第十六話 それぞれの朝。
「あぁ……何て事だ、もう手遅れなのか……」
俺は窓の前で呆然と膝をつき項垂れた。
爽やかな朝。
小鳥達が軽やかに囀り、降り注ぐ陽光は優しく街路樹の葉を包みこむ。
吹き抜ける風も快く、僅かに汗で湿る肌を撫でて去って行く。
清々しい朝だ。
「あ、あはぁん! 何だこの感じ……新しい、新しいぞ……これは……これは快感!? 気・持・ち・イ・イ……ッ!!」
しかし視線の先には、爽やかな朝ぶち壊しの禍々しい物体が転がっていた。
猫の額の如き小さなベランダの端で、頬をモヒカンと同じ色に染め汗と涙と涎と鼻水を垂らしながら身悶える中年の姿。
晒した肌に汗の珠が煌めき、恍惚とした表情は満面の笑みに彩られている。
素肌の上に羽織っていた仕立ての良いスーツはぐるぐると丸めて置かれ。
その上で三点倒立する一人の変態の姿。
「この首にかかる負荷……軋む肉体ッ……一晩の、放置プレイ……ッッ!! おじ、オジサンはもう、もうもうエクスタシー!?」
逝け。
逝ってくれあの世に。
かなり関わりたくない境地に達しているモヒカンだが、自分家のベランダで変態が恍惚と三転倒立しているのはご近所さんに見られたくない。
破滅だ。社会的に。
それにほんの微量ではあるが好奇心もある。
どれだけエキセントリックな思考プロセスを経たら爽やかな朝のベランダで悶え三転倒立する気になるんだろうか。
発想の斜め上さが世界新だ。
「……何してんの?」
嫌々な感じがだだ漏れになってしまうのも仕方ないと思う。
「ああ! 少年! おはようっ! 良い朝だね!?」
お前さえ居なかったらな。
「聞いておくれよ! 僕はねぇ、昨晩放置されていて、最初はもうお腹も減ってそれはそれは寂しかったんだ。だけど気付いたんだよ! これ、気持ちいいよね!?」
さよか。
……ああ分かる。どんどん半眼になって行くのが自分でも分かる。
「そう悟った僕はもうエレクトだよ。一晩中放置される快感に酔いしれていたんだけど、朝になって何か物足りなくて。だから三転倒立などやってみたんだね!」
だからの使い方おかしいだろお前。
どんだけ変態としてのレベル高いんですか。
「お兄さまー、朝ごは……」
ひょこ、と頭を突き出してきた撫子が硬直する。
その表情を横目で見て俺はすぐに目を逸らした。そっと後ずさる。
テーブルの上には、香ばしく焼き目のついたトーストとマーガリン、苺のジャムと冷たい牛乳が乗っている。
平和だ。
「……」
「おやおはようマドモアゼル! あぁ、そんな蔑む目で見な……いやもっと見て! ヘイカモンイェー!」
「……」
「あはは、ほんのお茶目なジョークさ、いっつあ変態ジョーク。そんな怖い顔したら綺麗なお顔が台っ……」
「うふふ、うふふふ」
血とか肉とか詰まったモノを殴打する音が聞こえる。俺は素直に耳を塞いだ。撫子の目、あれは殺す目だった本気と書いてマジで。
レティシアの時はそうでもなかったが、男の変態にはかなり厳しいな。
まぁ意味不明の体勢で身悶えて、しかも撫子を挑発する奴だから自業自得だ。
一晩忘れてたの謝ろうと思ったけど、もういいや。
九時まで残す所あと二時間、もっと緊張してても可笑しくない状況での一幕である。
出立の朝
「……朝」
窓からうっすらと差し込む光で目が覚めた。
ぼんやりと、半ば眠ったままの頭で視線を漂わせる。
薄暗い見慣れた部屋。お気に入りの壁掛け時計。
天井の蛍光灯からつーっと漆喰の壁に視線を落としていく。ぎっしり本が詰まった本棚に、どこかの外国の風景だとか言うポスター。
そして――
「……あれ、起きる世界間違えたかな」
目を瞬かせる。念入りに手の甲で目を擦り、一度深呼吸。
再度目を開け頭をぶんぶこ振り、じっくりと目を眇める。
「ふご……ふごごごごごごごご……!!」
豚!
