第十三話 拐かされた姫君。
「うぬぅ……お主は! ……お、お主はほらあの……誰であったかデブの人!?」
「デブ言うな筋肉娘が!! 御堂久美子ピチピチの二十九歳独身! よ!!」
贅肉と筋肉、二人の叫びが空気を揺らす。
何の変哲もない往来。燦々と降り注ぐ陽射しの下で、レティシアと独身「うるさいわね!」は出会ってしまった。
片や白衣に弾けんばかりに全開な真紫……いや魔紫のエロボンテージにブランドバッグ。
片や活動的なショートパンツに男性物のタンクトップの下に筋肉を無理やり押し込め。極何の変哲もないトートバッグ。
「どうしてこの街にはこんなのが居るんだ……!」
「いっそ殺してくれぇぇぇぇ!!」
「は、早く救急車を!」
二人揃えば倍率ドン。さらに倍。精神的にアタックチャンス。
対都市壊滅用戦術兵器級のキモさ大爆発である。夏なのでいつもより余計に、本当に余計に暑苦しさ増分特大号。盛り盛りである。
「ふふふ……ここで会ったが百年目! 我の主殿には指一本触れさせぬ! 久々の魔法で筋肉的成敗してくれるわッ!」
「おーっほほほほ! 囀るわね小娘!」
「ぬぅ……高笑いだと!?」
「あ、私こうやって登場するって決めてるのよ自分ルール。お分かり?」
「……」
「……そういや、百年目って言うけど、何で百年なのかしらねぇ。アンタ分かる?」
「え、いや勢いで使ったけど、我にはちょっと……」
街の中心部、圧倒的暑苦し気持ち悪さで対峙する二大怪獣の間を、季節外れの寒い風が吹きぬけた。
俺の預かり知らぬある日のこと、カンダタ親分とキングスライムの邂逅が織成す恐怖の一幕である。
拐かされた姫君
「あ゛−、あっついわぁ。何か良いダイエット方法ないかしらコレ」
バタバタ! バタバタ! 一部の性癖の奴には大人気の白衣の裾をからげ、カルテを挟むボードで風を仰ぎ入れる。
だらけた姿勢のまま足を組みかえると、失礼にもキャスター付きの椅子がぎしぎしと煩い音を立てた。軟弱な。
「アイス、ジュース、アイスアイスアイスジューウス♪ 炎天下のなか糖分♪ 油分♪ 見る間に増える腹の肉……って嬉しくないわ!」
そうだアイス食べよう。冷凍庫にぎっちりと眠る氷菓子の存在を思い起こし、立ちあがる。
邪魔な肉の鎧をゆさゆさ揺らしつつ、備え付けた冷凍庫の扉を引っ張り開ける。
うだるような熱気を押し流し、冷たい空気が頬を包んだ。にんまりと顔を緩め、手を突っ込む。
「……ん!?」
おかしい! 一度腕を引っこ抜き、今度は頭を突っ込んだ。ふりふり尻を振りながら、隅から隅までくまなく視線を配る。
「んん!? ……アイスが、ないわ」
間違いではない。昨日まで後十個はあったはずなのに。いつの間にか食べてしまったのか蓄えられてしまったのかこの贅肉に!
