男爵家の娘の私が気弱な王子の後宮に呼ばれるなんて何事ですか!?
夜も更け、人々が灯りを落とし始める頃。女達がひしめいている後宮では、まだ煌々と灯されたままだ。
贅を尽くされた後宮にしては簡素な一室で、今日後宮に上がったばかりのミアは小さくため息を吐いていた。
(まさか、私が後宮に呼ばれるなんてね)
未だに信じられない、とミアは静かに眉を寄せる。
一応貴族の令嬢といえどミアの父は男爵であり、皇子のお相手をしてお世継ぎを生むべくして集められる後宮に相応しいとは言えない。
例年通りの後宮であれば、もっと位の高い娘を入れるのが習わしである。
おかしなことになったものだ、とミアは思考を巡らせた。
一週間前、突然後宮に上がるようにと使者が送られて来て、父と共にこれ以上ないほどに仰天としたことをミアは思い出す。
父はまだ幼い後継の弟の代わりに長女のミアを信用して仕事をたくさん任せていた。ミアも喜んで仕事をするような性格で父を助けていたものだから、数日間は随分と右往左往したものだ。
本当のことを言えば行きたくなかったが、もちろん後宮に向かうことは断れないことであるから、慌てに慌てて基礎的なことだけを学んでここに来たのだ。
少しだけ習った後宮作法と今まで学んできたこと。それがここでどれだけ役に立つのだろう。
ミアはそんなことを考えながら、用意されていた装いに袖を通して鏡の前に立つ。
切り揃えられた黒々とした髪は意志の強さを象徴としているようだし、大きな瞳は目尻が上がっていて凛々しい。おまけに女性にしては背は高い方だ。可愛らしい、というより綺麗だという言葉が似合う。
美人だとは評価されてきたものの、とっつきにくいタイプであることはミア自身把握していた。これでは皇子のお眼鏡に叶うどころではないだろう。
意外とすぐに帰れるかもしれない、とミアは密かに笑みを零した。後宮に上がれるなんて名誉なことだと祝われたが、ミアはそうだとは思っていなかった。
(毎夜来るかどうかも分からない皇子を待つだけの日々なんて御免被る。一体なにが楽しいんだか。少なくとも私には向いていない)
女だらけの場所というのも慣れないし、自分が何の為に存在しているのか分からなくなりそうだ。家で父の仕事の手伝いなんかをしている方がよっぽどマシだろう。
幸い今日は初日ということもあり、皇子が通ってくる予定だから、少なくとも暇ではない。
夜、というものがどうなるかはミアには深いことは分からなかったが、こんなことはなってみないと分からないと腹をくくっていた。
後宮に上がった以上、清らかなままで出られるとは思っていない。仕方のないことだ。一応の教育は受けて来たのだから、後は神のみぞ知るというやつだろうと思っていた。
(それにしても、やはり今の第一皇子はどこかおかしい)
決して口に出しては言えないことをミアは頭の中で巡らせていた。
しかし、それは皆が口には出さないだけで暗黙の了解となっていることであった。
何故ならば皇子は今年で十八になったというのに一人の子も成し得ていないのだ。
第一皇子の後宮が開かれて優に三年は経つ。それだけ経っても一人も懐妊の兆しを見せないというのははっきり言って異常だ。
多くの民のように相手が一人というならばあり得る話だが、ここは後宮だ。幾人もの相手がいる。女側に何か問題があったとして、全員というのはあり得ない。
それに加え、この後宮にはかなりの人数が集められているという。今の国王陛下よりも多いだろう。
皇子は若いからたくさんの女が欲しいのだ、なんて下世話にも囁かれているが、それなら子供を授からないことが尚更不思議だ。
淡白であるというならまだしも、欲望があって子供を授からないというのはどういうことだろう。
(まさか、皇子ご自身がどこかご病気にかかられている? いや、それなら城の医者が気づかれないはずもない。子が出来にくい体質で、それを公には出来ないからこうして闇雲に女を集めているの? だから私のような者も呼ばれた?)
