14、金作
月日はあっという間に過ぎ去り、もうすぐ夏が来ようとしていた。
ハヤトは大学とバイトに追われて、殆どエレンに会えないまま学生生活を過ごしていた。たまにエレンに会えると、バイトをしすぎていると怒られる。
「だって、俺が実家の蓄えを使ったから、スバルの為にまたためないと」
と言うと、エレンは「しかたがないですね」と苦笑していた。貧乏人は暇が無いものなのですよ、お嬢様。
「なんか割りのいいバイトないかなぁ?」
普段やっているのは、日本人相手の家庭教師と短期の倉庫整理だったが、週末エレンに会いに行くのが時間も懐も痛かった。
大学の昼休みに、学内の掲示板で大学に来ている求人案内を見ていると、いやに報酬の高いものがあった。
仕事内容を見ると、週一でデータ&書類整理とある。募集人数は一名。なんだこりゃ? これ、現場に行くと治験をさせらせたりとかは無いかな?
「でも、出所が怪しかったら大学に貼られないか。一名じゃどうせ受からない」
ハヤトはとりあえず出ている情報をメモした。
当日面接会場にいると、二十名くらいの学生がいた。やはり報酬高いから気になるよね。
ハヤトは案内されるまま、六名ずつの集団面接を受けた。
同じグループの中で、聡明そうな背の高い男が、既に情報処理のライセンスを持っていると言っていたので、多分あいつに決まるだろう。
ハヤトはあのブドウは酸っぱいものと決め込んで、早々に帰路についた。帰宅中にハヤトが目星をつけた男が同じバスに乗っていたので、にこやかに近よりメアドを教えて貰った。
バイト内容気になるしね。こいつが受かっていたら教えて貰おう。
しかしいざ蓋を開けてみると、ハヤトに採用の連絡が来ていた。思わず背の高い彼にメールを打とうとしたら、採用通知の電話で、採用されたことを外部に漏らすなと念を押されて鳥肌が立った。
……これ、死亡フラグ踏んだ気がする。
ハヤトはネットで会社名を調べてみるが、よく聞く医療関係の有名企業で、単にハヤトの通う学校に近い場所に支社があるからうちの大学に求人が来たようだった。
当日その支店に行くと、職場は別になると言われ、二人の男に車で郊外の森の奥の礼拝堂に連れていかれた。
さすがにこれはヤバイだろうと思い、逃げ出そうとしたら背後から現れた大男に足をかけられて、地面にすっころんで捕まった。
その男は倒れた隼人を杖でつついて笑っていた。
「あの倍率で受かったのに、仕事内容も聞かずに逃げるのか? ボウズ」
見上げると、良く知った顔が俺を見ていた。
白髪まじりの金髪巻き毛、背は高く体格もがっしりして、高そうな品の良いコートと黒い帽子をかぶっている。それはエレンの父で、棒は単なる杖だった。
怪しいと思った男たちも普通に親切で、転んだハヤトに手をさしのべてくれる。
「アンタ、そういえば医療機器の企業をやっていると言ってたっけ……」
……聞いたけど、ちゃんと調べてなかった。
ハヤトはふて腐れて立ち上がり、服についた土を叩き落とした。ハヤトはため息をつき、杖をついている伯爵に手を差し出した。
「ん? 金か? 気が早いな」
「違う、伯爵は足が悪いのだろう? 手を貸そうと思っただけだ」
「なるほど」
伯爵は、ハヤトに支えられて古い礼拝堂の中に入った。そこは、一見古い礼拝堂だが、中に入ると厳重な扉がついた研究施設に繋がっていた。
一同は白衣や帽子をかぶるが、入口で転んだハヤトは服をまるっと着替えさせられた。衛生面にうるさい場所らしい。
三人は暗い不気味な病院のような通路を並んで歩いていた。
「……見るからに怪しいんだが、報酬の高い理由は何故だか知りたい。俺は新薬でも打たれるのか?」
ハヤトは伯爵の顔を見るが、伯爵の表情は動かなかった。
「治験の募集もあるがな、募集内容を違えたりはしないさ、会社の信用にかかわる」
「じゃあ本当に書類整理なのか……」