いや違う人? 人、だよな……?
こんもりと小山の如く盛り上がったタオルケット。そこから豚の如き怪音が轟いてくる。多分久美子だと思うが確信が持てない。
人が寝ているにしてはタオルケットの盛り上がりが丸過ぎるのだ。
「えー……と」
首を捻り、むむむと眉根を寄せる。
「!!」
僅かに覗くのは足の裏。ということはあれは尻?ということは……一々輪郭を辿って行ってようやくそれが何なのか理解する。
それはまるで。
「土下座?」
いや、女性にあるまじき音を使用した鼾を掻いているので、別に何かに謝っている訳ではない、と思う。ただ寝てるだけだ。
ただ体勢が不自然である。言語化しにくいが、とにかく土下座に近しい体勢だ。
深々と土下座するように足を折りたたみ尻を突き出し、ぺったりと上体を倒して額を床に付けてバランスを取っているのだ。多分。
そうとしか見えない。何であんな体勢で寝てるんだろう。不思議生命体過ぎる。
もしかしてあれは、デブと独身のコラボレートを脱出する為の独自で特殊なカロリー消費の儀式だったりするのだろうか。
ないわ。
「……すげー確かめてみたい」
朝からアレだが、気になる。人間ってあんな体勢で寝れるのか。写真、写真。
体を投げ出していたベッドから身を起こそうと、俺は片腕をつい……ん?
視線を反対側へ。
「ひょ……!」
そこで悲鳴を飲み込んだ俺を誰か褒めて欲しい。
悲鳴が『ひょ』とか、ぬらりひょんか俺は。ぬらりひょんがどんな悲鳴を上げるのかは聞いたことがないけど。
「む、むおお……ど、どどどど」
小声で焦りを表現する。がっしと捕獲されている腕を動かさない様、冷や汗を流しながらぷるぷると震えた。
そう今俺がすべきは!
「柔らかいぞなもし……!」
違う俺の馬鹿!
くそぅテンプレ攻撃かでも無理です誰か助け、
「う、ぅん……」
……なくても、いいかなぁ。
ふは、ヘタレと罵るが良い。常識的に考えて、もうちょっとこのままで居たい。
詰まる所、今俺の左腕は撫子によってはっしと抱きかかえられているのだ。
離さぬ! 離しませぬ! とばかりに巻き付いた両腕。加えて微妙にレッドゾーンに触れそうな左手の先にはしっかりと太ももが絡み付いている。
うにゃうにゃと寝言を呟きながら押し出されるのは芳しい吐息。擦りつけられる頬と言わず体と言わず、とにかくやわっこい。
すぐ近くにある頭からはシャンプーの良い匂いがして、僅かに覗く寝乱れた胸元からはまた、女の子特有の甘い香りが――
「ポーーーーーーウ……!」
小声で、叫ぶぜ……!
うわああどうしようどうしよう何でこうなってんだろ! 起きたらやっぱり殴られるんだろうなコレ!