同い年で健康的な者の方が懐妊し易いと考えたのだろうか。確かに部屋の中で蝶よ花よと育てられている令嬢よりは運動をしているし身体も引き締まっているだろうけど、とミアは一応の納得をしてみせる。
どの道、自分に選択権はないのだから。そう考えたところで、軽やかな鈴の音が響いた。ミアはハッとして立ち振る舞いを正した。
鈴の音は皇子の訪れの合図だと教えられている。普通は先触れに側仕えの一人でもやってくるものではないかと思ったのだけれど、皇子たってのご希望らしい。
女とは二人きりで逢いたいから他の人は不要だと。つくづく変わった人だとミアは眉を顰めたものの、即座にそれを正して頭を下げた。
微かな衣擦れの音がして皇子が部屋に入って来たことをミアは把握して、決められた挨拶を口にする。
「エレン殿下、お初にお目にかかります。ミアと申します。この度は殿下の一夜のお相手が出来て誠に光栄に存じます」
長ったらしい挨拶を間違えずに言えたことに安堵しつつ、皇子が一言も発しないことを訝しむ。
話さないどころか近づいてさえ来ない皇子への対応についてミアは必死で頭を巡らせた。
そういう勉強は一応してきたけれど、それは大抵皇子が積極的にこちらを求めてくるという前提があるものだった。
それに対してどう応じるのかということを中心的に学んだのであって、これは予想外だったのだ。
「失礼ながら、御身に触れさせていただいても宜しいでしょうか?」
皇子の気が乗らない場合はこちらからその気になるように動きましょう。という教えをなんとか思い出す。
それでも皇子は何も言わない。むしろ一歩後ろに下がってしまったようだ。ミアは不躾だということを承知の上で好奇心に勝てずにそっと視線を上げた。
初めて間近で見る皇子の顔はひどく青ざめていた。
まだ幼さの残るものの、整った顔立ちが可哀想なくらいに辛そうだった。もしや体調でも悪いのでは、とミアが思わず皇子に近づく。
ひっ、と引き攣ったような声が上がったかと思うと、皇子が初めて言葉を発した。
「よ、夜伽は不要だ」
ひどく震えていて怯えた声だった。何をそんなに、とミアは困惑する。
やはり調子が良くないのかもしれない。だとすれば誰か呼んだ方が良いのだろうか。
「誰かお呼びしましょうか。御付きの方はどちらに」
「ふ、不要だ」
切羽詰まったような声なのに不要だというのは何事か。
皇子が考えていることがさっぱり分からない、とミアは内心溜息を吐きながらも丁寧な言葉で続ける。
「それなら一度寝台でお休みになられてはいかがでしょう」
これなら大丈夫だろうと思ったのに、皇子は何故かより一層怯えてしまったようで、今やはっきり見て分かるほどに震えている。
ミアとほとんど変わらない背丈を縮こませているためにひどく小さく見えた。
「だ、だから夜伽は、ふ、不要だと言っているのに……」
そう言いながらも怯えているために威厳なんてものは見当たらない。子供が怖がって駄々をこねている姿に一番近いだろうか。
ミアは更に必死で考えていた。この状況はかなりまずいのではないか。自分がどうにかしなければ、と。
そしてミアは分かりやすいように一歩後ろに下がって見せた。それから宣誓をするように片手を挙げる。
「……私は殿下の許可なく触れたり致しませんし無理に夜伽を行わないと誓います」
何が起きたか分からない、という風におはミアを見つめていた。
真一文字に結ばれていた口をミアは少しだけ緩める。皇子を安心させるためだけに。
「これなら怖くありませんか?」
それは多少のぎこちなさはあるものの、思い遣りを感じられるものでもあった。
それを見た皇子の目から堰を切ったようにぽろぽろと涙が零れる。
(この皇子、私と同じ歳だというのにまるで本当に子供じゃないか。弟といい勝負……いや、それより幼い)
そう思いながら、ミアは笑顔を引き攣らせつつ、皇子を再度座るように勧めた。
怯えた子猫のように背中を丸めて寝台に座る皇子から離れた位置の椅子に腰掛けたミアは、困惑と納得の入り混じった顔で頷いていた。
「……つまり、こういうことですか」
ミアがなんとか宥めるようにして落ち着かせた皇子は、ぽつぽつと己の事を語った。
ひどくゆっくりと覚束ない喋りをミアは弟と接するよりも更に根気強く聞き、それをどうにか纏めようとしている。
