第十二話 マッスルインザシー。
「ふはは! ふは! ふははははははははははは! 人々の視線は我に釘付け! 我も罪な女よのぅッ!!」
人人人。見渡す限り、埋め尽くすとまではいかないものの、それでも大量の人間がそこには居た。
遥か空の彼方にはギラギラと情け容赦なく君臨する太陽。
どこまでも続く蒼い空、ぽかりと浮かぶ白い雲。果てなく広がる塩気をふんだんに含んだ深い藍の水。
海である。
「うぎゃあああああ!!」
「メイデー! メイデェェェェェェェェ!!」
「誰か助けてくれーーー!」
「ウホ! 良い姉貴……!!」
自宅最寄の駅から電車で三十分強。そこから徒歩で十分弱。山と並ぶ夏の大レジャー場には、今阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
怒号。悲鳴。絶叫。涙。鼻水水着その他もろもろ。
新型ウイルスのパンデミック並の恐慌に陥った老若男女が恐怖に顔を歪める。
原因は言うまでもなく一人の少女。彼女が視線を振るたびに群衆は右へ左へ逃げ惑い、ポーズを一つ決める度に数えきれない数の人が力尽きる。
もう警察じゃダメだ。これはテロだ。自衛隊を呼べ。
後、最後に叫んだ奴病院逝け。行けじゃなく逝け。
俺はオーバーアクションに肩を竦め頭を振り、「HAHAHA困ったぜマイコー」と呟いた。様式美という奴である。
正直な所海辺のレティシアの姿など見たくもない所か想像したくもない。むしろ今すぐ帰りたい。
何故かって? 愚問さ。
「ぁん……! 見られ、見せつける悦び……! 我の肉体美が官能の炎にぬめり舐められておるぞ、ぬ、ぬはーーーー!!」
鼻息も荒くレティシアは身悶えている。海パン一丁でそれに立ち向かう俺は呆然と思った。
ただしレティシアの方は決して見ないまま。
「フリーダム過ぎる……」
もうコイツ置いてお家帰りたい。
ある夏の日、本来は楽しくて仕方のない海水浴でのワンシーンである。
マッスルインザシー
照り付ける陽射し。肌をじりじりと焼くそれが容赦なく砂浜に突き刺さり、反射した光が目を射る。
波打ち際では水の飛沫が飛び、跳ねた海水の粒が人々の体を濡らす。
パラソルを立て、寛ぐ者。目を閉じて太陽の下寝ころび、肌を焼く者や砂を蹴散らしながら楽しげに遊びに興じる者。
遥か水平線の先まで延々と続く海原のそこここで自由に泳ぎはしゃぐ者。
人々が思い思いに過ごす浜辺で、二人はとにかく抜群に視線を集めていた。
「ふははははははははは!! 真夏の海辺に我、参上!」
「お兄さま、撫子の水着、どう思いますの? な、何でしたら一番に感想を言わせてさしあげますわ!?」
……いい意味でも悪い意味でも。
素顔を隠す為の大きめサングラスに白のワンピースタイプの水着を可憐に纏った撫子の姿には男女問わずの讃辞や嫉妬。
大胆にも大きく背中を開いた際どいデザインで、足りない胸元からきゅっと締まったくびれ、そこから魅惑のヒップラインへと布地が続く。
その下、滑らかにシミ一つない淡雪のような細脚がすらりと伸び、爪の形すら可愛らしい未成熟ながらも蠱惑的な脚線美を晒し。
活動的に頭の後ろで一つに括られた黒髪が風に靡くことが、より一層撫子の美貌と白さを際立たせる。
僅かな陰影を付ける肩甲骨、丸みを帯びた肩口。
それらも匂やかな色気染みたものを振りまき、彼女は女性という種の魅力で持って強引に浜辺の男という男共の視線を釘付けにしていた。
扁平な胸部をモノともしない美しさである。惜しい。
扁平な以下略。
「あぁ……良く似合っているなぁ撫子の水着姿。流石スタイルが良い……まるで女神様のようだよ!」
「うふ、うふふ……あ! お、お兄さまに褒められたからって嬉しくありませんわよ!? 勘違いなさらないで!」
ざらざらと砂を吐けそうな台詞を、撫子から外し明後日の方向に向けた視線のまま呟く。
普段ならこんなセリフは言わないが、今は別だ。少しでも現実逃避したい。
主に、そう、撫子の隣で仁王立ちしているであろう第一種怪筋肉生命体から逃避したいのだ。
「主殿ー! 我の水着はどうであるかッ!? この、くびれ! キレてる、筋肉! っふぬ!!」
聞こえない聞こえない聞こえない。
そうだな、レティシアがスキューバダイビングに使うようなウエットスーツを着用しているならば!