体が重いので苦労して頭を引っこ抜き、冷凍庫の扉を閉める。途端にじっとりとした熱気が体を包む。じわっと汗が浮かんだ。
新陳代謝は良いのよ。デブだけど。汗かいても痩せないけど。
「さて、どうしようかしらね……」
のっしのしと肉を揺らし、乱雑に散らかったデスクに取って返す。
携帯、家賃、保険、水道光熱費その他諸々……今月の払い物の金額と貯金、売上を頭に浮かべてしばし唸る。
生活費は別にして、何個アイス買えるかしら。
むむむ、と更に唸る。どうにも面倒だったので、電卓を引き寄せた。
目にも止まらぬスピードでキーを叩く。即座に現れた数字を吟味。
「アイス一個百円として……他にも欲しい物あるし、あー、今月は後三十個ね。十分だわ。ふん!」
鼻を鳴らし、外出の時によく利用するブランド物のハンドバッグを掴んだ。この中に財布も入っている。
もう四年使っているので少しくたびれている。一瞬窓の方へ目を向け、どこか遠い所を見た。
「……ふ、ふ、所詮独身には豪華過ぎるブランド物……でも良いわ、独り身貫き二十五年。その記念に買ったごさもしい褒美なのだから……!」
呟き、バッグを肩に掛けて踵を返す。診察室から出ると、そこには誰も居ない待合所。昼前だし丁度良い。
当院ではたった今から院長の私が返ってくるまでお昼休みです。
診療所を手伝ってくれている女の子に休憩にする旨を告げ、そのまま建物の外へ出た。
直射日光が容赦なく肌に突き刺さり、思わず顔を顰め舌打ちを漏らす。
「暑いわ……暑い暑い。何でこの脂肪は溶けて消えてなくならないのかしら……! 我が体ながら不便なお肉!」
歩き出し、忌々しげに腹の肉を見下ろす。同時に顎にたぷっとお肉が挟まり二重顎。キィィ! 歯ぎしりをした。
生まれてこの方二十余年。今まで一度足りともスリムやスレンダーと言った言葉にお近づきになったことはない。
生まれつき細胞が大きいだのかなりの胃下垂だの何故か基礎代謝が低いからすぐエネルギーが脂肪に変わってしまうだの……!
えぇ生まれた時は四千グラム超のそれは元気な赤ん坊だったそうよ! ガルル! 通りがかったスレンダーなOLを威嚇。
「ひっ!?」
炭水化物ダイエット、もずくダイエット、断食ダイエット、ボクササイズエクササイズ、適度な運動にヨガ水泳滝行山篭り。
どのダイエットも効果なし。開き直って暴飲暴食、ぶくぶくぶくぶく肥え続け。気付けば独身三十路一歩前!
「その細い足をぽりぽり食べてやろうか……!」
「にゅぐ!?」
八つ当たり気味にミニスカートで歩く女学生を威嚇。どんな分厚いステーキでも軽々と噛みちぎる白い歯を噛み鳴らす。ガチガチ。
「痩せたい……痩せたいけど痩せれないのよ……!」
同期の女友達は皆結婚してしまっている。
この年になって招かれた結婚式で、「やっぱ独り身っていいわよねー自由だし」「そうそう。旦那が――」などと囀られるあの屈辱。
花嫁のブーケトスなど掠りも出来ず、ご祝儀を払い引き出物の袋を手に下げ一人で家路に着くあの虚無感。
目を付けた男性も尽く顔を引きつらせ汗を滴らせ、足早に逃げ去っていくこの脂肪。
性格はとやかく言うまい。化粧には結構気を使っているし我ながらセンスは良い。しばしばファッションについて相談も受ける。
流行りのテレビ番組もカラオケも、脂の乗った色気ある仕草講座も受講した。
医者だけあって社会的地位はそこそこ年収も平均以上。実は隠れて料理も出来る。裁縫もする。
でもモテナイ。誰か貰ってやって下さい。
……。
私は独! とアスファルトを砕かんばかりに大地を踏みこみ、大きく鼻を鳴らした。
独! 独! と忌々しい、ボンテージの隙間からまろび出ている腹の無駄脂肪を掌で叩く。
嗚呼痩せさえすれば! こんなすぐに汗を掻くこともないし男にも避けられないしイライラもしないし膝も痛くならないし体も軽いのに!
「この世はなんて不公平なのかしら! 皆ぽっちゃりフェチれば良いのに! この三六〇度包み込むような脂肪の壁で受け止めてあげるわ……!」
ハンカチで汗を拭う。気付けば診療所を遠く離れて、街の中心部まで来ていたようだ。
ここなら大型スーパーも近い。ついでにお夕飯の買い物もして行こう。
そうだ何味のアイスを買おうか。オーソドックスにバニラ。いやいやチョコレート。チョコチップバニラ? ストロベリーも抹茶も捨てがたい。
新製品は出ているかしら。
ごくり。自然と口内に溢れた唾液を飲み下す。
「あーーーーー!! お主ッ!」
背後から響いた大音声に眉を顰める。澄んだ高い声で、声を聞くだに細そうなこと! 何だ全く最近の若い娘は!
