16、本宅
ふたりは伯爵から夕食に呼ばれたが、エレンが頑なに断っていたので帰宅するのかと思いきや、使用人の歓迎ムードに押されて、そのままなし崩しに本宅に泊まることになった。
エレンは生まれてからはじめて家族と夕食を取った。
エレンは緊張をして、食事に手をつけられなかったが、ハヤトが学校や湖畔の生活を面白おかしく話したり、食事をおいしいと言って喜んでいるので、ハヤトの喜ぶ味が知りたくて口に運んでいたらそれなりに食べていた。
「エレンがこんなに食べているのをはじめてみた」
兄もエレンを見て感心するように言うので、エレンは恥ずかしくて赤くなった。
「そりゃ、一日中椅子の振りをしてたらお腹減らないよ。椅子はご飯食べないし」
「成る程」
ハヤトの揶揄に、伯爵が頷いていた。伯爵に意見する人はあまり見たことがないので、ハヤトは珍しい人間なのだとエレンは思った。
食事が終わり、男達はカウチでお酒を飲みつつ話をしていた。エレンは別邸から来た部屋つきのメイドに入浴の手伝いを言われるが、一人で出来ると言うと驚いていた。
泊まる準備はしていなかったので、別邸から寝間着を持ってきて貰い、部屋で待っていたがハヤトが来る気配は無かった。
エレンは昼寝をしたせいか眠くは無いので、ガウンを羽織って本宅を歩いて回った。
エントランスすぐ側の扉が開いているので覗いてみたら、その部屋には博物館のように服や写真がかざってあった。
「わぁ……」
その広い部屋の壁一面に、エレンの母親だと思われる人の写真が並べてある。
部屋には沢山の引き出しがあり、開けてみるとそこにも写真が入っていた。外に出ている写真とは違い、五才くらいの母の写真もあった。
小さな母は、痩せて、ボロボロの服を来て、倒壊した建物をじっと見ていた。
……どうしてこんなに、建物が壊れているのでしょう?
エレンが写真をめくると、小さな母は裸足で歩き、水を運んでいたり、テントのようなところに隙間なく詰め込まれている怪我人に、水を飲ませたりしていた。
その怪我人の顔を見ると、イギリスとは思えず、どこか遠い国の戦場のなのだなと思った。
エレンのイメージの母は、ずっとここで庭仕事をして育ったのだと思っていたので、その写真は衝撃的だった。
「面白いか?」
声を掛けられて振り向くと伯爵がいたので、エレンは驚いて焦り、逃げ出そうとしたら手を捕まれた。
「すみません、勝手に入って、許可なく写真を見ておりました」
エレンが青くなって謝ると、伯爵は気にするなと言う。伯爵はエレンに背中を向けて、部屋に飾ってある写真をじっと見ていた。
エレンは伯爵が見ている、瓦礫の写真を覗き込む。
「この写真、母はどこにいましたか? この戦場はどこですか?」
「前に医療を受けられない人に医療を施す旅をしたことがあってな、お前の母とはそこで会った。フレイはそこで、子どもの癖に人を助けて回っていた、フレイは親のいない戦災孤児だったよ」
「………」
「本人も飢えていただろうに、他人の世話をするのが好きなようで、毎日人の間を駆け回って配布された物資を配っていた。そのままいたら野垂れ死にそうだったので、声をかけたらついてきたな」
「ハヤトは母に似ていますか?」
「……ん?」
突然話を変えられて伯爵は驚いたが、「似ている」と頷いた。
「それは顔ですか? 母は女ですがハヤトは男ですよ?」
「遠回しに私を責めているな? そう、似ているよ。顔よりも性質がな」
「優しい所?」
伯爵はニヤリと笑った。その笑顔に底知れない恐怖を感じて、エレンの背中に寒気が走った。
「他人を助ける事を生き甲斐にしている所だな。やつらは弱っている奴にはとりわけ気を向けてくれる。坊主がお前に声をかけたのは、お前がかわいそうに見えたからだろう」
そうかもしれないとエレンは思った。
「お前は母よりも私に似ているよ、エレン」
「髪の毛ですか? 目の色は違いますが」
「性質の話だよ。私達は彼らの同情を買い、無制限にその優しさを吸い尽くす。一見無制限に見える彼らの愛情も底があるならな。いつか壊れるよ」
そうかもしれない。とエレンは思う。実際この夏休みの間に、私は彼に何もしてあげられていない。