俺には何の被害もないし何より海に遊びに来た一般市民の方々にトラウマを植え付けることもないのに。
何故こんなことになったのか。
涙か絶望感か、兎に角霞みそうになる視界を宥めつつ、俺は昨日のことを思い出していた。
「お兄さまぁー、お風呂掃除終わりましてよ。他には……ちょっと! 邪魔なんですけど!?」
「うむぅ……」
何時も通りの六畳一間。せせこましい小市民的住居であるボロ木造建築に、三人もの人間がぎゅうぎゅう詰まっていた。
言うまでもなく、俺、筋肉、撫子の3人である。狭い。
先日撫子が越して来てから、既に何日か。
「家事をしてやる!」の言通り、夏真っ盛りの中撫子は甲斐甲斐しく我が家の面倒を見てくれている。
毎日何くれと顔を出しては、掃除し洗濯し俺と嫌々ながらレティシアに餌付けし、と過ごしているのだ。
単純に考えても、自分の家よりここに居る時間の方が長い。家計簿もきっちり付けている。こんな出来た妹は中々いまいよ、有り難い。
しかしいくら暑いからと言っても薄手の服で動きまわるのは勘弁して欲しい。
まぁ胸部装甲が絶望的に薄い為、ロリーな巨乳お姉たん萌えーな俺には軽微たるダメージだが。
敵兵、未ダ見エズ!(断崖絶壁的な意味で)
「お兄さま! もう、この居るだけで不幸せになる座敷筋肉をどうかして欲しいのですわ!」
そんな撫子が声を上げる。ピンクのキャミソールに、ちょっと際どい白のミニスカートを纏った義妹の尤も過ぎる意見に頷いて俺も声を上げた。
「……レーティシアさーーん、何ーやってんの〜〜?」
おう。ここ最近のだらけきった生活のせいで声までふ抜けている様だ。
いつもなら家事とか何とかやることがあるが、撫子が全てやってくれる、というか俺が家事するのを好まないので何も出来ない。
手伝いならばOKされるが、この手狭な部屋では一々手伝いを買って出る方が邪魔になるのだ。
何か仕事したい。最近の俺のニートっぷりには目を瞠る物がある。
どうにも暇なので、撫子を揶揄って踏まれたりレティシアに連れられて筋トレしてたら撫子に踏まれたり撫子をべた褒めして踏まれたり庇おうとするレティシアに良い感じに頸動脈を圧迫されたり撫子と買出しに行って往来で踏まれたり。
……あれ、俺踏まれてばっかりじゃね? ていうか、天下の往来で踏まれるのは最早それ調教じゃね?
「うむ……もちろん我の筋肉を鏡に見せつけているのだが……」
どんな趣味だそれ。表現が新し過ぎる。
「この筋肉をな、より多くの人、より広い場所に知らしめる方法はないかとな。後我は暇だ。遊びに行きたい……ふ・ぬ・ぁ・あ!」
「……迷惑過ぎですの」
同意。
そういえば以前、デジカメで撮った写真をボディビル協会に送った所、熱烈なラブコールが来たことがあったか。
レティシアには内緒で送ってみただけなので丁重に辞退したが。
異次元的筋肉を鎧うレティシアだけで臨界点突破なのに、それにさらなるマッシヴが絡むのなんて只の地獄絵図だ。
肩を組むマッスル達。ポーズを決めるマッスル達。オイルでテカテカる白い肌、浅黒い肌。右を向いたら大胸筋。左を向いたら三角筋。
立ち込めた熱気がむんむんと充満し、滴る汗が筋肉から更に迸る。兄貴、兄貴、兄貴、兄貴! そしてその中心に兄貴を超える超・姉貴!