「殿下はそういった行為を極力避けたいと思っているけれど、ご自分の立場故にそれは許されない。一応こうして後宮に通ってはいるもののお役目は果てしていない。そして今夜も私とは何事もなく終えることを希望している。……ということですね」
合っていますか? とミアが尋ねると、未だ涙の跡が残る顔で皇子はこくりと幼子のように頷いた。
正直言って頭が痛いというのがミアの率直な感想だった。道理でお子に恵まれないはずだ。
当然だろう、為すべきことを為していないのだから、子供が出来るはずもない。むしろ出来たら驚きである。後宮の女が他の男となど笑い話にもなりやしない。
「……不躾な質問なことは承知しておりますが、殿下は何故そういうことを行いたくないのです? 下世話な事とは思いますが、相手に任せておけば殿下が何もしなくても事は終わるでしょうに。言い方は悪いですが、目を閉じて耐えれば終わるでしょう、こういうことは」
「そ、そういうことはお互いに想いが通じあって初めて行うことだと母様が言っていた」
皇子が顔を赤らめて首を振る。白い顔に生気が戻って何よりだ、とは言っていられない状況だ。
そういえば第一皇子の母である妃は随分と寵愛を受けていたと聞いた覚えがあるとミアは微かな記憶を頼りに思い出していた。
確か何年も前に亡くなってしまってからというもの王の後宮通いが盛んになっているという噂もあったはずだ。
その辺りの背景も考えると皇子がこういう発言をするのも仕方ないのだろうかとミアは密かに首を傾げる。
「それに皆、随分と積極的で、その、躊躇われるというか……人に触れるのもあまり好きではないし」
ぽそぽそと小さな声で付け加える皇子に、むしろそちらの方が納得できるとミアは深く頷いた。
ミアが顔を見る度に袖で顔を隠そうとする皇子はどうやら人見知りもあるようだった。
今日その日にあった人とゆっくり話もせずに即座に閨を共にするなんて無理な話だろうなと思わずにはいられない。
「でも皆、今日こそはと期待してくれているし、行きたくないとも言えなくて……」
皆というのは御付きの人達のことらしく、皇子は言われるがままにここに通っているらしい。
なんてことだろう、ミアは頭を抱えたい気持ちになった。
もちろん、御付きも皇子の性格はしっかりと理解しているそうだ。
そしてそれ故に、はきはきとした積極的な令嬢を集めていたようだが、しかしむしろ悪手だったと言わざるを得ない。
せめて静かに寄り添ってくれる人とゆっくり仲を深めていく方がまだ可能性があったと思う。まあこんなことを言っていても後の祭りではあるが。
(これはもう堂々巡り、いやそれよりも悪いな。皇子が本格的に女を嫌うようになれば事態は深刻化する。後宮自体に来なくなってしまうのも時間の問題だ。今ならばまだ改善の余地はあるかもしれないが)
どうして自分がこんなに悩んでいるのだろうと頭の隅で思いつつ、ミアは自分の考える最大限の良い方法を口にした。
「では、こうしませんか。今日、私と殿下は結ばれたということにするのです。もちろんこれは嘘ですから、何もしないで構いません。殿下は今夜何事もなくこの部屋で過ごして、明日には結ばれたと報告するだけでいいのです」
ミアがそう告げると、皇子は溢れ落ちそうなほどに目を見開いた。本当に子供のよう、とミアは内心思う。
「……不服ですか? 殿下に不都合はないかと思いますが」
「ふ、不服はないが、なぜ、そんな風に協力してくれるのだ?」
本気で訳が分からない様子の皇子にミアは一拍置いてから懇切丁寧に説明した。
何故、という理由はミア自身でも釈然としないままに。
「この状態が良いとは思えないです。確かにお役目とはいえ、殿下にしたくないことを無理強いすることが良い事とは私には思えません。いずれ殿下に良い人が出来たら結ばれたら良いと思います。……まあ、多少の妥協はいるかもしれませんが」
あれやこれやと望むのは自由だが選べる範囲は限られている。
皇子は複数の妃が選べるのだから最初から最善の妃をと思う必要はないのだ。もっと気楽に考えればいい。
流石にそこまでは言えないものの、大丈夫ですよと安心させるようにミアは微笑んだ。
「それなら……いや、でも、駄目だ。嘘だと気づかれてしまう」
「それは……どうしてですか?」
一瞬喜びに染まったかに見えた皇子の顔はみるみるうちに萎れてしまう。
一瞬顔を顰めそうになったミアはすぐに取り繕って笑顔を浮かべる。それを見た皇子は辛そうな顔のままぽそぽそと続ける。