「で、でも母は戦場からここに来て、飢えたり戦いで死ぬことが無くなったのではないでしょうか。ハヤトも、学費が助かっている筈です。それはハヤトの妹の学費にも繋がります」
エレンがそう言うと、伯爵は意外という顔をした。
「あいつは妹の学費も稼いでいるのか。馬鹿だな、そのうち倒れるぞ」
「ハヤトは頭が良いです。事実お家の方は皆さん忙しそうでしたので、ハヤトがファミリーを助けたいと思うのは当然だと思います。彼は恩を必ず返しますので」
「返すどころか倍にしてくるな」
伯爵の口元が緩むので、エレンは肯定されたのだと、嬉しくなった。
伯爵はどこか遠くを見て呟いた。
「死人に恩を返したいときは、どうしたら良いのだろうな……」
「ハヤトはお返しを望みませんよ、何度か返そうとしましたが不思議がられました。ハヤトは、見返りを求めずに愛情をばらまくのでそこはよくないと思います」
エレンが至極真面目に言うので、伯爵は逆に尋ねた。
「何をして返そうとしたのだ? 後学の為に教えてくれよ」
エレンはうーんと頭を悩ませる。
「まず、手を揉みほぐそうとしました。あとは膝に頭をのせました。彼は、それは何が楽しいのかといいました」
「逆に聞くが、ハヤトはお前にそれをやって、お前は楽しいと思ったのだな?」
「ハイ、とても」
素直に頷く娘を見て、伯爵は髭に触れて考え込む。
「お前がハヤトに守られているうちは、奴に安心感を与えるのは難しいだろうな」
「伯爵は母を守っていましたね? その母から安心な場所や時間を与えられていましたか?」
伯爵は遠い目をして微笑んだ。
「そうだな。あいつは色々私を助けてくれて、励ましてくれたよ。立場は逆でも、エレン、お前は与える側でなく、搾取する側だよ」
断言されて、エレンは不安になった。このままでは母のように、ハヤトも死んでしまうのかもしれない。
「は、伯爵はどうしたら良いと思いますか? ああ、もちろんハヤトの話ですが」
「自分が十分だと思った時点で、解放してやることだな」
「……えっ?」
思ってもいない答えが来た。本当に?
「解放とは別れですか? もう二度と会わない事ですか?」
「そうだ、決別だ。そうしたら、淀んだ水で弱った魚も、新しい水をのんで元気になるだろう」
「母は弱っていましたか? 伯爵は解放しましたか?」
娘にそう言われて伯爵は笑った。
「それが出来ていたら、こんなにもあさましくアイツを追い求めて無いわ……」
それ以降伯爵は何も言わずにじっと壁の写真を眺めていた。
エレンは、底知れない恐怖を感じてそこから逃げ出した。そして客間に戻り、ストールを出してソファーの上で丸くなって震えていた。
◇◇
しばらくして、寝る準備を終えたハヤトが部屋に入ってきた。ハヤトはソファーに座っているエレンのストールをめくって顔を覗く。
「何でまた泣いているの? 怖い夢でも見た?」
「寝ていませんから、夢は見ていません」
エレンはハヤトを見ずに、ボーッとしていると、顔に濡れタオルを当てられた。
「つめたいです……」
文句を言うと、ハヤトは隣に座って大丈夫かと尋ねて、隣に座った。
「何か俺に出来ることはある?」
エレンはボーッとしながら呟いた。
「ハヤトに頼られたいのです」
「何で?」
「いつも私がハヤトのお世話になっているので、それを返したいのです。そして返す方法が無いので途方にくれているのです」
「何で泣いているのかと思ったらそんなことか」
「この悩みは暗い、深い、底知れぬものです」
「ええ……深刻だなぁ」
ハヤトはしばらく下を向いて頭をかいていたが、起き上がりエレンに向き直った。
「エレン、話を聞いて欲しい」
「いつも聞いています。いつも、真剣です」
「そうだね、エレンは俺の話をとてもよく聞いてくれる、俺はそれがとてもうれしいと思うよ」
エレンは頷いた。好きな人が話をきいてくれるのはうれしいことだ。
「エレンは、俺に何かをすることで喜ばせようとしているようだけど、そうしてエレンが俺の話を聞いて、笑ったり怒ったりすることで俺はいつも救われているよ」
「何も返せていないのに?」
ハヤトはゆっくりと頷く。