二人が話している間、男たちがドアのロックを解除して、一行は下に、下にとフロアを降りていく。
「あんた足が悪いのに、階段ばかりだな。エレベーターをつければいいのに」
「私は滅多にここには来ないからな」
なんか、雲行きが怪しくなって来た。知り合いがいたので一瞬安堵したけど、そういえばこの伯爵はロリコンの変態じーさんだった。
ハヤトは伯爵の手をひきつつ、他の二人に仕事内容を聞くと、書類整理ではなく、データ整理と言っていた。ただ、この勤務地とデータ内容を他言無用にしてほしいと言う。
伯爵は高みからハヤトの頭に手を置いた。
「喋ったら今後医療現場では働けなくなるぞ」
……うっかりしゃべったら俺が医学部に入った意味がまるっと無くなるようだ。
「何見ても喋らないけど、データ内容に問題があると判断したら辞めさせて頂きます。あと働いた時間分の給料はいただきますよ」
そう言うと、ふたりの男は了解と頷いていた。
ハヤトは地下の狭い部屋に連れていかれた。
そこには数台のパソコンと録音装置、あとファイルやプリンターが置かれていて、整理すべきデータはそこにあると示された。
男はハヤトをモニターの前に座らせ、パソコンを起動する。そしてパソコンに入っている未整理の音声データを再生すると、どう分類するかを説明してハヤトにやらせた。
伯爵は少し後ろに座って二人を見ていた。
音声データは、とても聞き取りにくいもので、ノイズが多かった。しかも、どの言語で話しているかがさっぱり分からなかった。
そのなか中から特定の女の声が入っているものを聞き取って切り取り、フォルダに分けるようだ。
「時間は何時でもいいが、週に六時間くらいはやるように」
伯爵はやり方だけ教えると、部屋から出ていった。
ハヤトは帰りがけに、今日の報酬と、次回からここに来るためのカードキーを貰った。ハヤトはカードキーとお金を手に、暫くぼーっとしていた。
「こんな簡単に大金が!」
思えばエレンは金持ちなのだから、新居の金もエレンの家を頼れば簡単な話だった。ハヤトがそこを頼らなかったのは、動機が伯爵から逃げたい為だからだ。
伯爵ははじめから俺に金を渡すために大学に募集を出したってことか? 遠回りの娘への支援?
いや。面接には多くの学生がいたし、俺があそこに行くことは誰にもいっていなかった。
「はて? これは、結局は伯爵に頼っている事になるのでは?」
ハヤトは釈然としないまま帰路につくが、途中カップケーキが美味しそうだったので、ホストファミリーに買って行った。
ハヤトの目標金額は、その音声の整理だけで足りそうなので、ハヤトはゆっくり自分の勉強を出来るようになったし、週末は必ずエレンに会いに行った。
ハヤトは例の地下室で、毎回新しいものが増えていくのを見て、この元のデータは何なのだろうと思う。
伯爵が執着しているのはあの写真の部屋の女だが、あそこにある映像と、この音声の言語は全く違った。
「声は似ている気がするけど、ノイズが多すぎて比べようが無いな」
ハヤトは音を分けながら、ノイズが邪魔なら消せばいいと思った。
ネットで検索して、音声を分析して一部の音域を消すものを探すと、いくつかヒットしたので入手してみる。そしてデータをこっそり自宅に持ちかえり、ノイズキャンセラーで該当音域のみを消してみると、会話はぐっと聞きやすくなった。
「問題は、ノイズが消せることをどうやって打ち明けるかだ……」
門外不出のデータを持ち出した事が知れると首になるかもしれん。でも仕事がしやすいのでノイズは消したい。
ハヤトは一晩悩んで、ノイズを消した音声データをエレンの家に行くときに持っていった。
ハヤトは伯爵の部屋をノックして、伯爵に断ってその音声を聞いて貰った。
「門外不出と言ってあったが?」