どこか聞き覚えのあるその声に訝しみつつも、眉根を寄せた不機嫌顔のまま振り返る。
「あ、暑苦しい……!」
そして冒頭の出会いへと繋がるのだ。
「何でお主がここにおるのだッ!?」
「何でってアンタ、アイス買いに来たのよアイス。三十個」
「さんじゅ……!?」
気を荒げ、息を荒げるととっても暑くなる為、とりあえずのクールダウン。脂の乗った丸っこい手で顔を扇ぎながら半目を向ける。
視線の先、レティシアだとか名乗っていた少女はこの炎天下の下、元気良く金髪を揺らしながらステップを刻んでいる。
見るからに暑苦しい。溜息を吐きすすっと日陰に入った。ひとまず、体感気温が下がる。
「ええそうよ三十個よ文句ある? ねぇ文句あるの私が太ってて! アンタなんか筋肉の癖に、キィ!」
精一杯歯を剥き出しにして威嚇すると、相手の構えが解かれる。怯んだのか。
「あぁ……三十個、いるのであろうな……」
微塵も怯んでいなかった。
それどころかよりにもよって、納得した素振りでぽんと手を叩き腐る小娘。その目線は私の腹に向いている。
「そこで私の腹を見るな! もう、アンタん所の太郎になんて手ぇ出さないからどっか行きなさいよ。しっしっ」
「……何故なのだ?」
全く可愛くない動作で首を傾げる筋肉女。動きに合わせて、はみ出した筋肉がムキムキと張りつめた。うぷ。
「……鏡見なさいよ鏡! アンタみたいな恐ろしいボディガードが居たんじゃ何も出来ないわさ」
ほらここもそこも! 指差し指摘する。
「……何か怪し過ぎるぞ!?」
疑わしげな視線。それをべしっと手で振り払い、少女を睨む。
「そりゃ怪しいだろうけど。私だって脱デブりたい一心で色々やったけど、よぅく考えたら太郎の筋組織なんて調べても意味がないのよね。学術的価値はありそうだけど、そっくりそのまま私の全身ととっかえっこ出来る訳でもないしさ」
「じゃあ何故主殿を襲ったのだ!? 犬モドキから端を発し、最近では妙ちくりんな黒服達を家の周りにうろつかせている癖に!」
ズビシ! 大きなアクションでこちらを指差し返す引き締め過ぎた肥大筋肉娘。
その言葉に、はてと首を傾げた。何か話が噛み合っていない。
独、独と音を立てて地面を踏み閉め、柔らかい顎に手を当てる。
やわこい顎の肉をぷにぷに指で摘まみながら思考する。
生まれてこの方ふくよかなことに恨み以外の感情を持ったことはないが、ここのお肉だけは別だ。考え事の時に触っていると何だか落ち着く。
「アンタ、それ何の話よ? 犬モドキ? 黒服? アンタ病院行く?」
「な!」
「?」
驚愕の表情を顔に張り付けた小娘の姿に、私は更に疑念を抱いた。何言ってるのこいつ?