「こうして、話をしたりご飯を食べたり、散歩をして同じものを見て喜んだりする時間を、俺はとても大切でかけがえのないものだと思っている。だから、エレンは無理に俺の真似をしなくていいよ。エレンが、エレンでいてくれるだけで俺には幸せなのだから」
エレンはハヤトの手に触れ、そっと撫でるが、はっと思ってその手を投げ捨てた。
「一方的な享受は私をだめにします。見返りは必要です」
ハヤトはないがしろにされた手をさすって言う。
「エレンだって昴を可愛がっていたけど、別に昴から何かを搾取しようとは思わないだろ? 昴が喜んでくれるだけで十分だろ?」
「それは……そうですが、私は大きいですから」
「そんな年齢に違いは無いって」
ハヤトはエレンの頭を捕まえて、ハヤトの膝に押し付ける。
「エレンは今まで家族の愛情を受けてこなかったから、今教わってるの。先生の教えを素直に受け取っておきなさいよ。それはいつか他の人に伝えられるものだし」
「愛は返しませんか? 他の人に渡すものですか?」
「そうだよ、いつかエレンの子どもにしてあげたらいいの。俺にはやらないでいい」
「子どもに……」
エレンはハヤトの膝に手をあてて、ぼーっとつぶやいた。ハヤトは座る向きを変えて、エレンの頭に両手を置く。
「母が子どもにやる寝かしつけの方法その二をやるので、動かないでね」
そう言って、ハヤトはエレンの耳を触るので、エレンはビクッと肩を震わせた。
「エレンは今日の夕方に寝ていたからね、これでも眠れるかはわからないけど」
ハヤトは両方のこめかみをギュッと押す。エレンは恥ずかしくなって真っ赤になった。
ハヤトはエレンの頭をポンポンと軽くたたく。
「大丈夫。安心して目を閉じるといい。リラックスすることが大事だから」
「それは、無理かもしれません。緊張します、これ……」
「別に取って食いやしないよ。頭部の血の巡りを良くするだけだ」
エレンはしらないと言う。
「それは私にもできますか? ハヤトに、してもいい?」
「あ、えーっと、二人きりの時だけね…」
「なら教わります」
エレンは目をギュッと閉じた。
「まずは落ち着こうね。体に力入りすぎだし」
ハヤトはエレンの肩に触れて、力を抜いて貰う。そして顎やこめかみ、頭皮を手で押してゆく。マッサージをされるエレンは最初は緊張していたが、次第と慣れてきたのか、抵抗しなくなった。
「これはねー、スバルが生まれた時に、母が産院で教わってきたんだ。これで何度もスバルを寝かしつけた」
トントンと頭皮を叩いていると、エレンの反応が全く無くなった。どうやら寝ているようだ。
ハヤトはエレンの綺麗な髪をそっと撫でる。
……自分で寝かし付けておいてなんだが、無防備にも程があるな。
エレンの反応が完全になくなっても、やめるべきなのか判断つかずに、ハヤトはしばらくエレンの頭を撫でていた。
……妹の時はなんとも思っていなかったけど、きれいな人の頭が膝に乗っていて、頭触り放題なんてすごいことだ。
ハヤトはエレンをベッドに移動させて、寝ているエレンの寝顔を見る。
エレンは目を腫らしてすうすうと寝息をたてていた。
この安心を守りたいとハヤトは思う。
ハヤトは何処に寝るべきか悩んで、ソファーに寝ることにした。
◇◇
夜中に目が覚めたらあたりは真っ暗だった。
エレンは部屋に人の気配を感じて、ハヤトが起きているのかなと、周りを手探りで探すがハヤトはいなかった。
「ハヤト?」
エレンはベッドを出て、部屋の明かりをつけると、ハヤトはソファーで寝ていた。
「何でこんなところに、寝相わるい?」
エレンはハヤトを抱き上げて、エレンが寝ていた所に運ぶ。ハヤトは前よりも重くなっているなと思った。
エレンはそのままハヤトの隣に潜り込んで、手に巻きついて胸を撫でる。
いつもならここまでしたら気がついて頭を撫でてくれるのに、ハヤトが起きる様子は無かった。
「しんでるの?」
エレンはハヤトの顔を覗くが息はしていた。
「ハヤトは疲れているのかもしれない」
なら寝るべきだと、エレンはしばらくハヤトの頭を撫でていたが、寝息を聞いているとまた眠くなり、ハヤトの隣で眠りについた。
そうして初の本宅での暮らしは終わり、「またおいで」と言う兄に、エレンは「もう来ない」と断言した。