「いや、上手くいくとは思えなかったし、施設のパソコンに勝手にソフトをいれるのも気が引けた」
ハヤトは悪びれずに言うと、淡々とファイルを説明する。
「音声がクリアになって分かったんだけど、この女の音声には違いがあるよ。幼児期のしたったらずな高い音声のもの、十才くらいの、思慮が出ているがまだ活発なもの、そしてかなり大人びたものと、三種類くらいには分類できる。おそらくこの少女の成長が、時間を前後してデータに納められていると思う」
ハヤトは分かりやすい、幼児期のものと大人の音声を交互に再生してみる。
「確かに、そのようだな。女は成長している」
「これが同じ単語をまとめてみたもの。頻度が多いのは挨拶だろうと推測する。あとは名前。よく出てくる名前は、サー、セシル。そしてフレイだね。どうもこの女性の名前はフレイと言うようだ」
そこまで解説して、ハヤトは伯爵の顔を見た。
「伯爵、これは、あの写真の女の音声なのか?あの女の音声をずっと盗聴して録音していたとか、どう?」
「……フン」
ハヤトとしては確信に触れたつもりだったが、伯爵には鼻で笑われた。
「妻の映像は殆どあの部屋に置いてあるよ。それとこれが一致したことがあったか?」
「無い。そもそも使用言語が違う」
ハヤトは推理が外れた敗北を感じつつ、外れて良かったと、息をそっと吐いた。
「長く聞いていて、意味が分かる単語があるか?」
「名前以外は分かりにくいよ。ちなみに名前が分かったのは、文の先頭に名詞が来るからだ。この言語は名詞、動詞という並びで始まる。あと多いのは、ファリナとミポンというもの。これは国の名前の可能性がある」
ハヤトが淡々と解説をしていると、伯爵と目があった。伯爵はじっとハヤトの顔を見ていたので、ハヤトは青くなって一歩後ろに下がり距離を開けた。
「何だ、蜘蛛でもいたのか?」
「近距離でじっとみられるからあせった」
「変な事を気にする男だな。処女か?」
「……俺は男なんだが」
伯爵は分かりやすくふてくされたハヤトを見て、ハハハと笑う。
「では分類をその時代別に分けてくれ。あと、意味が判明した単語はテキストも一緒に保存しろ」
「持ち出しのおとがめは無しで?」
ハヤトが言うと、伯爵は笑った。
「言わなきゃ忘れていたのに。むしろ内容が判明しつつあることに感心していたくらいだよ」
「……もしかして、翻訳出来たら報酬があがります?」
「内容が私にとって有益なら考えてもよい」
……それは、報酬据え置きということだ。
ハヤトには、この音声は何か現実とは関係ないものに思えたので報酬アップは望めないとため息をつく。
ハヤトは記録媒体を伯爵のパソコンから出した。
「伯爵、一体このデータは何なんですか? 写真の女はもう一人いて、異国で生きているとか?」
「さあな? それを調べる為に解析をしているんだ。これは会社とは関係ないよ。なんの利益にもならん。私の趣味だ」
……たかが趣味に、あの怪しい施設を使っちゃう伯爵は太っ腹ぁ。
ハヤトは乾いた笑いを顔に浮かべた。
ハヤトは退室がてら伯爵に打診してみる。
「伯爵、データ整理ついでに、あの部屋の八ミリやビデオテープをパソコンで見られるように変換します? もちろん写真も出来ますよ。そしたらパソコンやプロジェクターで古い映像が再生可能になります」
「お前は、データ分類が好きなのか?」
言われてハヤトは笑う。
「記録がゴミになるのと、散らかっているのがどうも苦手で……、あと、写真の女のしゃべり方や文字のアクセントが気になるので、比較出来たら翻訳の近道になるかも……」
「お前は本当になんでも出来るな。データ移行の報酬は相場しか払わんよ? それでもやるか?」
「毒を食らえば皿までですよ。ここに来た時に少しずつ変換していきますね」
「程ほどにな。エレンが寂しがる」
……この伯爵が、娘を心配したぞ? 意外と娘への愛情はあるのかもしれない?