「……王族の習わしとして、初夜の後はベッドのシーツを確認するんだ。それを見て、その、本当にしたかどうかを見て、ようやく信じてくれるんだ。結ばれたと発表されるのは、それからだ」
大変野蛮な行いではあるが、ある意味合理的だとミアは眉を顰めつつ納得して、しばし考え込んだ。
「……では、こうすればいいです」
しばらくしてミアは唐突にそう言った。それから自分の服の胸元を探り始める。
「ようするに血がついていれば良いのでしょう。後宮に上がる女は純潔であることが条件ですから。それが破れた証としての血があれば納得してもらえるはずです」
「そ、それは、まあ、そうだが……」
「では良い案があります。但し、私はこれを持ち込むことは許可されていないので、他言無用でお願い致します」
皇子が何を言っているのか分からないという風に唖然としている間にミアは短剣を取り出した。
小さく声を上げて怯える皇子を放置してミアは自分の指に刃先を当てた。
目に毒々しいほどの深紅の血が滲み出て流れてゆく。
それが床に着く前にミアは寝台へ近づき、皇子からなるべく距離を取ったままシーツを汚した。
ぽつぽつと滲む血の色は正しく行為を終えた後を彷彿とされる。
これで良いでしょう、とミアが自分の指を抑えて血を止めている間に皇子が激しい声を上げた。
「なにをしてるんだ!」
寝台が軋む音を立てたかと思うと勢いよく皇子はミアの元まで距離を詰めた。
僅か数歩しか離れていなくても皇子にとっては精神的にひどく遠かっただろうに、とミアは呆気に取られていた。
「何を、と言われましても。これが一番最適だと思ったので」
この人は何をこんなに狼狽えているのだろう。自分が怪我をしたわけでもないのに。
そうミアが内心混乱している間も、皇子は触れていいのかすら分からないという風に傷のついたミアの指の近くの宙で手を動かしている。
その顔はまるで痛くて堪らないという風に悲痛に満ちていた。
「でも、こんなことしたら痛いじゃないか」
その言葉にミアは不躾だと思いつつも、皇子の顔をまじまじと見つめてしまっていた。
(王になるには到底向いていない弱気な皇子だと思っていたけれど、案外そうでもないのか)
向いているかはともかくとして、この人はきっと優しい人ではあるのだろう。そう思い、ミアは自然と頬を緩めていた。
「大丈夫です。大して痛くもありませんし、この程度の傷ならすぐに治ります」
「……でも、痛いのはよくないことだ。血も、こんなに出ているし、それに」
もごもごと聞き取りにくいことを言いながら、眉を下げて心配そうな顔をする皇子を他所にミアは素早く治療を終える。短剣を懐に戻すことも忘れない。
明日誰かにその指はどうしたのかと問われたら紙で切ったということにしようと決めて、ミアは皇子から再度距離を取った。
「今夜は寝台を使ってください。私は床でも椅子でも構わないので」
「そ、それは身体に悪いだろう」
「殿下を寝台以外で寝させることの方が問題です」
ミアは最もらしく言い募り、風邪を引くと困るので掛けるものは借りたいですと告げる。
そんなミアを前にして、皇子は青かった顔を一変させ赤くなりながら宣言した。
「い、一緒に寝台を使えばいいじゃないか」
ミアは驚きのあまり目を瞬かせ、本気なのか問うように首を傾げた。
「……私は構いませんが、殿下は大丈夫なのですか?」
私は今日会ったばかりの人ですよ、と当たり前のことをミアが丁寧に告げると、頬を赤らめながらも皇子は頷いた。
「だって、何もしないと約束してくれただろう?」
ミアを見る皇子の目は純粋そのものだった。この人はこんなに無垢なのによくぞ今まで頭から喰われてしまわなかったものだと、ミアは感心していた。
一度言い出した手前引けないのか、皇子が積極的に寝台に上がるように勧めてくるのでミアは皇子に気を遣いながら控えめに寝台に腰を下ろした。
「それで寝れるんですか?」
ミアが寝台に上がった途端、皇子は出来るだけ距離を取ろうとしてか寝台の端に身を寄せてしまう。
それだと眠れないのではないかと思ったミアが声を掛けると、皇子はようやくそろそろと足を伸ばし始めたが、依然として体も顔も強張っている。
「……すぐには、眠れないかもしれない」
「そうですか。私も特に疲れていないので、まだ眠くないです」
遠くから今日来たばかりなのに、と驚いて目を瞬かせる皇子にミアは曖昧に微笑んだ。
「あ、そうだ。何か本とかないか?眠くなるまで、読みたいんだが」
