気も留めない。ついでにぐりぐり踏みにじった。
人の気も知らないで、馬鹿兄め。「うぐぐぐ」とくぐもった苦鳴を上げる兄の頬を、足先で最後につっと撫で、くるりと踵を返す。
「うふふ、ではごきげんよう」
静かに玄関を閉め、乏し――ややボリュームの足りない胸に手を当て大きく息を吐いた。古びた階段を降りながらそれとなく周囲に目を配る。
「あらら、まぁまぁ」
電柱の陰、曲がり角、何箇所かに露骨に怪しい風体の男達が立っている。揃いも揃って、没個性なサングラスにペラペラのダークスーツを着込んだ男達が、偶然こんな場所に集まる訳も無い。
彼らは兄達の監視なのだろうか。
……余計、レティシアの言葉を信じざるを得ないようですのね。
しかしそれにしても――甘い。甘すぎる。
これなら私のストーカーの方が、まだ対象に悟られない技術をお持ちなのではないだろうか。
ちらちらと視線を寄越す者、じっと何もない場所に立ち携帯で話している者、どれも稚拙に過ぎる。目立たない様にしたいなら、もっと他に方法があろうに。
……技術畑の人間なのかしら? それも、少々常識の無いタイプの。
偶然を装って、目があった男性に微笑みかける。
サングラス越しの視線が戸惑うように揺れ、分かり易く紅潮して視線を外した。軟な男達だわ。
階段を降り切った所で踵を返し、一定のリズム、背筋を伸ばした姿勢を意識して木造建築から一歩一歩歩み去る。
振り向かない様に背後に気を付けていても、男達が付いてくる気配はない。
「さてと、どうしたものですか……」
行きと同じ、たった一人の帰り道。
不意に漏れた溜息が、髪を揺らす風に流れて舞い上がった。