「もちろんエレン優先にやりますよ」
伯爵がエレンの事を気にかけたのが嬉しくて、ハヤトは伯爵に向かって笑った。するとずっとへの字に口を曲げていた伯爵の表情が緩んだ気がした。
解析とデータ移行をしていたら、あっと言う間に二年経過していた。夏にはエレンの試験があるので、解析は程ほどにしてエレンの試験勉強に力を入れた。
エレンは元から素直で、何に対しても興味を持って学んでくれるので、教える側から見るととても優秀な生徒だった。
試験は学校で行われるようで、エレンはニコラスに連れられて、ニコラスの知人の経営する学校で受けてきた。
その日の夕食では、エレンが興奮気味に学校の様子を話していた。エレンにとって、子どもが多くいる施設が珍しかったらしい。
「久しぶりに、小さな人を見ました。皆様スバルを思い出してかわいいと思い、撫でたくなって困りました」
「エレン、見知らぬ人を触ってはいけないよ」
ニコラスが言うので、エレンは頷いた。
「スバルに会いたいですね、彼女はとても可愛らしかったので、懐かしいです」
「スバルはもう小さくないよ。スバルもエレンと同じくテストに悩む学生に成長している」
言われてエレンはまあと口を開けた。
「スバルのクラスは荒れているようで、しきり屋のスバルはいつも頭を悩ませているとか。同じ年齢の子どもが集まると、猿山のような序列が生まれマウントと支配が行われるらしい」
「ハヤトが何を言っているのか全然わかりません」
「まあ、スバルはもう小さくないよってことだよ。どうやら彼氏がいるらしいし。けしからん」
ハヤトがチキンソテーをにらんでいると、エレンが見透かすように笑う。
「ハヤトはスバル大好きですからね、それではスバルさんも私にハヤトをとられたと怒っているかもですね」
「いや、揶揄する勢いでくっつけようとしていたよね? 怒っていたらしないと思うよ?」
「『はやくちゅーしろよ?』というやつですか?」
エレンが突然変な事を言うので、ハヤトは食べ物が気管に入ってしばらく激しくむせていた。
……スバルめ。今度帰ったら彼氏の顔をみせてもらう!
はるか遠い島にいる妹を睨むハヤトを見て、ニコラスは微笑む。
「ハヤトは夏の長期休暇をどうするんだい? 実家に帰るのかな?」
「エレン連れていっていいなら実家もいいね。でも今やってる伯爵のデータ移行を終わらせてしまいたいなぁ」
「ハヤトは親族の八ミリまで見ているんだって? 父が言っていたよ」
「ああ、それはついでだよ。見られない映像データがあるのも切ないならね。ロードの小さな時の映像もあったよ」
デザートを口に入れていたエレンの表情が輝いた。
「お兄様の小さい頃のお姿、見てみたいです!」
「見ても面白いものではないよ」
「小さいヒトはとても可愛らしいです。それがお兄様ならきっと面白いと思います!」
エレンが太鼓判を押すので、ニコラスは苦笑した。
「なるべく私のいないときに見てね」
「はい!」
ニコラスは食後に紅茶を飲みつつ二人に言う。
「ハヤトはこの夏、ここに寝泊まりすることになるのかな? なんなら湖畔に部屋を借りてもいいよ」
「何で? 本宅にいたら迷惑かな」
「使用人には、ハヤトがエレンの婚約相手だと知れているからね。そんな人が使用人部屋にいると彼らは気がやすまらないようだよ」
「……誰だ話したの」
ニコラスは笑う。
「父の態度を見ていたら分かるよ。伯爵とハヤトはとても親しげだから」
「……親しくはありません。伯爵が雇用主とういだけ」
「君はそうだろうけどね、父はあまり笑わない人なので、彼が笑っているだけで皆驚くんだよ」
「……うぇ」
ハヤトだけでなく、聞いているエレンも同時に顔を曇らせる。
「まあエレン、話を聞くといい。ハヤトが湖畔に拠点を置くなら、父もハヤトとの接触が減るし、エレンもそこで新生活の練習が出来るよ」
「練習ですか?」
ニコラスは笑う。
「そう。使用人無しで生きていく練習だね。ハヤトは問題無いだろうけどね」
「レディメイドの勉強をするのですね? 私やってみたいです」
少し興奮ぎみで話すエレンを、ハヤトは笑顔をひきつらせて言う。
「エレンは、夜にはここに戻るんだよ」
「いやです、それでは朝御飯が作れません」
……やはり。寝泊まりするつもりでいたのか。
「エレン、あのね、結婚していない男女は同じ部屋で寝ないよ」
ハヤトが顔をひきつらせながら言うと、エレンはプウと頬を膨らませた。
「どうせするのですから問題はありません!」
……何をするって?