昨夜の記憶を手繰り寄せる。公正にして公平な譲り合い精神を発揮しあった末、ベッドは撫子が、俺と独身は床で寝ることになったはず。
寝る前は普通に床に転がったし、というかそもそもベッドに入った記憶など無い。
「んー……お兄さまぁ」
「ひょわ……!?」
偶然だろうが、ふっと耳に息を吹きかけられる。何かイケナイ感じの電流が脊椎を奔り抜け、図らずも逆エビに反り返ってしまう。
そんなことをすれば当然。
「んん。……?」
「……」
ぱち、と目を開いた撫子と目が合う。思わず息を呑んだ。
薄ぼんやりと霞みがかった漆黒の瞳は常よりも色が深く、吸い込まれてしまいそうな不思議な気分を思い起こさせる。
陽光にけぶる睫毛は長く、整った眉は色気と無邪気なあどけなさを感じさせる絶妙な角度で歪められ。
良い香りのする濡れ羽色の髪の毛が一筋、頬を伝って口許に滑り落ちている。
唇が渇いているのか、僅かに開かれた唇からそっとピンクの舌先がちろちろと覗き、妖艶な仕草で唇をなぞって行く。
「……いやこれは」
我が妹ながら、エロい。
「?」
まだ覚醒しないのか。とろんと夢の世界を揺蕩っているような風情の撫子は、何を考えたのかもそりと動く。
腕を抱いていた両手を更に伸ばし、きつく足を絡め俺を抱きしめ。
お気に入りの抱き枕かぬいぐるみを抱きしめているように数度頬ずりすると、むふー、と幸せそうな笑顔で息を吐いた。
何だこの可愛い生き物。
猛烈に頭を撫でくり撫でくりしてやりたくなる。
「ぉーぃ」
起こすのは可哀想な気もするが、時計はもう朝食の時間を指している。ぐーぐー腹の音を垂れ流すことも出来ず、俺は小声で撫子を揺さぶった。
「ぅー」
呻く妹。
「姉御、朝ですぜー」
揺する俺。
「ホホホホホホホホホホホ」
笑う久美子。
って。
「……いつ起きたんですかアンタ」
ジト目を向けた。起きた癖に妖怪球形タオルケット状態の独身がのそり、とこちらを向く。
「うっ……!」
足りない。
化粧とか化生とか。世間様に顔向け出来ない凶悪な寝起き顔に心持ち仰け反る。
真丸く赤く染まった額にショボショボと半開きの瞼、頬にはべっとりと涎の跡。そして皺。
顔だけタオルケットから出し、奇怪な笑い声を上げながらもぞもぞと震えるその姿は発禁物のグロテスク。
きっと前世はかたつむりか何かだったに違いない。
だが今の顔はほぼトドだ。これが三十路効果なのかと空恐ろしいものを感じる。
老いとは恐ろしい。
「ホホホ、お・は・よ・う……!」
「そ、その顔で凄まないで……!」
「凄んでないわよこれがデフォよ」
出来るだけ距離を取りたい。ぐっと詰める様に壁際に寄ると、見事に壁と俺の間でプレスされた撫子が苦しげに唸る。
「うーー!」
ジタバタ! ジタバタ! 一蹴りで布団を跳ねのけ、動く度に白いおみ足がペラペラ晒されるので心臓に悪い。
「ぅー……う? 朝?」
「そうです朝です。……落ち着いて聞いてね? はい我が家にモンスターが現れましたぁ! あれ見てあれ!」
むくりと起き上がった撫子は、猫のようにぐぐっと背筋を伸ばしてほわりと欠伸を零した。
「むー」と唸りながらも素直に俺が指さす方向に目を向けると、
「ひゃわ!?」
途端に飛び起きた。
何という目覚まし効果なのでしょう。
バッ、ババッと凄い勢い良く久美子(仮)の御姿を二度見し、金魚の様に口をぱくぱくさせる。
すらりと伸びた指先がビシ! と久美子(怪)の方を指し示している。
「あ、あれ、あれ、あああ、あれ何ですのっ!?」
心の底からの叫びである。俺も叫びたい。むしろ写真撮ってテレビの特集とかに投稿したい。絶対採用される衝撃写真だ。
しかし人間というのは自分よりテンパっている人を見ると案外落ち着くようで、俺はと言うと慌ててぱたぱた動く撫子をニヤニヤと眺めている。
ちょっと遊んでみよう。
「おはようございます」
ペコリ、と頭を下げて朝の挨拶を送ると、
「あえ、あ、おは、お早う御座いますですわ」
律儀にペコリ、と頭を下げ返された。ちょっと面白い。
「時に妹よ」
「何ですの!? 今はそんなことよりあの、く、くく久美子先生らしき人に太陽の恵みを与えないと!」
「いやお肌が長年の戦いでボロボロだから、直射日光を素肌に当てたらオーバーキルだよ多分。撫子さんは今、がぁっちり俺を抱きしめている訳ですけど、その辺はどんな感じ?」
「オーバーキル……! 撫子止めさしちゃう所でしたの!? あぁ、先生若くないか、ら……ひあぁぁぁ!!」
「甘ーいっ!」
マトリックス避け!