時間をおかず、違和感の正体に気付く。あぁ、もしかして誤解されているのかしら。
「えーと……まずは事実をはっきりさせましょう。脳なし太郎は以前、犬モドキ? とか言うのに襲われた?」
「……う、うむ」
あまり頭はよろしくないのか。自分が言うことではないが、霊感商法とかに容易く騙されそうな感じだ。
ていうか犬モドキって一体何なのかしら。
冷静に相手の動きを観察しながら話を進めて行く。
「で、私がたまたま太郎に襲いかかった後、今度は黒服の怪しい奴らが家の周りをうろつきだした?」
「うむ……だから」
「で、私が犯人だと。それは誰から聞いた訳? 自分で調べたの? 人づてに聞いただけ? 憶測?」
「い、いや……」
矢継ぎ早に質問を重ねる。暑いし早く答えてほしい。
こちらの言葉を飲み込む時間が必要だったのか、筋肉娘は汗を滴らせるまま難しい顔をして俯き、顔を上げ、右を見る。
そうしてやっと私に顔を向けた。流されるままの金の髪が風に揺れ、たなびく。
「えと……我はその、探偵に依頼して、主殿の周囲で怪しいのがぷくぷく肥満体のお主だったから……」
……どこまで失礼な娘なのかしらね。
憤りを力強く奥歯で噛み殺し、胸を張る。言いがかりも甚だしい。
「信じるかどうかは別として。私はそんなの関与してないわよ。偶然太郎の体質について詳しいこと聞いて、まぁ主治医だし心当たりがないこともなかったから、ついダイエットに利用できないか解剖したくなったけどね。私マッドだから」
「……むぅ」
当然、今一つ信用仕切れていないらしいレティシアの姿に溜息を落とす。手招きして、すぐ近くの喫茶店に足を向けた。
「いらっしゃいまーせ♪」
奇妙な節を踏んだ店員の声。
程良く効いた冷房が体を撫ぜていき、それに僅かな爽快感を得る。
カウベルの鳴る音にちらと振り返ると、警戒心丸出しの少女が続いて入って来たのを確認。
嫁の貰い手が存分にありそうな若い! 細い! ウェイトレスに「二名で」と短く告げる。
引き攣りも引き攣った営業スマイルで、何度も私のボンテージと小娘の筋肉を見比べる店員を訝しみながら空いている席に案内される。
サーブされたお冷を一息に流し込み、ついでに氷をガリゴリ砕いた。
黒革の上品な作りのメニューをぱらりと捲り、すぐに閉じる。
全ては家に帰ってからのアイスの為。三種のアイス乗せも本日の日替わりケーキもパフェも今は我慢。
「私はアイスコーヒーを。……アンタは?」
「わ、我はアイスココアをくれ」
「えと……アイスコーヒーミルクたっぷりお砂糖どっさりと、特大アイスココアですね? 少々お待ち下さーい♪」
はて、言ってないのにミルクと砂糖を多めに付けるなんて出来た店。一人頷き、背もたれに体重を預ける。
ギシギシギシ! 穏やかな喫茶店の雰囲気に合わない異音が響く。
「……」
無言のまま背を起こした。渋い雰囲気を漂わせる店内をぐるりと見まわし、物珍しげにこちらを盗み見ている他の客を片っ端から睨めつける。
見よ! このお腹周りを! ここに詰まっているのは脂肪ではない、貴様ら愚かな庶民の絶望だぁ! とばかりに目をかっ開いた。
ついでに犬歯も剥き出し。喉を低く唸らせる。幸せなカップルには理解できないどろどろした独り身的呪詛を込めたそれは正に鬼婆の顔。
「ひぃ! うわこっち見た!」
「写メ! 写メ!」
ふん。鼻を鳴らし白衣に寄っていた皺を指で伸ばす。
気を落ち着けるために深く息を吸い込むと、今まで気にも留めていなかった低いクラシックに気付いた。
クラシックは良い。重厚な音楽に自然と表情が緩み、お冷のグラスを指でつつく。僅かに残った氷がからからと音を立てた。
