第五話 猛る筋肉、街デビュー。
「我が名はレティシア・フォン・ムキムーキ! 決して、佐藤レティシアでは、ない!!!」
叫び。ある種の物理的な威力を伴って発せられたそれが、喧噪の中に広く響き渡る。
時間は奇しくも昼前、人で賑わう駅前。俺の前にそびえ立つレティシアの深い翡翠色の視線が真っ直ぐ空間を突き抜け――
「目逸らしてんじゃねーか、嘘つくなお前ぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
――微妙に逸らされたまま、明後日の方を見る。
一斉に群衆が「うんうん」と頷き、歩くマッスル罰ゲーム(ただし見る方に対して)の米噛みから垂れた汗がつっと顎まで滑り落ちる。
誰がどう見ても明らかな嘘。
これは、一夜明けた次の日の出来事である。
猛る筋肉、街デビュー
半開きのカーテンから朝日が差し込み、俺の顔を照らす。
どこからか小鳥がチュンチュン囀る音が響き、健康的な朝を演出する。
穏やかな朝の一時、眩しさに寝返りを打とうとした所でふと。
「何か、ちょっとこう暑苦しいというか……」
まだ眠いが、仕方なく目を開ける。
そこに奴は居た。
「ふおお……!」
目に入るのは安らかな寝顔。伏せられた睫毛は朝露にしっとりけぶるようで、意外に長い。
僅かに開かれて、甘やかな吐息を押しだす唇は可愛らしく突き出され。
すうすうと静かな寝息が俺の額をくすぐり、胸元にかかる長い金糸の髪の毛からは澄んだ香り。押しつけられた体からはミルクのような甘い香り。
そして――
しどけなく寝乱れた胸元から、血管の浮いた分厚い筋肉が覗いているッッ!
「あ・る・じ・ど・の……!!」
「ひ、ひぃぃぃぃぃ! グロっ! 何という有害指定画像……!!」
そう。
俺はレティシアに抱きしめられている。
というか、抱き締めつけられている!
何だこの今だ嘗てないアンチ萌えワード! ちくしょうちくしょう!
「あ、ってちょ、痛、イタタタタタ! 痛い痛い痛い! ギブ! ギブ・アーーーップ!!」
ガッチリと背中でホールドされた両手に力が籠もり、ギリギリギリ、と俺の背骨を責めあげる。
余りの痛みで、眠さもどこかに旅立ってしまっている。何の間接技だこれ。いや鯖折りだ。
おそらく純粋な痛みで真っ青になっているであろう顔を、思わず俺はちょっと上向けてしまう。
それを狙っているかのように、レティシアの顔がこちらに近づいてくる。
何の因果か、真っ直ぐ俺の唇向けて迫ってくるそれは……!
「イヤーーーー!! け、け、穢されゆーーーーー!!!」
「おあ……お?」
俺の魂の叫びが、眠れる大魔神を揺り起こした。
しぱしぱと開かれた瞳は深い翡翠色。だが筋肉はムキムキ。
「た、頼むから離して下さいお願いします!」
「キャアアアアアアア! あ、あああああ主殿!? 朝から我に、一体何をするつもりなのだ!?」
ズゴン! 理不尽に突き飛ばされ、床に転がる俺。
ババッと素早い動きで掛け布団を抱きよせ、存在しない異世界の敵か何かから己の身を守るレティシアの顔は真っ赤だ。
俺の顔は痛みとダメージで土気色だが。
「もう! わ、我はそんな軽い女の子ではない! 物事には順序という物があるのだぞ!」
これが純粋に可愛い女の子だったらなぁ……。萌え萌えなのになぁ……。
俺が何をしたというのだろう。神様も俺に迷惑物件押しつけ過ぎである。どれだけ嫌いなんだ。
「主殿、聞いておるのか! 主殿!? ……あれ、主殿?」
どうしたどうしたレティシアさんや。
「顔が真白だぞ! 大丈夫か、主殿ー!」
そりゃね。
「主殿ーーーーー! 我の、朝食がーーーーーーー!!」