唸りを上げて顎に振るわれたアッパーカットを、体を後ろに逸らすことで回避。
やられるばかりではないのだよ、やられるばかりでは。
「な、何で撫子の寝てるベッドに居るんですの!」
「知らんがな」
本当に知らないのだ。まぁまぁ、と掌を見せて撫子を宥める。
「うふふふふ」
「おわ」
のそ! とベッドの縁に手をかけて顔を出した久美子が不気味笑いを上げる。先ほどよりは目が覚めているのか、幾分瞼は開いている。
だがグロい。被ったタオルケットをわさわさと揺らしながら「うふふ、うふ」と笑う姿は子供なら確実に泣くであろうトラウマパワー。
反射的に撫子と手を取り合って壁際に後ずさった。
「ちょ、あ、あっち行って下さいマジで! えんがちょ! えんがちょー!」
「な、ななななあ」
「ぐふ、ぐふふふふふふ! 太郎をベッドに運んだのは私なのよねぇ……」
布団を蹴飛ばして逃げようとする俺と撫子に向かってじわじわと迫ってくる三十路前妖怪久美子。
「わ、分かりましたからち、近づかないで……!」
ひぃぃ! と悲鳴を飲み込んで歎願すると、満足したのか妖怪はずりずりとタオルケットを引きずりながら遠のいて行く。
そのまま洗面所の方へと消えていくのを見て、兄妹揃って肩を落とした。
「はぁ〜」
深いため息。事態に付いて行けていないらしい撫子の方に向き直り、まだ手を握っていたのに気付いてそぅっと離す。
「えぇと、これで何故俺がベッドで寝てたかは解明された訳ですが……もうどうでも良いからご飯にしようぜ。忘れたい」
化粧でコーティングされていない寝起きの久美子はモンスターだ。
とりあえず久美子が無事元の顔で洗面所から出てくるのを待って、撫子と交替で朝の雑事を終える。
顔を洗って歯も磨いて髭も剃って、心機一転朝のトラウマ画像を心的ゴミ箱に叩き込んだ俺は、さっぱりした顔を撫でながら部屋に戻った。
手際よく撫子が朝食の用意をしているのをちらと見たが、どうも手伝えることはなさそうだ。
コーヒーを啜りながらぼけっとテレビを見ている久美子に視線を合わせる。
「最近の若手男性アイドルはぱっとしないわね……インパクトがないのよ私みたいに」
自覚はしてるのか。
もごもごと世間に向かって文句を呟いている久美子の向かいに腰を下ろす。
テレビの画面の中では、下らないゴシップから凶悪な刑事事件、微笑ましい子供達のボランティア活動まで無差別に並べて報道されている。
この国の国民性を反映するような適当さを発揮して原稿を噛み噛み呼んでいるニュースキャスターの顔に目をやって、すぐに視線を外した。
今の所暇大学生をやっている俺には、ニュースは大した価値を見いだせない。
それより。
顎に手を当てて、俺はむーと首を捻る。その拍子にぱきっと首の骨が鳴った。
「何か忘れてる様な気がするんだよなぁ」
反対側に首を傾ける。更に二、三度それを繰り返して、テレビ画面を眺めている久美子に声を掛けた。
「久美子先生、何か忘れてる気がしません?」
「ん?」
首だけを捻ってこちらを向いた久美子は、数瞬天井の方を向いて考え込んだ。
両手で抱え込むように持ったコーヒーを一口啜り、眉根を寄せる。
「んん……そう言われてみると、何か忘れてるような気がするわねぇ」
「何かあんまり重要なことじゃないと思うんですけど、魚の小骨みたいに引っ掛かってて」
「何だったかしら。あー、確か下んないことだったんだけど……」
「そうそう、下らないことで……あーここん所まで出かかってるんだけどなー」
