今日君と星降る丘で
ナディル=オディントンは水平線を見つめていた。去年の夏に始まった戦はまだ続いている。北の戦況はどうなっているのだろうか。肌寒い夕方の風が、彼女の豊かな亜麻色の髪をゆらしていく。そう、もう一年が巡り、秋になる。彼女の紫紺の瞳は見えない前線を見据えているかのようだった。
ここは、彼女の邸宅の裏にある小高い丘である。今はもう亡き祖父は退役した後、父が戦線に出るたびにあまり動かない足を引きずって丘に登りここから戦線のある方角を見ていたものだ。今はナディル一人で同じように水平線を望む。
そろそろ、帰らなくては__
彼女が瞳を伏せもう一度上げた時だった。
遠い彼方、もう日も落ちて薄暗くなった北の空が赤く染まったかと思うと美しい隕石が降ってくる。
__彼だ!
ナディルは歓喜した。彼はまだ生きているのだ!
北を守る辺境伯の一人娘である彼女には婚約者がいた。名をランドールと言う。彼は20歳にして筆頭魔導師となり、現在22歳、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いに乗っている人物である。二つ名を流星の魔術師という。貴族でなかった彼がナディルの婚約者になれたのは、この二つ名の由来が元である。
彼は極大魔法である流星群を一人で行使することができる唯一の魔術師だった。
その出会いは一昨年に遡る。まだ15歳だったナディルにそろそろ縁談をと、父がかたっぱしから見合い話を持ち込んだのだ。彼はその中の一人だったが、有力な候補ではなかった。しかし、奥手だったナディルは男性の前に出ると緊張してうまく話せなくなってしまい、ほとんどの話は流れてしまっていた。
父とナディルは困っていた。母はすでに他界しており、母を愛していた父は後妻を娶らなかった。そのため子供はナディルひとり。北の帝国とは緊張状態が続いており、いつ攻めて来るかわからない。そんなときに血を絶やし、辺境伯を空席にするわけにはいかなかったのだ。
その日、ナディルは憂鬱だった。縁談は失敗続きに終わっており、彼女は自信を失っていた。__ここは戦線にもっとも近い。縁談が失敗しているのは、危ないところに子を出したくないという貴族たちの親心も働いていたのだが、知る由もなく、彼女はひたすらに自分を責めていた。失恋続きのオディントン。噂好きの令嬢の心無い言葉を聞いたのせいもあった。
「今日はお客様が来るよ」
父の言葉に頷きつつも気づいたら邸宅の裏の丘に逃げるようにして来てしまったのは反射的な衝動だった。
彼女がいつものように丘を登るとそこには先客がいた。黒い髪に黒い瞳の__ナディルよりも年上の男性だった。
彼は人が来たことに驚いて振り返ると罰が悪そうに言った。
「どうも。お邪魔しています」
「……ど、どうも」
ナディルはカチコチに緊張していた。頭の中は真っ白でどうしよう、どうしようという言葉だけが回る。
青年はそんなナディルを見ると、一瞬目を見開き、それからまじまじと見つめた。
「ねえ、君、こっちを見て」
彼は少しだけ距離を詰めると自分の指先をナディルの目の前に突き出す。
「いくよ?見ててね?」
彼がパチンと指を鳴らすと指先に二羽の青い小鳥が生まれた。二羽の小鳥はさえずり、くるくると踊る。
「すごい!魔法!?」
ナディルはもうびっくりして、自分が固まっていたのも忘れて愛らしい小鳥に手を伸ばす。だが、彼女の指は空を切った。
「残念。ごめんね、触れなくて。これは幻惑魔法なんだ」
「それでも、すごいわ!」
パチパチと手を叩きながら、心から賞賛すると彼は困ったように頭をかいた。
「君がナディル=オディントン?」
「そうよ。もしかしてあなたも噂を聞いたの?私が失恋つづきのオディントンよ」
自嘲的な笑みが浮かぶ。
「私は男性を楽しませることが出来ないんですって」
口から一度言葉が溢れてしまうともうだめだった。気づいたら彼女は初めて会った男性にいままでの事の一切を全て打ち明けていた。
彼は時折うん、うんと相槌を打ちながら、彼女の愚痴を聞いてくれた。
「ありがとう。聞いてくれて。楽になったわ」
胸につかえていたものが失せ、清々しくなった気分だ。
「いやいや。このくらいならいつでも聞くよ。それにしても噂ほど信じられないものはないね」
「やっぱり私の噂をきいたのね?どんな噂なの?」
さっと青ざめると、彼は慌てたように言った。
「いや、その、聞いたのは、その、君があんまりにも魅力的じゃないから見合い相手が逃げ出してるって…いや違くて!これは僕の主観だけど。君はとても、その、魅力的だと思うよ!」
最後の方はやけくそになったように早口で彼は言った。
「僕はランドール。魔術師だよ。君の今日の見合い相手だ」
ナディルは驚いてはしたないことにも、あんぐりと口を開けてしまった。
「よろしくしてくれるかい?」
彼は困ったように笑う。
「正直気乗りがしなくてこんなとこにいたんだけど、この話、君さえよければ受けるよ。ただ__」
__結婚は待ってほしい。彼は言った。
遠くを見る目をして彼は話す。
「じきに北で戦が始まる。その時に君は僕の本当の姿を知るだろう。それでも心が変わらなかったら__結婚しよう。」
ナディルはその時は意味がわからなかったが、ランドールがとても真剣な顔をして言うので
「わかったわ」と、ただ頷いた。
彼はほっとしたほうな顔をして行こうか、とナディルをエスコートして邸宅に向かった。
結果的に言えば彼の見立ては正しかった。北の情勢はぐんぐん不安定になり、とうとう戦がはじまった。指揮をとる父も、そして少し遅れて彼も戦線へと向かった。
最後に会ったのもこの丘だった。その時彼は言った。
「僕は人を殺して来る。いや、人を殺しに行くんだ」
きっぱりとした口調だった。彼の表情は逆光で見えなくて、ナディルはただ一言
「ご武運をお祈りしています」
と告げた。彼は何か物言いたげにしていたと思う。けれど何も言わず戦へ向かった。
彼はきっと優しい人なのだ。ナディルは考える。北の辺境伯が人を殺さないことなんてない。父もまたしかり、亡くなった祖父もしかり。
彼は__後悔しているのだろうか?