「すみません。本は勉学の為なら読むのですが、趣味では読まないので、ここには持ち込んでいません」
あまり後宮に長居するつもりはないので、という言葉は流石に無礼過ぎるだろうと飲み込んだ。
「殿下は本がお好きなのですか?」
「……本は、読むと自由になれるから、好きだ」
遠くを見るように目を細めて寝台に寝転ぶ皇子から距離を保ったまま、ミアはそっと寝台の端に寝転んだ。
「では、眠くなるまで殿下の好きな本のお話を話してくれたら嬉しいです」
それなら暇潰しになるだろうとミアが提案すると、皇子は安心したような笑顔で頷いた。
「ああ、いいぞ」
何の話がいいか、と視線を巡らせる皇子は同じ年回りだというのにやはり庇護欲を煽るほど幼く見えるのだ。
ミアは小さく笑みを零しながら皇子の話に耳を傾けた。
翌朝、やはり熟睡は出来なかったらしい皇子は眠たげな表情で帰って行った。
疲れたようにも見えるその雰囲気がなんとも気怠げで、昨日何かありましたと言わんばかりにも見えた。
これなら意外と騙せるのではないかとミアはほくそ笑んでいた。もちろん本人にはその旨は伝えなかったが。
その後、例の皇子の御付きの人等がそそくさと大仰にやって来て、恐る恐るシーツを確認して危うく飛び上がるほど喜んでいた。
ミアに向かって感謝の言葉を述べるのをミアは曖昧な笑みでそれとなく受け流していた。細かいところを尋ねられたら上手く返答する自信がなかったからだ。
これからもどうぞよろしくお願い致しますと頭を下げられれば頷くしかなく、御付きの人に促されたのか三日後に皇子はまたミアの部屋に現れた。
前回怖い事が無かった為か幾分か緊張が和らいだ様子の皇子に協力した手前帰れとも言えずミアは部屋に入れまた話をするだけの夜を過ごすことになった。
皇子の初めてのお気に入りだと城の中でも騒がれているらしい。ミアは興味がないため気にしていなかったが、皇子が定期的に御付きの人に勧められて部屋に現れるため、噂は本当なのだろうと思っていた。
皇子は今日もミアの元を訪れた。今夜で一体何度目だろうとミアはふと思った。すぐには思い出せない程度には皇子はミアの元に通っていた。
「そういえば、なんで短剣を持っていたんだ?」
何度も顔を合わせれば人見知りの皇子といえど慣れるようで至って普通に話せるようになっていた。
それどころか同じ寝台に寝転ぶ今も大きく動けば触れ合う程度には近くにいる。
慣れるのはいいことだとミアは内心満足気にしつつ、皇子の素朴な疑問に笑みを浮かべた。
「特にこれといった理由はありませんが、強いて言うなら護身用です。女の身は時々ひどく物騒なので」
「扱えるのか?」
「まあ、人並みかそれより少し上程度には。家では父の仕事の手伝いもしていたので、危険な事がないように少しは自分の身を守れるようになれと言われました。結構向いていたみたいで、楽しいですよ。体を動かすのは元々好きでしたし」
とはいえ危険物の持ち込みは許可されていないので秘密ですけど、と自分の懐を服の上から撫でながらミアが言う。
「仕事を手伝うって、後継ぎがいないのか? 兄とか弟とか」
「いますよ。年の離れた弟がうちの後継ぎです。ですが、まだ幼すぎるので私が代行みたいなものです」
なるほど、と興味深そうに皇子は頷いた。後宮を抱えているうちの国の王族という立場上、後継ぎ問題に関わることは極めて稀だろう。
最も、その稀な事態を引き起こそうとしているのは皇子本人なのだが。
「……昔は、いたんですけどね、他に後継ぎが。兄がいたんです。流行り病で亡くなりましたが」
ミアの淡々とした口調がある意味悲惨さを語っていた。
でもそれはもう遠い過去であり、ミアの目元には涙ひとつ浮かばない。
だからこそ家の為に早く帰らなければ、とミアは思っていた。ほんの少し前まで。
(でも、今は早く帰らなければとは思わない。どうせ私は帰ってもどこかの家に入るのだろうし、もう少しすれば弟も仕事が手伝えるようになるだろう。そんなに急がなくても……)
少し前なら絶対に思わなかったことを考えている自分に気づき、ミアは内心狼狽えていた。
自分はどうしてしまったのだろう。そう思いながら先程から黙っている皇子へと目を向けた。そして静かに息を飲んだ。
「どうして、殿下が泣くんですか」
ぽろぽろと最初の夜のように、いやそれ以上に泣く皇子にミアはぎょっと体を遠ざけた。
「家族を失うのは辛いことだな」