BGMはケツドラムだ。
「うぷ……! 駄目だ、想像しては駄・目・だ……俺のバカバカ!」
床に転がりバランスの取れない達磨の如く七転八倒を決める俺を余所に、撫子とレティシアだけで話は続いて行く。
「遊び……そうですわね、確かに夏だし、どこかに行きたいものですわ。ほら、ポーズは良いから汗をお拭きなさい」
「うむ……かたじけない。どこが良いかな。我は余り遊びに詳しくないのだ」
「まぁ、定番と言えば……海か山じゃありませんの?」
「ぬぁ、海! 海海!」
「はいはいもう、子供ですか貴女は……海ですの、確かに皆で行くのも楽しいかもしれませんわね。……熱い砂の上に転がるお兄さまを、踏み……うふ」
「……撫子殿?」
「じゅるり……あ! 何でもありませんわ!? お兄さま!」
「ヴぁー」
やる気のない声を上げる。流石に俺でも展開が読める。買い物に行くから着いて来いと。
「そういうことで撫子達、水着買いに行って参りますわ! お留守番よろしくお願いします」
「あれ……つ、着いて行かなくていいんですか?」
思わずババッと起き上がり、正座。驚愕に目を見開く。
これはもしや……一人になれるフラグ!? ロリお姉さん巨乳画像フォルダを充実させるチャンス!?
と期待に目を輝かせていると、撫子は髪をかき上げ侮蔑の視線を飛ばしてきた。特に意味もなく、背筋に冷や汗が流れる。
何を言われるのか。というか、何故軽蔑の視線を向けられねばならぬのか。
「……別に、着いてきても良いですけど、お兄さまは女性の水着姿を舐めまわす様に視姦するのでしょう? ……この変態め」
予想外! 撫子の中の俺象は一体どうなっているのか。腕を振り上げ抗議する。
「ひど! そんな変態じゃありませんよ!」
「まさか、我の体も!? 舐め回す様に!?」
「お前は黙れぇぇぇぇぇ!!」
分厚い両の腕で大胸筋辺りを抱き抱え、身を守るように一歩遠退いたレティシアに痛烈な突っ込みを入れる。
深い深い溜息を吐き頭を抱えた。撫子のほっそりとした足で小突かれて顔を上げる。
「ふぅん……変態ではない、と言い逃れをするんですの?」
腕を組み、顎を逸らして仁王立ち。女王様の貫録を身に付けた義妹の姿に気圧される。ちらと視線をレティシアに振り、助けを求めたが両腕で×印。
決して屈強な両腕でクロスチョップの体勢を取っている訳ではない。否定のジェスチャーだ。助けは望めない。
「は、はい……この高潔な私めが変態などと、その様な世迷い言……」
「嘘仰い! お兄さまのパソコンの中にある、windows system backupフォルダのこと、隠せるとでもお思いでしたの!?」
「ぎょわーーーーーー! な。なななな何故それを! 二重三重に隠していた俺の巨乳ロリお姉さまフォルダおぶ!」
飛び上がって叫ぼうとする。しかし、膝をあげようとした所で顔面に撫子の足の裏が突き刺さった。
絶妙なバランスで顔を踏まれ、身動きが取れない。
「ふ、ふ、ふ……何が巨乳ですの? ん? 貧乳には興味などないと生きてる価値がないと? あん? あぁん!? ほらほら這いつくばって足をお舐め……!」
「ちょぶ、やめふぇくらはいだだだだだ! 鼻が! 鼻がー!」
げしげしと踏まれ蹴られるまま、俺は成す術もなく涙目になっていく。修羅の表情を宿した美し恐ろしい妹は、半ば全力で俺を踏みしめていた。
……あ。
「黒のレースとはまた、大人っぽい」
「……! ……!」
あ! やめ! ごめ! の、乗ってる!? なでじごの足が、ほっぺたに乗ってぶぶぶ!
「あら……何故かしら。と、つ、ぜ、んお兄さまの顔の上で片足垂直跳びやりたくなりましたわ……ふふ、うふふふふ! 愉快!」
「撫子殿、そ、その辺にしておかないとリアル生命の危機が……」
レティシアのおずおずとした静止の言葉に、撫子のジャンピングスタンピングが止まる。
びっくんびっくん痙攣しながら意識を半分飛ばしている俺の体に、ようやく安息が訪れた。
あれは……川? 何かこの川越えたら楽になれそうな気がするー……。
「な、撫子殿! 主殿の顔が、顔が! 幼児のトラウマ級に!?」
「……はあっ!」
「げふぁ! ……あれ、川は? おじいちゃんは?」
腹に突き刺さった衝撃に意識を取り戻す。
起き上がり、きょろきょろと辺りを見回した。蒼い顔をしたレティシアと、憮然とした撫子以外に人は見当たらない。
「あれ? 俺今何してたっけ? あれあれ?」
思い出せないぞ。手招きしていたおばあちゃんはどこだ。……おばあちゃんって誰だ?
