もう一つの終り
今の私に何ができるか。いつまでも悲しがってはいられません。病院で出会った、面白い話をしてくれる同い年の男の子。勇気を与えようとしていた男の子。今はもういない、男の子。私は、彼の与えてくれる勇気をないがしろにしてしまいました。仕方がありません。結局は、別々に生きてきた人間です。どんなに色々と言われても、私に手術を受ける勇気は起きませんでした。つい先ほどまでは。
結論から話しましょう。私は手術を受けました。なぜ受けたか、あれだけ怖くて何年も、拒み続けてきた手術をなぜ受けたのか簡単です。今となってはもういない、大切な彼から受けた勇気を、惜しみなく注ぎ込んだからです。手術を受けると伝えた時、その背広の決まった父親は、その上品なワンピースをまとった母親は、白衣を着た主治医は、皆驚いていました。看護師の方だけは、柔らかい笑みをこちらに向けていました。「やっと決心してくれたんだな。」「この手術が成功すれば、あなたは普通の女の子になれるのよ。」そう口々に発します。泣いていた、と思います。心情をくみ取れば、今までも私の見えないところでなぜ手術を受けないのかと涙していたのでしょう。でも今は、私のいる場でわんわんと涙を流してくれています。愛すべき家族。愛すべき両親。今まで時間がかかってしまってごめんなさい。どうしても怖かったの。それは本心からくる、簡単にして複雑な感想でした。
手術は成功しました。経過観察を終えて、私は数年ぶりに病院という檻から解放されました。最強です。もう誰も私を止めるものはいません。
その後の生活ですが、我ながら本当に普通と形容してよかったでしょう。高卒認定を取得し、入院時代に蓄えたたくさんの知識を惜しみなく発揮し、某国立大学に入学しました。ですが、もちろんあの時の男の子はいません。恋人などと浮かれた存在もできることはなく、就職活動を経て大手旅行代理店に就職しました。
もう若いころの病気の後遺症はなく、普通の大人になっていきました。合コンという者にも参加しました。なんとかパーティというものにも、誘われていやいや参加しました。何も楽しくありません。彼はそこにはいないのですから。それでも私は、生きるため、もとい、大人を過ごせなかった彼の分まで精いっぱいその「生活」をしました。
今でも連絡を取り合うのは、彼のお姉さんと、怜という彼の友人だけでし。今となっては住む場所こそ違えど、定期的に連絡を取っていて、会える機会があれば食事などしています。
「倉橋ちゃんさー、彼氏はできたの?」怜君がそういいます。「できませんよー。」と反応すると、お姉さんは「和ちゃんならかんたんにできるでしょー。もったいない」といいます。
「私には好きな人がいますから。」
そういうと、二人とも何とも言えないいい表情をします。「でもさ、」おねえちゃんが言う。「もうこの世には、いないんだよ。」最終的に二浪して私と同期で同じ大学に入学したおねえちゃんは言います。私は、とりあえず黙ります。怜君が言います。「代わりに俺と付き合う?」私は笑顔で断ります。怜君も、笑顔で返してきます。
「まあ、好きなように生きたらいいさ!」
そういって、いつもの飲み会は完結します。
それからも、未来永劫、私の人生に大きな変化はありませんでした。仕事はそつなくこなし、たまに彼らとお話をして、そして時間だけが過ぎていきました。私に交際を言い寄る殿方もいました。私は丁重にお断りをしました。両親も心配しているようでした。でもこれは、私の人生です。私がいま生きているのは、今は亡きあの人のおかげなのです。この人生を終えた時、何かあるかもしれない。次のターンまでの、長い長いインターバルのように感じていました。もちろん、周りの人にそんなことは打ち明けません。気がふれたと思わるのをひどく嫌いました。
初老も過ぎたころ、相変わらず人生のベテランに足を踏み入れている怜君やおねえちゃんとお話をします。と言っても、もうこの年では夢うつつを語ることもありません。おねえちゃんも怜君も、人生を共にする人を選び、家庭を持ち精一杯楽しく生活をしています。私にはまだそういった人はいません。というより、そういった人を作ることはもう拒み切っています。
社会人の生活が、終わりました。まっとうしました。これでいいのです。私は職を変えることなく、最終的には会社の相談役員の一人にまで上り詰めました。後はゆっくりと時間を過ごすのみです。ここまで長かった。それでも、あっという間だったような気もします。こんな途方もない時間を与えてくれた人は、もういません。それでも、それを辛いと思うことはなく、ここまで来ました。我を忘れて働き切った自分に、今日は乾杯です。
私は、前々から行っていた終活というものを体現する年齢まで来ました。おねえちゃんも怜君も、まだ私をお見舞いに来てくれます。みんなずいぶんと老けて、いいおじいさんとおばあさんです。私は、やはり少し早目に目を閉じる日が来そうです。
「和ちゃん。天国に行ったら、悠のことよろしくねえ。」
ゆっくりとした口調で、おねえちゃんが言います。
「あれは果たして天国にいるかなあ。」
怜君が言います。
一人身だって、最後まで見てくれる人がいます。こんなに幸せなことがあるでしょうか。
こんなに幸せな人生があるでしょうか。
私は目を閉じます。いままで、ありがとうございました。
繋がれている機械は、その下降線を、水平の直線へと変化していきます。一定の音が機械から出ています。
私の人生は、ここで幕を引きました。