ヨイショと足を組み、眼前小洒落たアンティークのテーブルを挟んだ向こう側に居る明らかにパースがおかしい少女を見やる。
「何だか話が長くなりそうだから、取り敢えず入ったんだけどねぇ。誤解されたまんまだと診療所の固定客が一人減るからね」
「お待ーたせ致しましーた♪」
奇妙なアクセントを付けた店員の声が滑りこむ。手にした銀色のお盆の上には汗を掻いたグラスが二つ。
涼やかな透明のグラスに注がれたコーヒーに、ありったけの砂糖とミルクをブチ込み付いていたストローでぐりぐり掻き混ぜる。
カフェオレに限りなく近づいた元アイスコーヒーを口に含んだ。うん、丁度良い甘さだ。
水滴の付いた手を紙ナプキンで拭い、視線を頭上へ。
その先では、精緻なデザインのランプが仄かな灯りを店内に落としている。
「じゃ、まずはアンタからよ。私は早くアイス買って戻んなきゃなんないんだから、太郎の周辺で何が起こってんのかちゃきちゃき話しなさい」
「……とにかく、誤解は解けたのかしら?」
ズチュルルル。レティシアがココアを啜りながらコクコクと頷いた。
腕に巻いている細い時計を見ると、既に針が四半刻分動いている。
診療所の常の昼休みの時間が終わるまで、後二十分と言った所だろう。
テーブルの上に置いたままのアイスコーヒーは空、中の氷もすっかり溶けてしまっている。
「……その、久美子殿が一連の事件の首謀者でないのは、分かったのだ……すまぬ、疑ったりして……」
しょんぼりと項垂れるレティシア。
それを尻目に伝票を掴み、立ち上がった。
「ほら、話自体は終わったんだし行くわよ。それに私も全くの無関係でもないみたいだし……くぉらお前ら、食ってや・ろ・う・か……!」
独! 独! と地響きめいた音を立ててはす向かいのテーブルを威嚇しつつ、依然こちらを眺めていたカップルが半泣きになったので許してやることにする。
今に見てなさい太めの女性が美女のスタンダードになったら鍋で煮てぺろりとたいらげてやるわ……!
口の中で一息に呪いじみた不満を転がし、踵を返してレジへ向かう。財布を取り出そうとするレティシアを制して会計を済ませると外へ出た。
快適な非エコ冷房ガンガン空間から出た途端、纏った肉の鎧に突き刺さる大自然の脅威。折角引いた汗が再び噴き出てくる。
無遠慮な日差しを降らせる太陽を見上げ、一つ舌打ちをした。
ええと、大型スーパーはこっちだったかしら。
たったの二車線。対して広くもない道路に沿って歩き出す。ドスドスと重たい足音が後ろから聞こえている。
「あの……忝い! 我の分まで払って頂いて……!」
「おほほ、いいのよ別に。アンタまだ私より若いんだから。……そう……まだ若いなんて言われるのは今の内……!」
「はぁ……」
「……お、おほん。兎に角私も心当たりがないこともないから、探りを入れて」
「あぐっ!!」
滞りなく最後まで綴られるはずの台詞が、突然の悲鳴に遮られる。
ただならぬ物を感じ、反射的に振り返った視線の先には信じがたい光景が広がっていた。
音も無く歩道に横づけられ、後部座席の扉が開け放されている黒の高級車。
ぐったりと力の抜けた大柄な少女。
それを両側から支えるダークスーツ、サングラスの男ともう一人。
サングラスの手に握られた物々しい機械の塊から、バチバチと空気を灼く異質な音が響く。
決して、蹴躓いた所に手を貸したようには見えなかった。
ふと、もう一人の男が懐から黒い塊を取り出した。淀みなくまっすぐこちらへ向けられたその銃口が、一直線に空気を貫いてポイントされている。
真贋は分らない。だが映画でも見たことのあるそれはまさしく拳銃である。記憶にある物より細く延びているのはサイレンサーという奴だろうか?