「お兄さまが海に連れて行ってやると仰いましたので、撫子達は水着を買いに行こうとしてる所ですの」
「撫子殿!?」
「あぁ、そうかぁ。行っておいでー不審者に会ったらレティシアを見せるんだよ。はいお金」
何故か痛む頬を摩りながら、二人を手招きする。一応お金を渡して、玄関から元気良く外に出て行く後姿に手を振った。
レティシアの憐れむような視線が気にかかる。
……何か忘れているような気が……。
まぁいい。兎にも角にも今はチャンス、お姉さんフォルダを充実させるのだ。
早速パソコンの電源を入れる。おなじみのロゴをまんじりと見つつ、ログイン。
Dドライブの……クリック。クリッククリック。
「な!」
思わずパソコンの筐体を掴む。予想だにしなかった出来事がそこで起きていた。
「十GBを越えるロリ巨乳お姉さんフォルダが……ないだと!? ななな何で! そうだ、検索だ!」
慌ててフォルダの名前を検索し、どこか違う場所に移っていないか探す。
――しかし、暫しの時間を挟んで表示された結果は。
「……該当なし……。ゴミ箱にも間違って捨てられてなし……ふふ、うふふふ。これは夢。そうきっと夢……」
あぁ、努力の集大成が。一つ一つ丁寧に名前を変えて、見やすいように整理していた魔法の画像達が。
今、ご臨終。
「あ、駄目だこれ鬱だ死のう」
パソコンを閉じ、ついでに自分も後ろに倒れ込む。入りこんだ陽射しが目に沁みて涙が出た。くすん。
――ということがあったのである。
結局記憶を取り戻してしまった俺が撫子に涙ながらの抗議をし、踏まれたエピソードは割愛する。
俺は変態ではないので、好き好んで踏まれた一部始終を説明する気にはなれないのだ。
「主殿!」
むん! 夏の日差しに勝る暑苦しさが、俺の肩を掴んだ。万力の如くギチギチ締め上げられる肩の痛みを無視しつつ、必死に目線を遠くに飛ばす。
ガシ! と今度は頬の両側を掴まれた。力強く挟み込まれているせいで正視に堪えない面白顔に変化しているはずの俺の顔。
首に力を入れ抵抗するも、当然力負けして徐々に正面へ視線が移動していく。
そして遂に――
「あ・る・じ・ど・の……!」
「ひぐっ!」
喉の奥が引き攣り声が出ない。ざあざあと血の気が引いて行く音が耳の奥に響いた。
一体何を考えているのか。
長い金髪はよりによってツインテール。黒のリボンで可愛らしく纏められた髪の毛のせいか、普段より幼く見えるのが悪魔的破壊力。
駄菓子菓子。百八十センチを超えるマッチョでマッシブでビルダーな体に黄色と黒の縞々極小ビキニを貼り付けたその姿。
……いいか、ビキニだ。ウエットスーツでも、ワンピースタイプでもない。レティシアはビキニを着ているのだ……! しかもツインテール!