ナディルの婚約者になったことを。ぼんやりと考えながら今日も水平線を見つめる。あれから、最後に流星群を見てからもう6日が経っていた。
__ランドール様、ご無事ですか?
ナディルの胸は張り裂けそうだった。また、不安な、夜が来る。
「ナディル!」
その時だった。後ろから懐かしい声に呼ばれる。
「ランドール様!?」
近づいて来る彼を見ても夢でも見ているんじゃないかと思った。
「ランドール様、よくご無事で……」
あとはもう声にならなくて、数歩を残して立ち止まった彼に駆け寄って抱きついた。彼の身体がびくりとこわばる。
「まさか、どこかお怪我でも?」
ナディルは慌てて離れて彼を上から下まで眺める。さっき抱きついた彼からは泥の匂いがしていた。よく見れば装いも旅装だ。戻ってからその足で来てくれたのかもしれない。
「いや、どこも怪我はしていないよ。それより君に聞いておこうと思って。」
「聞きたいこと、ですか?」
真剣な眼差しだ。彼は何か__大事な話をしたがっている。
「私に答えられることでしたら」
辺りは薄暗くなってきていて、彼は腰のランタンに火種を灯す。
「君は何度も僕の流星群を見ただろう?」
「伝令鳥を迂回させて見させてもらったよ。君はいつもこの丘から北を見ていた」
「心変わりはしたかい?」
彼の単刀直入すぎる問いにふるふるとかぶりを振る。
「なぜそのようなことをお聞きになるのですか?私が見ていたことを知っていたのになぜ?」
ナディルは泣きそうだった。
「毎日ランドール様のご無事をお祈りしていたのです。なぜ__不貞を疑われなければならないのですか!?」
彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
顔がボンと赤くなって、いや、とか、違くてとか呟いている。
コホンと咳払いを一つして彼は言った。
「いいかい?ナディル、僕の流星群は人を殺した。虫けらのように、だ。あれはもう、人対人の戦争じゃなかった。僕は兵器みたいなものなんだよ」
__恐ろしいだろう?と言って彼は寂しげに微笑んだ。
ああ、やっぱりランドール様は優しい人なのだ。敵国の兵に心を砕くような。
「私は恐ろしいものなど見ておりません」
「私が見たのは、希望の星です。私はあの美しい流星群を見るたびに、ランドール様がご無事なのだと知って歓喜したのです」
彼は驚いたような顔をしてこちらを見た。ナディルは続けた。
「ランドール様、私は、罪深い女でしょうか?あなた様の無事を喜び、敵国の兵の死を傷まなかった私は酷い女ですか?」
「……ナディル」
彼はなんと言ったらいいのかわからないような泣きそうな顔をした。
「伝令鳥を飛ばして祈る君を見るたびに、生き延びなきゃ、と強く思った」
ぽつりと彼が話し始める。
「僕がここに帰ってこれたのは君のおかげだ」
「戦に出てはっきりわかったんだ。僕は君が、好きだっ」
ナディルは息を飲んだ。暗闇でもわかるくらい頬が染まっている気がする。
「僕の手は真っ赤な血に染まっている。それでも君は、この手を取ってくれると言うのかい?」
彼は震えていた。ナディルはその手をそっと掴んで指を絡めた。そして告げる。
「ランドール様、お慕いしております」
本当はあの日からずっと、ずっと__
彼の手に頬を寄せる。
「私の心を救ってくれたのは紛れもなくあなたでした」
「ランドール様の手が血に染まっているというのなら、私は夫となる方を血に染める運命を持つ呪われた女なのです。」
「そんなっ……」
「私達はお似合いでしょう?」
笑ってみせる。
優しいあなたが背負いきれないなら、
「その罪を共に背負わせてくださいませんか?」
彼は黙っていた。そして__ありがとう。小さな声が聞こえて、ナディルはランドールにすっぽりと抱きしめられていた。
辺りはすっかり暗くなっていて、互いの息遣いだけが聞こえる。布越しに体温を感じて、あたたかい。ナディルがふと上を見上げれば、星が、流れていた。
「見てください、ランドール様」
ナディルが指差した先で、星が次々と流れる。
「とてもきれいな流星群です。ランドール様の流星群と同じですわ」
「君って人は……」
彼は呆然と夜空を見上げている。
「どうしてだろうね。今、僕は確かに救われたよ」
綺麗に微笑んだ彼はもう一度彼女を引き寄せ、二人は初めてキスを交わした。
心が通じ合った二人をまるで祝福するかのように、美しい星が降っていた。