小さな玩具の様なその機械に対して、未知の恐怖が背筋を駆け抜けた。
ひゅ、と声もなくただ息を吸い込む。
隔てる物なく晒された男の茶色の瞳に、明らかな愉悦の色が浮かぶのが見てとれた。こんな恐怖は今まで味わったこともない。
足が竦む。悲鳴を上げるどころか、身動き一つ取れないパニック状態に陥った私の命を繋いだのは、あろうことか黒服の片割れ。
バチバチと電流の余波を迸らせるスタンガンを依然手に持つ男が、銃を持った男に小さく声をかけたのだ。
怪訝そうに眉を顰めた男は、渋々と言った感じで懐に凶器を戻す。
「おい……出せ」
黒服の片方、スキンヘッドに頭を剃りあげた男が一瞬こちらを振り向く。
サングラスをずらし、不敵に口角を吊り上げるその姿には確かに見覚えがあった。
「んな……!」
親しい訳ではないが、確かに見知った顔。
その名前を呼ぶ前に男は車の中へと消えていく。きゅるきゅると耳障りな音を立てて急発進した黒の高級車は、見る間に遠ざかって行った。
ゴムが擦れた嫌な臭いと微かな道路上の焦げ付き、レティシアの持っていたバッグだけがそこに横たわっている。
「何よそれ……」
遅れてやってきた恐怖に全身がおこりのように諤々と震え、その場にへたり込む。運の悪いことに近くに人が居る様子はない。
そうだ警察。パニックに揺らぐ思考の中、それだけを考え付いた。
咄嗟に震える手でバッグを探る。
取りだしたシルバーの携帯電話のフリップを開いた所で、見慣れないアドレスからメールが入った。
件名は空。
「……警察に通報したいならどーぞご自由に……?」
フザケタ、余りにもフザケタメールの内容に、車が走り去った方向をきっと睨んだ。
ああそうならやってやろうじゃない!
電源ボタンを連打して待ち受け画面に戻り一、一、〇とプッシュ、通話ボタンを押す。
数回のコール音の後、答える男の声は限りなくこちらを馬鹿にした物だった。
たっぷりの侮蔑を含んだ耳障りな音が聴覚を刺激する。
「はいはいどうしましたかー? こちら誘拐犯でーす……くくく、先生は度胸が良いなぁ。通報はご自由にとは言ったが、次は……。この女を殺されたくなけりゃ、ガタガタ震えてお家の隅っこで蹲っててくれよ先・生? さっきは見逃してやったけど、とばっちりが行くかもよ?」
「……ッ。アンタ……!」
腹の底からせり上がった怒りの衝動に任せて、通話を断ち切った。
気づかぬ間に荒くなっていた息をつき、手に持ったままの携帯電話を乱雑にバッグに押し込む。
とぐろを巻いて体の中を渦巻く強い感情のまま、なけなしの気合いを振り絞り立ち上がる。
あの少女には義理も借りもないが、だからと言って見捨てるのは趣味じゃあない。
それに少女を浚った男とは面識がある。太郎の事もあるし他人事とは思えない。
多分あの連中がレティシアの言って居た黒幕のはず。
助ける為には何をすれば良い?
携帯は駄目だった。この街には公衆電話はない。
じゃあ警察に直接? 最寄りの派出所までどれくらい掛かる?
そこまで考えた所で顔を上げる。視線の先、所々に数人、明らかにこちらが気付けるように黒服の男たちが立っていた。
見張られてるのか。舌打ちを漏らす。
誘拐は何の目的で?
どうして彼女を狙って?
目的……そこでふと、一人の知り合いの顔が浮かんだ。
迷っている暇はない。思っている通りならアイツの所に連絡が、否脅迫が届くはず。
見張られているようだし、警察に連絡を取れない以上これしか出来ることは思いつかない。
――何より。
よろよろと踏み出し、地面に打ち捨てられたバッグを拾い上げる。
冷や汗を白衣の袖で拭い、一度大きく深呼吸。
「あんなクソガキに舐められたままで、いられるもんですか……!」
駆けだした。
低く吐き捨て、ともすればまたへたり込みそうになる弱気な足を叱咤する。
この場所からならば、走って行った方が早い。入り組んだ住宅街の道筋を思い浮かべながら、重い体を引きずるように急ぐ。
運動不足と脂肪、二つの壁に阻まれながらも少しずつ進む。背後を振り返ると、黒服が一人付いて来ているのが見えた。
止められない所を見ると、こちらの目指す方角は既に知れているのか。
……好都合だわ。
ほんの少しの安堵を原動力にくべ、砕けよとばかりにアスファルトを蹴った。
今はただ、それしか出来ることを思いつかないのだ。