常より五割、いや八増し増しに露出を増やしたそのビキニは、僅かに大事な部分と大胸筋のてっぺんを覆っているのみ。
何というかこう、筋肉が付いていてもその上に乗っかっているはずの脂肪の塊などどこにも見えず、ただ縞々水着はぺったりと肌を隠している。
自分の方を向いたことに満足したのか、俺の前で次々にせくしぃポージングを取り始めるレティシア。
動きに合わせて、括った二つのテールが空気を裂き、硬直した俺の視界に容赦なく筋肉達の圧殺的キモさが押し寄せる。
「うふん……!」
ウインクと同時に首を支える頑丈な胸鎖乳突筋は頭板状筋や肩の僧帽筋、三角筋が張りつめ。
汗でテカテカ輝き。
「あっはぁん!!」
胸元を強調するポーズでは割れに割れた大胸筋の谷間から腹直筋、前鋸筋、外斜腹筋がうねり。
汗でヌルヌルぬめり。
「ぬは……!!」
体を捻った際には背中の力強い広背筋や菱形筋、ビキニで覆われた大臀筋や中臀筋がはっきりした窪みを作り。
汗でヌラヌラ照り返し。
「主殿に見られておる……!!」
大地を雄々しく踏みしめる丸太のような大腿筋群、ヒラメ筋や腓腹筋がパッツンパッツンに隆起して大地を踏み閉め。
汗でヌトヌト日差しを跳ね飛ばす。
ヌラヌラ汗を滴らせるその姿は、正に有害の一言に尽きた。放射能かこれ。
「……おぶ! グロい……この世のものとは思えない位グロい……!!」
「ひぃぃ!!」
聞こえた悲鳴にようやっと新鮮なグロ世界の精神呪縛が解け、振り返る。
「おぉう……」
そして絶句。
つい先ほどまで親子連れやカップル、仲の良さそうな男や女のグループなどが犇めいていた浜辺からどんどん人気がなくなって行くのである。
パラソルを畳み荷物を抱え、子供の手を引いてついでに写メでもと携帯を向けた老若男女が次々と倒れ伏す。
瞬く間に、半径三十メートル以内の人間が熱い砂浜に熱烈な抱擁を成し遂げた。
以前買い物に行った時の比では無い。ゴスロリ服を着せた時並、いやそれ以上の圧倒的防御無視精神攻撃力。
「あぁん、何という視線の数……! 我は、我は、我はもう……気をやってしまいそうだ……! 筋肉が喜び打ち震えておる!!」
お前以外の皆が気をやってます。あと吐き気で痙攣しています。
余りに広範囲な攻撃の威力に、俺は少し落ち着きを取り戻した。
死屍累々と転がる、墓まで持って行けそうなトラウマを抱えてしまった無辜の人々に手を合わせ冥福を祈る。
どうでもいいけど熱中症とか心配しないでいいんだろうか。
「ちょっと! 何で無差別に精神汚染波を撒き散らしているんですの!? お兄さまも目を逸らしてないで、少しは注意して下さいまし!」
良い所で撫子が割って入る。その手には飲み物が三つ。近くの自販機で買ってきたのだろう。それを俺たちに手渡しながら、眉根を寄せている。
出来た子だ。しかし、このレティシアを見ても何も思わないのだろうか。
「はいお兄さま。炭酸でよろしいですの? 私は紅茶、レティシアは水。……あ、海に入る前にはちゃんと準備運動するんですのよ」
「はーい」
素直! 何て素直なのレティシア!
俺は猛獣使いを見る目で撫子を見た。視線があった彼女は小首を傾げ、手に持った缶を振る。
「……飲みたいんですの?」
「いや、俺コーヒー党だし。ってか開いてないじゃん。……開けれないとか?」
「別に、力が足りなくてプルタブを起こせないなんてことは……! な、何で笑ってますの!?」
「我が開けようか? 我なら握りしめただけで開けれるぞ、こう、ぶしゅっと。さぁ、我に開けさせてくれ! さぁさぁ!」
「……結構ですわ」
レティシアの参入で、一気に異次元的になる会話に頭痛を覚えた。普通、缶を握りつぶして開けたりはしない。出来てもしない。
とりあえず撫子の手からアイスティーを奪い、開ける。小気味良い音を立てて普通に空いた紅茶の缶を、再び撫子の手に戻した。
「あ、ありがとうございますわ……」照れた様に頬を染め、ぼそぼそと呟く撫子。
まぁ兄ちゃんだからな、と笑い、話題を戻した。
「で、あの撫子さん。どうしてあのビキニ筋の塊を見て怯まないんですか」
ビキニ筋=ビキニを身につけた筋肉の塊、であるのであしからず。
しかし個人的に非常に気になる所だ。二人で水着を買いに行ったのなら衝撃も少なかろうが、それにしても平然とし過ぎている。
その秘訣を是非伝授して欲しい。
多分どこかの流派の奥義になる。
「怯むもなにも……レティシアの筋肉が無駄に気持ち悪いのはいつものことですし。それに」
「それに?」
ぐっと撫子に身を乗り出して耳をそばだてる。すると心底嫌そうな顔の撫子にぐい! と繊手で押しやられた。
冷たい缶を持っていたせいか、ひんやりと僅かな冷たさを感じるその手。
「あの水着選んだの、撫子ですもの」
「YOUはショック!!」
ブルータスお前もかー! 叫び、母なる大地に五体倒置。訝しげに俺を見下ろす撫子に対し、地面からビシ! と指を突きつけた。
「あの水着! ダウトー!! 何がどうなってあれを選んだのですか十五字以内句読点含むで答えてください!」
「え、可愛くありませんの!?」
十三文字! でも残念不正解ブッブー!
