終わり
日々は―スピードを増した。ゴール(というには前向きすぎるか)が見えているのでは1日1日がすぐに終わる。一方で、体調は良好だ。本当に死ぬのか?
それからというもの、それでも訪れる体調の波に左右されながら、入院生活は続いた。とにかく、場合によっては時間がないかもしれない。いろいろなことがしたかった。しかし、そう思うにはいささか遅かった。
自由に過ごしているときは当たり前だと思っていたことが全くできないのは、本当に不自由だ。不自由な生活をしていると、何でもやりたくなる。それでも不自由だからやることができないのは悔しいし、自由な時になぜかみしめておかなかったのかと思うとなお悔しい。世の中うまくできているもんだ。普通に下校していたあの道や夕焼けを、今はそこに立って歩くことすらできないのだ。あの駄菓子屋だって、中学以降は別に楽しいと思いながら向かっていたわけではない。でも、今はあの駄菓子屋のベンチで休憩したい。授業中なんて昼寝ばかりしていたが、勉強がしたい。授業を受けたい。なんとまあ。当たり前がうらやましい。隣の芝生は青く見える。青すぎてそれが芝なのかさえ、もはやわからない。
体調のいい日はできるだけ動いた。人と話をしたかった。一人でいては腐ってしまう。それは彼女も同じことだった。「東さん」と声をかけてくるのは倉橋さんだ。まだ手術をする意思は固まっていないようだ。日々、いろいろな話をする。学校に通っていた頃はああだったとか、こうだったとか。何もない田舎だけど、カラオケだけあって、友達と学校をさぼっていっていたり、姉と駄菓子屋へ行ったり、文化祭に参加した話なんかもした。彼女は、ずっと体が弱かったので、そういった行事ごとに参加したことはほとんどなかった。最初は、嫌みに聞こえるんじゃないかと控えていたが、どうやら本気で生の学生生活話が聞きたかったようだ。「退院後に希望があれば、手術を受ける勇気が出るかもしれない」と。彼女もいろいろな話をしてくれた。彼女は博学だ。彼女の話は、こういった療養に費やした時間に積み上げた知識や、読んだ本の話だった。彼女の世界には本しかない、みたいなフレーズはよく聞くが、彼女の場合はそれは悪い意味ではなく、すべてに感情や感想、自分の気持ちを乗せたうえで肉付けをしている。とても良い脳の使い方だ。一つも固い部分がない。しかし「だったら、手術を受けてみようよ。」と何かのタイミングで話さむと、会話は終わってしまう。
「俺が死んだら、手術受ける気になるんじゃないの?」
ある日言った。彼女は暗い顔になって出て行ってしまった。病院で生きている人間がこんなこと言っちゃいかんな。冗談じゃすまないかもしれないし。
彼女はだいぶ俺のことを気に入っていた。同世代の患者が決して多くないことと、ここまで長くいる人間も少ないからだろう。お互いどちらともなく話が弾む。そのうちに、お見舞いに来た姉や怜とも仲良くなっていった。怜なんかは「こんなにうらやましいことがあるか」と若干本気で怒っていた気もするし、そうかと思うと倉橋さんにけん玉を教えていた。だからなんでけん玉なんだよ。ボードゲームとかあるだろ。オセロとか。そういうのでよくない?
姉も倉橋さんにはよくしていた。妹のようにかわいがっていた。よく倉橋さんの髪の毛で遊んでいた。勉強も一緒にしていた。「倉橋さんめっちゃ頭いい!なんで!?」と若干本気で涙目になっていた。これはこれで、今ここでしかできないことなのか。隣の芝ばかり見てると、自分の芝がもっとすげえ色だと気づけないこともあるんやね。感慨深いなあ。
容体は急変した。もともとよくはなかった。それでも波だったはずだ。もう波じゃない。下降線だ。
意識は微睡む。この日も、確か倉橋さんと、あと姉ちゃんと遊んでいたはずだ。すごく遠くから声だけ聞こえる「…ちゃん…ちゃん!!!」「…さん…ずまさん!」
まってくれ、俺はまだやりたいことがたくさんあるんだ。高校を卒業するだろう?大学に進学するだろう?高校の時とはまた違う友人ができるだろう?お酒も飲んでみたい。煙草も吸っちゃおう。友達とは毎日飲んで、遊んで、愚痴言って、やっぱりカラオケに行って、俺の地元にはないボウリングしたり、ダーツやったり、朝まで遊んで、それでやっぱり飲み会してみたり。社会人にもなりたい。つまらないかもしれない。でもやったことないんだよ。社会人。上司と言われる野郎にどなられたい。怒鳴られた後に飯に連れて行ってほしい。それでまた明日からがんばるか!ってなりたい。俺はまだお手伝い程度のアルバイト以外したことがない。大人を全うさせてくれよ。あとあれだな。結婚式にも出たい。友達の結婚式に呼ばれて、ご祝儀を払うのをためらいたい。ためらいながらもしっかり払いたい。友達の幸せを祝いたい。二次会でもっとフランクに飲みたい。おめでとうって。心から祝いたい。なんなら自分も結婚したい。相手は知らん。子供もほしいよ。子供を立派に育てて、男の子だったらキャッチボールしたいし、女な子だったら連れてきた恋人にお前に娘はやらんって言いたい。その直後に許すけど。老後を過ごしたい。もう何もすることがなくて、庭の畑をいじりながら縁側でお茶を飲みたい。隣におばあちゃんになった奥さんを携えて。それで看取ってもらいたい。そんな人生。普通の人生。普通だけれど、普通じゃない人生。そこまでできれば役満だ。こんな人生を全うできるって、果たしてどれだけの確立なのだろう。
もう厳しい、思考はそろそろ、まとまっていないようだ。みんな、お疲れ。俺はここまでだ。またやり直せても、皆と一緒に生きられるかな。みんなと笑いあえるかな。
下降線は、水平の直線へとかわった。一定の音が機械から出ている。
俺の人生は、ここで幕を引いた。