そう言ってミアの顔を見つめる皇子は変わらず真っ直ぐだから、ミアは思わず微笑んでしまった。
(自分も母を失った過去があるからこんな風に泣けるのだろうか。……いや、違うな)
皇子が優しいからこんな風に泣けるのだろうとミアは思った。だから思わず手を伸ばしそうになった。
泣く幼い弟を慰めるように。いや、それ以上の何かに突き動かされるように。
「失礼しました」
それでも伸ばされた手は皇子の頬に触れる寸前で逸らされた。
宙を彷徨った手はすぐに戻される。口を突いた謝罪に皇子は何故か複雑そうに顔を歪めた。
「……いや、構わない」
約束を破りかけたことを怒っているのだろうか。
自分から言いだしたことなのに守れないなんて、とミアが俯いていると、皇子が取りなすように口を開いた。
「そ、そういえば、こんなに後宮に通うのは初めてだから、そろそろ、その先に進めたらいいんじゃないか、なんて皆から勧められている」
急な話題転換はきっと気を遣ってくれているのだろうと、ミアは頬を緩めた。
「大丈夫ですよ。私は正妃にしろだなんて、そんな大それたことは頼みませんから」
「……そう、だな」
皇子の引き攣る顔を見ながら、そんなに強く勧められているのだろうかとミアは眉を寄せた。何事も急ぎすぎるのはよくないというのに。
(ここまで手を出したのだから、私も殿下にちゃんとしたお相手が出来るまでは側にいないと)
そこまで考えて、いつか皇子の隣に他の人が並ぶことをミアは想像した。
その人はこんな風に近い距離で寝台に皇子と共に寝そべるのだろう。そして、もちろんそれ以上もするのだ。
ミアと皇子がしたことのないことまで、当たり前のようにこなすのだろう。
そう考えると胸の奥が苦しくなった気がして、後宮という環境に慣れないせいだろうかとミアは首を傾げた。
後宮に越して来てしばらくが経ったが、ミアはまだ慣れてはいなかった。
女達ばかりがいる空間だからというのも理由の一つだが、何より皆時間を持ち余しているのだ。
国王陛下の後宮のように今夜来るかという希望を持っている女達は自分磨きに勤しむからまだ良い。
皇子の後宮では諦めかけている者が殆どらしく、それ故に唯一皇子が足繁く通っているミアを敵対視している。
あんな娘の所に行くのだから私の所にも来るはずだと燃えるものは放って置けばいいが憎しみを持って接してくるのは流石のミアも辟易としていた。
最も互いに関わる機会はないから避けようと思えば避けられるのだが。
誰かが訪ねて来るのも文を届けて来るのもどちらも厄介だなと思い、ミアは庭に足を運んでいた。
しかし天気の良い日だからか、考えることは皆同じようで、幾人かの女達が庭先で花々を眺めていた。ミアは顔を顰めつつ、半ば逃げるように廊下に戻った。
何処へ行こうという当てもなくふらふらと後宮を彷徨っていると、城の近くまでやってきてしまった。
後宮の女が城に勝手に入ることは禁じられているが、この辺りならば叱られることはない。最も城から見える位置ではあるので歓迎もされないのだが。
自分から呼び寄せておいた女を邪魔者扱いするなんて一体何様だろうかとミアは不服そうに首を傾げた。
(殿下は今頃公務だろうか)
ミアはふとそんなことを考えていた。皇子が今何をしているかなんて関係の無いことなのに、と思わず呟いてしまうほどにミアはひどく驚いていた。
この間、皇子にきちんとした相手が出来ることを想像したあの時から、自分はどこかおかしいとミアは眉を寄せながら首を振った。
調子でも悪いのかもしれないから部屋に戻ろうと踵を返そうとした、その時だった。
後宮から微かに目視することが出来る渡り廊下に皇子らしき人影を見つけたのだ。ミアは思わず目を見開いて本当に本人かと目を凝らしてしまった。
皇子だけならばこんな風に確認することもない。だけどそこにいたのは皇子だけではなかったのだ。
皇子の隣には一人の女がいた。とても親しそうに皇子の近くにいて、皇子はミアの見間違いでなければ笑ったり話したりとひどく楽しそうで忙しない様子だった。
時折困ったような表情を浮かべているようにも見えたけど、それさえ仲の良い戯れの範疇に見えた。
そんなまさしく恋仲と称して良いであろう二人をミアは呆然と見つめ、ふと我に帰ったようにその場を去った。
きつく唇を噛み締め、決して城を振り返ることはなかった。
次の日の夜に皇子はミアの元を訪ねて来た。