兎に角体を巡る「ぬああ!」な激情のまま、砂を蹴散らし地面を転がる。
「もう、恥ずかしい! お兄さまはどうしてそういつもいつも脳が変なんですの!?」
強制停止。六回転目で見事に踏まれた。
勿論、お前のセンスの方が変だよ! などとは言えない。トップアイドルでモデルもやってるくせに何であんな水着を選ぶのだ。
破壊力という点ではこれ以上ない位大正解だが。
「全く……んん、それにしても、直に踏むというのもそれはそれで……」
「ノー!」
妹がダークサイドに落ちる前に、何とか足を振り払った。何でこんなSいんだろうこの子は。
そのまま勢いで立ち上がり、波打ち際でポージングをキメているレティシアを指さす。余りにもキモいのですぐに指を下ろした。
「あんな、あんなの……! くっ、体が拒否反応起こすから直視出来ないっ!」
そして冒頭の光景に戻る訳である。
「ふはははははははは!! 我の美しさを目に焼きつけ、生まれてきたことを感謝するが良い! もっと見て見て!」
大量の遠巻きの視線に興奮したレティシアのテンションはフルスロットル。留まることなくひたすらそのビキニバディを見せている。
きっとその内、捕虜の尋問にはムキムキマッチョな女性のポージングを見せつけるという方法が採用されるに違いない。
何という歴史的キモさ。きっと歴史の教科書に載る。写真付きで。
「あの子はまぁったく疲れませんのねー。さ、お兄さま。水遊びしに行きましょう」
呆けた様に陽射しの下、どんよりと立ち尽くしていると紅茶を飲み終えた撫子に手を取られた。
引っ張られるまま波打ち際まで近づき、素足に当たる水の感触に我に返る。
「あら泳ぐのか? ……もうあの怪奇現象から逃れられるなら何でも良いです。どうせだし、海に向かってルパンッダーイブ!」
「あ、ちょっとお兄さま!? あう!」
ばしゃばしゃと水を跳ね飛ばし、撫子の手を握ったまま沖へ向かって駆けだす。程良い深さの所で海水に飛びこんだ。
一度深く潜り、驚いた表情を浮かべている撫子の額を指で小突く。
サングラスを奪い取り、そのまま抜き手を切って泳ぎだした。泳ぎは得意でも不得意でもないので、ごく普通のスピードだ。
「ぷは! ちょ、お兄さま! それ取られたら撫子困ります……!」
背後から、撫子の焦った声が届く。確かに困るだろう。
肌露出型無差別精神掘削機と化したレティシアのお陰で人がやや減ったとはいえ。
人ごみの中にアイドルが居るとなれば騒動が起こるに違いない。
でもそんなの関係ねー。一度向き直ってあっかんべーとしてやると、青筋を浮かべた撫子は猛然と波を掻き分け泳ぎだした。
まだ距離があるので、少しだけその姿を眺める。
清楚系を気取ってる癖に運動神経がやたら良い妹だけあって、伸びやかに動かされる手足は軽やかに水を裂き、日差しを反射してスピードに乗る。
見る間に近づいてくる美しい姿に笑みを浮かべると、反転して逃げることにした。
「っ! 捕まえましたわ!」
「ってはや!?」
いつの間に追いつかれたのか。速すぎである。ウサギとカメさん並の性能差だ。
俺はいくらかも距離を稼げずに撫子に捕まった。大人しくサングラスを返してやり、浜辺に目を向ける。
「おー、まだやってますぜ筋肉姫様……」
視線の先では、レティシアがどんどん最高撃墜数を更新している。あぁ、自己新。店内最高スコア。歴代新スコア。
海にも入らず暑くないのだろうか。
「ちょっと、何でサングラス取って行きましたの!? 波打ち際で水遊びするだけのつもりでしたのに」
「いて! 抓るな抓るな千切れちゃう! ……いや勢いもあるんだが、アイドルなんてやってたらこんな風に遊ぶ機会ないだろ。顔隠したりとかメンドイし。沖に来ればあんま目立たんから、好きに泳げるかなってな」