ハヤトはヒヤヒヤしならニコラスの顔色を伺っていた。ニコラスは給仕から書類を受け取りハヤトに渡す。
「それというのも私の所有しているアパートがあって、丁度一部屋空きが出たんだ。前の住人が家具をあらかた置いていったのでそのまま住めるよ。次の募集をかけるまえにハヤトが使うといい」
ハヤトは渡された物件の写真や間取りを興味深く見る。湖の畔で、店などが並ぶ観光地とは少し離れた別荘地のようだ。
「借りるのではなく、空き部屋運用でしたか。なら少しだけお世話になろうかな」
「まあ本宅の客部屋を空けてもいいけどね」
言われてハヤトは無いと首を振った。ハヤトとしては使用人部屋で十分で、客部屋などとんでもなかった。
「なあ、それって、湖畔までエレンの活動範囲が広がったということか? ロンドンとかに観光に連れていってもいいの?」
「エレンが望むなら」
エレンはわっと喜ぶ。
「行きたいです!」
ハヤトは書類をニコラスに返しながら、もうしわけなさげに聞く。
「あの……エレンの生活費は……?」
「それはもちろんこっちが出すよ。エレンの勉強のためだから、部屋の光熱費もね」
「やった。助かる。ならお世話になる」
金にがめついハヤトを、ニコラスは頼もしく思う。
「エレンは湖畔に寝泊まりするなら、そのつどバトラーに連絡を入れるのだよ? こっちでの食事の準備などが変わるからね」
「では、バトラーには私の食事はいらないと告げておきます」
それを聞いてハヤトは水を吹き出した。
「はい、私はずっとそこに住みますから!」
「夜は家に返すからね?そのへんはちゃんとしないといけないよ?」
「ちゃんととは何でしょう。私が帰らねばならない理由を説明をしてください」
「……うわぁ」
ハヤトは困ってニコラスに助けを求めるが、ニコラスは応じなかった。
「えーっとですね。俺は結婚前に女性に触れる気はないよ」
口に出すと頭に血が上る。これを話すと自分が女性経験の無いことを告白することになるだろう。
「触れるとは、手ですか?」
全然分かっていないエレンを、ハヤトはちょっと 待ってと止める。
「セックスだよ。子どもを作るような接触のこと」
エレンはそれが何か分からないかもしれないが、ニコラスには分かるだろう。ハヤトは顔を赤らめながら説明する。
「俺は父親がいないんだ。母が旅先で身ごもったから認知さえもしてもらってない、ずっと私生児として生きてきた。それは子どもにとっては呪いのようなものだったので、俺は絶対に婚前交渉はしない。エレンは夜には家に帰るべきだ」
全部言い切って、ハヤトはそっと息を吐いた。
「しないならよいではないですか。私はハヤトの側にいたいですよ」
「間違いが無いとは限らないので、帰します」
「むぅ……」
ニコラスは笑ってはいけないと思うが、二人のやりとりが微笑ましくて、緩む口を隠した。
「こちらとしては、ハヤトのポリシーは助かるよ。エレン、ハヤトはちゃんと周りの見える冷静な判断が出来る人なので、自分のしたいことよりハヤトの意見を優先しなさい。その辺は二人で決めていいよ」
「……はい」
「エレンの素性は伏せたまま、婚約者という事にして部屋を借りるといい」
……婚約者。なにそれ照れる。
ハヤトは何とも言えずに黙って頷いた。
「あ、でもずっとこっちにはいられないからね。学校にも行くし、バイトもあるので」
「はい、その日はお帰りをお待ちしております」
エレンが嬉しそうに笑うのを、ハヤトはまぶしく思って見た。
湖畔の部屋はエレンの家事能力を心配してのことか、ニコラス様があてがった新生活の練習の場だ。まあ、使用人のいない生活に慣れてもらうのに良いチャンスだとハヤトは思った。