最初の頃はどんな顔をしていいのか分からずただ微笑んでいたミアもこの頃はすぐに自然な笑みを浮かべられるようになっていた。
だが今日ばかりは眉間に深い皺が刻まれている。
昨日急いで部屋に戻ったミアは夜に皇子が来たら誰と一緒に居たのかと尋ねるつもりだった。
しかし皇子は来なかった。毎日来るわけではないからそのこと自体には何も思わなかったが、質問することについては時間を置くにつれ躊躇うようになっていた。
(そんなこと、聞いてどうするんだ。私には本来何も関係のないことだし、むしろ喜ばしいことじゃないか)
皇子に良い人が出来たと報告を受けるまで黙っているべきだとミアは頭では理解していた。
でもどうしても問い詰めてしまいたい衝動があり、笑って出迎えることなど出来なかったのだ。
顔を硬くして皇子の方を見ようともしないミアに気づいた皇子は不思議そうに首を傾げた。
最初の頃はミアが笑わないだけで怒っているのかと怯えていた皇子も今ではそんなことはない。
ミアはそんな人ではないからと無邪気に信じて心配そうに顔を見てくる皇子の目の前から消えてしまいたい衝動にミアは駆られていた。
「どうしたんだ、そんな顔をして」
「……いつもこんな顔です」
「体調でも悪いのか?」
今度は近づいて来て無防備に顔を近づけられる。出会ったことは決してこんな風にはしなかったのに、とミアは思いどんな顔をしていいかも分からない自分に苛立つ。
「こんな所で私なんかの相手をしている暇があったら、良い人の所に行ってご機嫌伺いをした方が良いんじゃないですか」
自分が随分身勝手で無礼なことを言っている自覚はミアにもあった。皇子は困惑するばかりだ。
「なんのことだ?」
「良い人が出来たんでしょう。近づいても怖くないような、話していて楽しいような、私なんかよりずっと愛らしい良い人が」
「だからなんの話だと」
どれだけ言い募ろうと以前話そうとしない皇子に苛立つ反面、もうどうにでもなってしまえという気持ちが勝っていた。
「妃にしたい人が出来たのなら、それでいいじゃないですか! 隠さずに言ってくれればいいのに! だって、私は……」
そこまで口にして、ミアはハッとして皇子から目を逸らした。
(私は、なんだっていうんだ。私はただ殿下に協力しようとしただけに過ぎないのに)
ミアが突然黙ってしまったのを見て、皇子はふと思い出したように口を開いた。
「……それは、昨日の昼間のことか?」
訝しむような口調を聞きながら、やっぱりそうなんじゃないか、と投げやりな気持ちでミアはおざなりに頷いた。
見間違いなら良かったのに、と思ってしまう自分の考えにもミアは狼狽えていた。だから合点がいったとばかりに晴れやかな顔をする皇子に気づかなかった。
「あれは妹だが」
さも当然のように言う皇子の声を聞き、絶対に上げるものかと思っていた顔をミアは最も簡単に上げてしまった。
皇子はひどく穏やかな顔をしていた。ミアが声を荒げたことなど少しも気にしていないように。もしくは他の事に気掛かりで気になどしていられなかったように。
「母は違うが父は同じだから列記とした妹だし、産まれた時期が一番近いんだ。妹や弟の中では一番よく話をする」
ミアは皇子の顔を見て何度も瞬きを繰り返す。皇子は不思議そうな顔で首を傾げる。
「妹の話、していなかったか?」
「……仲の良い妹がいる、というのは確かに聞いていましたね」
聞いてはいたが、ミア自身の弟が歳が離れていることもあり、妹という言葉から勝手に幼い姿を想像してしまっていた。
「大変失礼致しました。勝手に勘違いして酷い事を……」
例え本当だったとしても言う資格などないのに、とミアが顔を顰めると、皇子は何故か頬を赤らめて首を振った。
「いや、その、なんというか、そんな風に思ってもらえるのは、嬉しい」
「……それは、どういう意味でしょうか」
「だって、少なくとも少しは好意を持ってくれているから、気にしてくれたということじゃないか」
赤く染まった皇子の頬をミアは驚くほど淡々と見つめていた。皇子が自分を嫌ってはいないだろうという想像はついていた。
そうでなければ理由をつけてもっと来る頻度を減らすだろうし、どうにかして共寝は避けるはずだ。それをしないということは少なくとも嫌われてはいない。
それよりも自分が皇子に好意を抱いているという事実の方が驚いていた。