一番の理由は、レティシアから離れたかったからだけどな。頭の中だけでそっと呟く。
一応色々考えているのだ。いつも踏まれてばかりの駄目兄でも、兄は兄。妹のことを気にかけるのは当然のこと。
つらつら立ち泳ぎで波間を揺蕩いながらそんなことを思っていると、不意に肩口にほっそりとした手がかかった。次いで小さな小さな声。
「もう、いつも何も考えていなさそうな癖に……」
更に額をコテリと預けられる。冷たい海水の中、そこだけが確かな温かさを持っている。
しかしそれも一瞬のこと。振り返ってからかってやろうとした時には、いつも通りの撫子の顔がそこにあった。
太陽の下、サングラスに隠されていない笑顔を咲かせたその美貌が眩しく、つい目を眇めてしまう。
「さぁお兄さま? それならレティシアも一緒に、今日は沢山遊びましょう! ビーチボールも浮き輪も西瓜も持って来てますから!」
言うや否や、レティシアを目指して泳ぎだす撫子。清楚キャラになってからは珍しいそのはしゃぎ様に思わず笑みが零れた。
海は、楽しい。早く三人で遊ぼう。
思い、俺も撫子に続いて水をかき分ける。
奇妙な縁で始まったマジカル☆魔法少女(自称)との生活が、何だか今はとても楽しい物になってきていた。
「レティシアー! ビーチバレーしますわよ!」
「ぬぅ……はぁあ! この躍動感。デカイ! キレてる! ……ムラムラ! ……はっ、な、撫子殿!?」
「ビーチバレー。ほら、お兄さまも戻って来ましたし、貴女が居れば鬱陶しいファンも寄ってきませんし」
「うぶぶ……は、早過ぎるだろ撫子……常識的に考えて……」
へたり込む俺の目の前に、しぼしぼのビーチボールが突き出された。
顔を上げ、レティシアのお陰で周囲に人が寄りつかない中、素顔を晒す妹の顔を見る。
膨らませるの? 視線で問うた。
膨らませるんですの。視線で返された。拒否は即ゲームオーバーに繋がる可能性大だ。
急な運動で波打つ心臓と肺に鞭を打って、それを受け取る。やけくそ気味に空気を吹きいれた。ボールは結構大きく、意外に肺活量が要る。
何とかまんまるい形になるまで息を吹き込むと、酸欠で頭がクラクラした。日ごろの運動不足がたたっているのか。
「あはは! お兄さま、だらしがないですわよ?」
「主殿ー! 我はビーチばえーは初めてだ! 早く遊ぼうハリーハリー!」
「だから少しは俺に気を使えと……ていうかばえーじゃねぇですバレーですぅ! やー、ごは!」
剛速球。
馬鹿にしてやろうと放った言葉が終わる前に、撫子が上げたトスを、高々と飛び上がったレティシアが筋肉の国的グレイトマッスルで全力打撃。
かなり本気目の殺人スパイクを俺の顔面に叩き込んだ。
堪え切れず傾いでいく視界の中、「いえーい!」「いぇーい」2人が仲良くハイタッチを決めているのが見える。
何だかやられてばっかりだ。
――だけど。
「へへへ」
「わ、笑っておるぞ!?」
「頭の病院に連れて行くべきかしら?」
もはや痛みすら日常の一部。楽しくて楽しくて仕方がない。
視界に写る筋肉と貧乳。青い空、白い雲。
耳に届く潮騒も、人々が放つ阿鼻叫喚の精神的断末魔も。
鼻をくすぐる磯の香りと肌を焼く陽光、じんわりと熱い砂の大地でさえも。
その全てが俺の幸せの一欠片。
「ふへ、ふへへへへへ」
「主殿!?」
「こ、これは流石に……」
しかし頭を打ち過ぎて、もう駄目かもしらん。
たらり。鼻血が一筋、垂れるのが分かった。
「なんらかキモチイイら〜」
俺の呟きに、慌てる二人の姿が印象的です。
結局この後疲れてくたくたになるまで、ビーチバレーやビーチフラッグ、砂に埋めた俺の横に西瓜を設置する残酷な西瓜割りをして楽しんだ。
浮き輪でぷかぷか浮いている間が一番平穏だったと思う。
嗚呼、海って楽し恐ろしい!