ここなんだよここ、と首の辺りを指で指しながら頭を掻く。
目の前、腕を組んで眉根を寄せ、難しい顔でうんうん唸っている久美子と二人で考え込んでいると。
「お兄さま、そろそろご飯出来ますからテーブルの上を片づけて……何やってるんですの?」
台所から撫子が顔を出す。
いつの間にか我が家に常備するようになったひよこのエプロンで濡れた手を拭っている。
流すままに下ろされた髪の毛が動きに合わせてさらりと靡いた。
「いや、何か大したことじゃないんだけど、忘れてる様な気がして」
「何か心当たりあるかしら?」
久美子と俺。2人して撫子にも話題を振った。
はぁ、とやる気なさげに息を吐いた撫子はやれやれと頬に手を当てた。
「そんなことは如何でも良いですの。あ、そうだ、窓開けて換気しておいて下さいまし」
「はいはい」
「返事は一回でよろしいですわ!」
台所に戻りながら、鋭く注意を飛ばす撫子に見えないよう肩を竦める。
「はぁい」
呟いて、窓を開けようと立ち上がった。
ん?
「窓……」
「どうしたのよ」
「あ! 思い出した!」
両掌を合わせてパチンと音を立てる。それだけじゃ物足りない気がしたので右手で二回指を鳴らした。ぱちんぱちん。
久美子に向き直って窓、否ベランダの方を指差す。
「窓で思い出したんだけど、そういえば外に一人放置してたよね!?」
「あ」
思い出した思い出した! と立ち上がった久美子とハイタッチを交わし、満足気に息を吐く。
すっかり、たった一人ベランダに放置していた変態のことを忘れていた。
悪いことをしたなぁ、と疑問を解消出来た爽快感を味わいながらカーテンを引く。
淡く目を射る陽射しに一瞬目を眇め、鍵を開けてガタガタと建てつけの悪い窓の取っ手をスライドさせる。
「……うお」
そして、冒頭の遣り取りに戻る訳だ。
「……生きてる?」
俺はやや遠慮がちに声を掛けた。今は朝食の席である。
「……まぁ、なんほは」
何とか大丈夫な訳か。
ボッコボコに青痣やタンコブで膨らみ、素敵に鼻血を一筋トッピングした半死顔でもそもそとトーストを齧る変態の姿。
手に持つそのトーストは、見事なまでに黒い。
端的に言えば完食すると洩れなく癌になれそうなレベルで焦げているのだ。全体的に。
「……」
言うまでもなく、変態にマジギレした撫子様の所行である。
あんまり揶揄わないようにしよう。
俺は一つ大人になった。
「全く……もう八時過ぎですわ。どなたかが変態的奇行を繰り広げていなければ、もっと落ち着いて朝ご飯食べれましたのに」
触れれば切れそうな鋭さの一睨みが変態を貫く。
「ふいまへん」と小声で呟くモヒカンの姿に哀れを覚えた。
過去の行いに懲りないタイプの奴でも、流石に一時間程撫子に肉体言語でマジ説教されれば改心するらしい。
まぁ、傷が癒えたら同じことしそうだが。何となく、そういう自爆体質な気がする。
俺には関係ないけどな。
「ごちそうさま」
唇に付いたパン屑を払い、食器を持って立ち上がる。準備は撫子がしてくれたので、片付けは俺がするのだ。甘えてばかりは良くない。
最初に食べ終わった俺に続くように、皆次々と完食して食器を持ってきた。偉い。
蛇口を捻り水を出す。泡立てたスポンジでさっと汚れを落とし、水流の力で泡を洗い流す。軽く水を切って食器を仕舞えばそれで終わりだ。
対して汚れものもなかったので、片付けなど手間もかからずすぐに終わる。
濡れた手を拭って、一人大きく伸びをした。