「そっちかよ……」
そして気絶。
時間が経ち、無事に回復した俺は膝枕で俺を看病するマッチョさんの姿にもう一度悲鳴を上げ、現実世界に復帰した。現実は甘くない。
鍛えられ過ぎたフトモモは固かったです。
色々あって慣れた俺は、その後何事も無かったかの様に朝食を作り、プロテインを牛乳で溶き、言われるままに外に出た。
「どこに行くの? 筋肉の国ですか?」
「うむ、ちょっと銀行にお金を下ろしにな。生活費位は入れるぞ」
「……」
普通過ぎる。心遣いは有り難いが。
この筋肉は、俺の目の錯覚とかではないらしい。
やはり歩く怪奇現象なだけあって、行く先々で人々の悲鳴が巻き起こる。でも怒号はない。だって怖すぎるから。
俺は極力隣を気にしないように、歩く。街の様子は機能までと何も変わっちゃいない。
こんなに非日常な生命体と異世界体験をしているのに、日常は変わらない。せいぜい、筋肉に脅されて居候を許可させられたこと位。
いつも通り街を歩けば、曜日時間に関係なく沢山の群衆が好き好きに過ごしている。
若い男女。幼女。ショタ。お爺さんお婆さん。スーツ姿のサラリーマン。エコバッグを提げたおばちゃん。
電気店の店頭では適当な番組が垂れ流され、本屋には滞りなく新本が入荷される。
二十四時間営業のコンビニも、災害でもなければずっと営業し続けるだろう。筋肉程度では日常は犯されない。
俺には、何が日常と非日常の違いなのか分からなくなってきていた。常識と非常識と言っても良い。
「……そう、だからこれも、別段おかしなことじゃあないんだ。そうさそうさ、常識常識……ふふ、ふふふふふ!」
「どうしたのだ、主殿? 足りなかったか?」
手の中に感じるずっしりとした重み。指先に感じる一枚一枚のその繊細な感覚。胸に溜まる感慨と達成感が、血管に乗って俺の中を駆け巡る。
「イエイエいいえいいえ。滅相も御座いません姫様。100万円って、凄いんだネ……!」
要するに、俺は今初めてレティシアを正式に居候認定してやってもいいかな!? という状態になっているのだ。
無論。初めて見た百人の諭吉のとっつぁんの力だ。グッバイ俺のちっぽけな日常。
いやあ流石の俺も、百人の偉人に説得されちゃあネ!
いつもは俺に見向きもしないとっつぁんが俺にその熱い眼差しを送ってくれるなら、俺は筋肉だって受け入れるぜ……!
生活費と銘打ってレティシアから渡された札束は、現在しっかり俺の手に握られている。
あ、違うよ? ネコババはしないよ? そう、今日これからレティシアの服とか買いに行くからネ!
「てゆーかいいんですかコレ? 普通こんなポンと渡すような額じゃありませんよね!?」
感無量に浸って嬉し涙をこぼしていた俺はバッ! と振り返る。どんな過剰筋肉的トラップがあるか分からない。
今ならおどろおどろしいその筋肉だって楽に直視……出来ずに、微妙に目を逸らす。難易度高すぎるよ。誰にも向かない難易度だよ。
やはり、それ(金)とこれ(筋肉)は話が別だ。
「いや、我はその辺良く分らぬが、とりあえずその位あればいいかな、と」
「ちなみに、貴方のお家はなにやってらっしゃるーの?」
「ええと、何だったか……確か、パパは色んな企業の会社で、ママは有名なファッションデザイナーだ。我も株式持ってる」
ほらこれ、とピンクのキャミソールをぺろんと捲り割れた腹直筋と引き締まった外斜腹筋を晒し、タグに付いているロゴを俺に見せる。
俺でも知っている超有名ブランドだ。
しかし、娘とは言えこの服をチョイスするのはどうか。マジで。
「おお! 超金持ちじゃねーですかお前さん!」
……ん? 待て待て、それよりおかしな単語がなかったか?