(ああ、そうか。私はこの人を憎からず思っているのか。このまま側にいたいと思うくらい。ゆっくりと関係が変わっていってもいいと許容出来るくらい)
自分が家に帰りたいと最初の頃のように思わなくなった理由さえ明らかになって、ミアは思わずふっと笑ってしまっていた。認めてしまえばなんて簡単で単純なんだろう。
皇子はミアが笑ったからか、おどおどと続きを話し始めた。
「本当は妹とも、そういう話、というか相談を聞いてもらっていたんだ。とても優しくて良いなと思う女性がいるから、どうしたらいいと思う、と」
「なんと言われたんですか」
「妹は正妃にすればいいじゃないか、なんて簡単に言ってきたが……」
それは確かに自分たちにはすぐには決められないことだとミアは曖昧に微笑んだ。
お互いどんな顔をして向き合えばいいのか分からなくて、とりあえずという風に寝台に腰を掛けた。顔は見ないままに皇子がぽつりと話し出す。
「それに今ならただ通うだけで喜んでもらえているが、正妃となればきっと次は子供だと急かされるだろう。それは嫌なんだ」
「それは、まあ言われるでしょうね」
「……知っているか。王族に生まれただけで命を狙われることがしょっちゅうある。時期国王に上げたい皇子が他にいるからと、自分も幼い頃に暗殺されそうになった事もある。あまりよく覚えていないが、とても怖かったことだけは覚えている」
その声色は怯えているというより達観しているようにも聞こえたから、ミアは遠くを見るような目をしている皇子の顔を見つめてしまった。
「自分の子供もそんな危険な目に合うのだろうと思うと、この世に呼んでいいのだろうかと思う。剣の腕も良くないし、子供を守ることも出来ない親の元に。きっと辛い思いをする」
悲しげな口調の皇子にミアは小さく笑いかけた。皇子の視線がミアに止まる。ぶつかり合った視線は逸らされなかった。
「殿下、そのお話、ちょっと待ってもらえませんか」
「もちろんだ。その、まだ気持ちも決まってないのにこんな事を言ってしまって申し訳ないと思っているし」
「いいえ、そうではなくて。私も話したいことがあるので、それを話すまでは待ってもらいたいのです」
少々不躾な事かもしれませんが、とミアが前置きすると、皇子は構わないと首を振った。
「殿下は争い事はお嫌いなのですよね」
「……ああ、嫌いだ」
眉を寄せて頷く皇子にミアも頷き返す。
「殿下のいう争いを避けるためには、きっとこの後宮制度そのものに考え直さなければいけない点があるのだと思います。そしてそれを変えられるのは国王だけでしょうし、こう言ってはなんですが、現国王には期待できないかと」
「ああ、父が後宮解体を試みることは無いだろうな」
それならばその機会は次の国王が誕生するまで待たれることになる。
「私は政治にはあまり興味がありません。そもそも女にそういうことを決める権利が残念ながらないので、無駄なことは考えません、悔しくなるばかりですので。だから誰が次期国王になるべきとか、そういうことは私には分かりません。でも、色々なことを学ぶのは好きです。それは自由ですから。今まで学んできて分かったことがあります」
「それは、なんだ」
「国王には優しい人がなるべきです。民のことを考えられる優しい人が。争い事を嫌って傷つく人を減らせるのは優しい人です」
ミアは笑って皇子を見つめた。ひどく優しい笑みだった。
「殿下は優しい人だと、私は思います」
それだけは確かだとミアは笑う。まだ交わした言葉は多いとは言えなくて、触れたこともなくて、それでもそれは確かなことでミアはそんな皇子に少しずつ惹かれていた。
「それに殿下が剣を扱えなくても、私には多少の心得があります。これからもっと学んでもいいです。自分の子供を守れるくらいは強くなれると思います」
ミアの言葉に皇子は驚きのあまり目を丸くして、それから言葉を探すように目を彷徨わせて口を開いた。
どんな言葉を告げれば気持ちに応えられるのかも分からなくて、それでも必死で言葉を紡ぐ。
「もう一度、その、最初から、あの日の夜のことから、やり直してもいいだろうか」
では約束は破棄しなければいけませんね、とミアがしれりと告げる。
皇子とミアはしばし顔を見合わせてそれから互いに小さく吹き出した。
出会った頃からは想像出来ない軽やかな笑い声がまるで後宮の隅々にまで響き渡るようだった。
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