ちら、と部屋の方を見やる。
三人はそれぞれの方法で寛いでいる様に見えた。しかしどことなくピリピリしている。
変態は撫子の一挙動に怯えているのだろう。ゆらゆらと落ち着かなげに左右に揺れている。正座で。
撫子と久美子は腰を下し、並んでテレビ画面の方を眺めている。
しかし撫子はテーブルを細かく指先でタップしているし、久美子は難しい顔で黙り込んでいる。
流石に、落ち着けと言うのは無理かぁ。
俺は薬缶に水を入れ、火にかけながらそっと苦笑した。
実は俺も緊張しているのだ。
幾ら落ち着いているように見せ掛けることが出来ても、知り合いが誘拐されているこの状況。
しかも、今から幾ばくか後にはもう一人の知り合い、撫子にとっては兄である俺も居なくなるのだ。
どこかしら不安を抱いているのだろう。
だから久美子は俺を、撫子が寝ているベッドに移動させたのだ。きっと。
ただ単に面白がってやった訳ではない。多分。……多分。
「……でも面白そうだからって理由でやりそうだよな」
小さく呟いた言葉は心持ち気弱で、それがちょっと面白くて笑みを零す。
薬缶に掛けた水が沸騰した音で我に返り、人数分のコーヒーを用意する為に手を動かした。
これで多少なりとも、気を落ち着けてくれたら良いのだが。
「三丈太郎。リーダーのお呼出しに従う気はあるか」
午前九時ジャスト。外から響いた車のクラクションに合わせて外に出た俺を迎えたのは、無愛想な男の声である。
「どう思う?」
威圧的な黒スーツ。サングラスで顔を隠し、どっしりと腹に響く重低音で言葉を話す大柄な男に俺は肩を竦めて見せた。
我ながら挑発的な行動だが、ふん、と鼻を鳴らした男は無言のまま車を親指で指し示す。乗れ、ということらしい。
如何にもな黒の高級車に乗り込みながらふっと振り返る。
「ちょっと行って筋肉姫連れ帰って来るわー」
軽く告げ、笑う。
唇を噛み苦しげに眉を下げた撫子を中央に、久美子、変態もそこに立っていた。いや変態はどうでもいい。
難しい顔で腕を組んでいる久美子は、
「アンタ、ちゃんと帰って来なさいよ!」
言い、撫子の背を軽く叩く。
一歩踏鞴を踏むようにこちらに押し出された彼女は、何か言おうとして口を噤み、もう一度口を開く。
「大丈夫だから」
珍しいことだが、何となく言いたいことが読み取れてしまい、先に声を挟み込んだ。はっと息を飲んだ撫子は、潤んだ瞳を伏せて小さく呟く。
「……行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
短く告げて、ドアを閉める。もう一度視線を振ると、変態が腫れ上がった顔を精一杯歪ませて大きくサムズアップしていた。
何考えてるんだろう、と思いつつも笑顔が零れる。なので小さく、親指を下にして返してやった。
ええ!? と目を見開いた変態を無視して車が滑るように走りだす。
俺って超優しい。
走り出すとすぐに三人の姿は見えなくなる。努めてゆったりと息をしながら、俺は前に目を向けた。
何があるか分からない。だが考えることは簡単だ。
乗り込んでレティシアを連れ出して無事帰宅。ついでにあのムカつく仮面男を殴り飛ばせたら言うことなし。
「うわあ超シリアスって感じー」
昂ぶってくる怒りを鎮める為に、敢えてふざけた調子で呟いた。
大男の淀みない運転によって、見知った景色が次々に後ろへと流れて行く。
にっこりと不敵に笑う俺の顔が、ほんの一瞬窓ガラスに写って消えた。