「あの……レティシアさん?」
「?」
「今、パパとママって言いました?」
親御さんは、娘がこんな何て言うか、筆舌に尽くしがたい体格をお持ちになっていることをどう思っているのだろう。疑問だ。
それに昨日から、古の因縁とか現世に舞い降りただの何だの言う割に気になってたことがある。
一応ちょこちょこ話を聞いた限りでは、コイツは魔法が当たり前の世界からやって来たらしい。
百人のマッスル魔法使いが集まって初めて出来る大魔法、マジカル・大・右ストレートで世界と世界の壁をぶち破って。
そりゃまぁこんな無差別テロ的な迷惑生命体が100体も集まれば、世界だってわりかしあっさり壁を通すだろう。
想像するだに嫌過ぎる魔法だ。俺が世界なら彼らにフリーパスを与えるね。
しかし。
「あ! ち、父上と母上だ! い、いかんなぁ、我もこの現世に降り立ってから、ちょっと毒されておるようだ。プンプン!」
とりあえずプンプンは止めて! 意味的にも間違ってます。
この御方、もしかして……。
「……ちなみにレティシアさんや。苗字は?」
普通に考えたら、異世界から来たら言葉通じないよね。まして、日本語なんてマイナー語デフォルトにしないよね。
「佐藤だ」
「おいぃぃぃ! 日本人じゃねーか!」
やっぱりな! 異世界の魔法☆少女(自称)の癖にやけに日本語ペラペラだと思ったらやっぱりな!
はっ! と何かに気付いた様に頭を振ったレティシアが、銀行の前、駅前の中心で嘘を叫ぶ。
「しまった! ぬぁ、我の胸鎖乳突筋がついうっかり間違えてしまったようだ! 本当の我が名はレティシア・フォン・ムキムーキ!!」
「無理あり過ぎるだろそれ! 胸鎖乳突筋ってどこの筋肉だよ! フォンって貴族かよ! よりによってムキムーキかよぉぉぉぉ!?」
かよぉぉ、かよぉぉ、かよぉぉ……俺の全力の突っ込みが、群衆の間に消えていく。
ふと頭を回して左右を見ると、大きく深く頷いている人が沢山いた。遠巻きだけど。
名探偵的洞察力でレティシアがハーフか何かだと看破した俺の前で、キン○マンの着ぐるみががっくり膝を着く。
「くぅ、何たる不覚……!! 我がここの駅から徒歩10分の所に住んでいる、佐藤レティシアだと何故分かったのだ!」
何自分からバラしてんのあんた。てゆーか全部自爆ですよね! だがそれは言わない。
精神の安全を守る為描写は伏せるが、上体を前屈みに膝に手を付くそのポーズ……!
バタバタバタバタ! 騒々しい音に振り向けば、そこには苦しげに倒れる人・人・人!
首から下と上が織りなすギャップのパフォーマンス。ギャップといえども萌え要素は皆無、限界値を越えたキモさが老若男女問わず絨毯爆撃を敢行したのだ。
「いやあ、この威力に耐えれるってことはアレだ。俺はその分慣れちゃったんだなぁ……」
苦しむ人々の阿鼻叫喚の図をバックに、俺はしみじみと呟く。嫌な慣れだった。
「ふふ、我の筋肉から迸る魔法的威光に耐えきれなかったようだな!」
「佐藤の癖に」
「ぐっ……」
「どこにでもある平凡な苗字、佐藤の癖に」
「ぬぅあっ……!」
「騙したね!? 僕を裏切ったんだ! 父さんにだって騙されたことないのに! うえーん!」
言い、背を向けて疾走。ちゃんとうえーんの部分では可愛らしい泣きマネも入れた。
余りのキモさに周りの生き残りも精神崩壊。筋肉の精神攻撃ウェーブに便乗してバタバタ人を倒れ伏せさせて行く。畜生、そこまでキモいのかよ。
ノリの良い住民共め。
背後に流れて行く景色と人々の視線。それらを漠然と感じ取りながら俺は逃げる。ひたすら走る。
何故なら、俺はこの事態に混乱していたからだ。
レティシアの向こうから警察官が走って来たからでは無い。きっと無い。