「魔法」と「現実」
「魔法」とはいったい何でしょうか。
「魔法」は「特殊な力」を行使する能力とそれにまつわる知的体系です。
現実の歴史において、「魔法」は「科学」を生みだす母体となり、「科学」に駆逐されるように衰えていきました。
ある意味、「科学」は「魔法」の嫡出子であり後継者です。
では、「科学」は「現実」の全てを体系的に説明つけることに成功したでしょうか。
決してそんなことはありません。
まず、人文科学や社会科学は、自然科学と較べて科学的方法論を厳密に適用できないとされています。
これらの学問の権威は格段に劣るのです。
そして大学で研究される学問の外に、知的世界は遥か広大に広がっています。
ここにはかつての「魔法」の残滓が無数に残っています。
現在、「魔法」は、非科学的な迷信とおとしめられています。
大半はまともな効用が認められないからであり、効用があるものは、「実用技術」として「科学」とは区別されながらもそれなりの地位を獲得しています。
この意味においては、現代は「超魔法文明」と呼んでもいいかもしれないほど、さまざまな力を行使する知的体系にあふれた時代です。
ただ、それを「魔法」と呼んではいけないという厳しい縛りがあるだけのことです。
「異世界」物語においては、「精神」が直接物理法則に干渉することで「魔法」が実現しています。
「現実」においては、原則これは不可能ということになっています。
しかし、物理法則を利用したいなら「科学技術」でたいがい間に合います。
「異世界」的な「魔法」はかなり特殊なもの以外不要でしょう。
「精神」が「物理法則」以外の場で力を発揮することはないでしょうか。
実はこれは無数に存在しています。
芸術やエンターテインメントは人の心を動かします。
これはまさしく力の行使であり、「魔法」の一種です。
「科学」では説明できず、再現もできず、社会に大きな価値を生み出します。
政治や教育も、人を動かす力があります。
「科学」で説明できないにもかかわらず圧倒的に影響力を持つ「魔法」の一種です。
宗教や伝統的な権威についても、「科学」の埒外にあります。
親の権威も人間の尊厳も「科学」の埒外です。
これらが無秩序でなく、それなりの価値を連綿と伝えてきていることは「魔法」と呼ばざるを得ないでしょう。
「科学」自身の権威も「科学」そのものからは生まれません。
「科学」は「仮説の体系」であって、自らを「真理」と呼ぶことは許されていないからです。
「権威」は、「精神」が「精神」に力を行使すること、つまりは「魔法」に異なりません。
「科学」は「世界の王」のような顔をしながら、「権威」という「魔法」を行使しています。
このあたりで「現実世界」のトリックが見えてきませんか?
「魔法」を否定している側が、実はもっとも上手に「魔法」を行使しているのです。
世界のあらゆる「権力」が、「権威」という「魔法」を行使しています。
「儀式」やら「礼法」やら「格式」やらすべては古い「魔法」に由来しています。
それは抜け殻ではなく、今なお効力を発しているのです。
「魔法」は現実世界においてこそ、無数に活躍しているのです。
ぼくらの「日常」は、無数の魔法による「精神」攻撃を浴び続けているようなものです。
道路や建築物も、無数の「洗練」された「結界」や「魔法陣」で覆われているのです。
「物理的効果」はないから誰も気づかないけれど、「精神的効果」は計算され尽くしている。
ぼくらの「日常の秩序」は、国家規模、地球規模の大規模「精神魔法」があって、守られている。
あるいは支配を受けている。
これが「現実世界」の本質というものです。
「科学」だけ見ていては、何も見えてきません。