第6話 心に鍵を
私は玄関へと向かって走っています。
早くあの人に会いたくて、手に持っている胡蝶蘭を投げ出して走っていきたいと思いました。
もちろんそんなことは出来ませんが、一歩、また一歩と足を前へ進めるたびにもどかしい気持ちよりも喜びが大きくなっていきます。
「えっ?」
しかしそんな気持ちは玄関を見た瞬間に消え失せてしまいました。
足がゆっくりと止まります。
エリックさんが知らない女性と腕を組んでいるのを見てしまったのです。
その女性は艶のある黒髪を一つに結わえてありました。顔も整っていて、エリックさんとの釣り合いも取れています。
二人で笑っているところを見ると、まるでアズマイチゲとカタクリのようにむつまじいのでした。
そう、私の入る隙間もありません。
私はそのまま玄関へと向かう勇気がありませんでした。
気がついたら胡蝶蘭を抱え、自室に戻っていました。
あまりに衝撃的だったのかうまく考えることが出来ません。
「どうして……」
口からはその言葉しか出てきませんでした。
「なんで……? どうしてなの!?」
私は力をなくしてその場に座り込み、壁に背中をあずけました。腕からも力が抜け、胡蝶蘭が転がってしまいます。
しかし、それを直す気力すらも私にはありません。
時間が刻々と過ぎていきます。
私はエリックさん専属の使用人ということになっているので、エリックさんが帰ってきた今、本来はそばについていないといけないのですが誰もそれを注意するためにここの部屋に来ません。
きっとあの女性のことが騒ぎになっていて、私のことなど気にしないのでしょう。
しかし、今はそれがありがたいと思いました。
もし呼びにここまできても、私はエリックさんと顔をあわせることが出来ません。
こんな時、私の心はエリックさんの存在の大きさに気づかされてしまいます。
唯一の救いだったのは涙が流れなかったことです。
こんなことで泣いてしまったら、彼が結婚してしまったときにどうなってしまうのでしょう。衝撃はこんなものではすまないはずです。
そんなことを考えながら、私はずっと床に転がっている胡蝶蘭を見つめていました。
それからさらに時間は過ぎ、外は暗くなっていきました。
完全に考えるということを放棄したとき、誰かが部屋に入ってくることが分かりました。
なくなっていた思考力が少し戻ってきて、かすかな希望を私の胸に与えました。
もしかしたらエリックさんかもしれない、そう考えてしまいます。
「おい! なにやってるんだ!?」
しかし私の願いは届きませんでした。
扉が開いた先にいたのは柴田さんだったのです。
柴田さんも最初はどこにもいない私を心配していたようですが、目の前の胡蝶蘭をみて怒りをあらわにしました。
「なんで胡蝶蘭がこんな風になっているんだよ!」
柴田さんはそうとう怒っているようです。それはそうでしょう。胡蝶蘭は横に倒れていて、柴田さんが持っていたときよりも元気をなくしていたのですから。
けれど私はそれについて何も思わなかったのです。
そう、まるで心がなかったときのように。
感情がでてこないと気づいたとき、私の心の奥から鍵が閉まる音が聞こえた気がしました。
それは感情を二度と出さないように何重にも鍵をかけます。
私があまりにも何も言わないので、柴田さんが私のことを気にし始めました。
「どうかしたのか?」
さっきまで胡蝶蘭の方をずっと見ていたというのに、今はこちらをみています。怒りよりも私が不自然なことの方が気になったのでしょう。柴田さんの前では返事をしない、感情がないなど一度もありませんでしたから。
しかし、私にとってはこの状態で生きていた方が長いのです。
「いいえ、なにもありません。心配なさらなくても平気です」
口が笑う形を覚えていたのか自然とその形になります。
「そうか?」
柴田さんは頭をひねるものの、私の言葉を信じたのかそれとも笑顔だったからなのか分かりませんが、自分を納得させたようで再び胡蝶蘭と向き合いました。
私はその様子をみて、口が笑う形を覚えていれば感情を無くしたことを気づかれないのかもしれないと思いました。
そんなことを考えながら、私はさっきまでが嘘のように頭が冴えきって、妙に冷静になれる自分に気づいたのです。
これからどうなるのでしょうか。
作者としても心配です。
では、次回にまた会いましょう!




